第七章――ヨトゥンヘイム⑤――
「本来、天を貫いていた世界の支柱は神々の争いの際、解き放たれた巨大狼に天王の首と共に噛み砕かれて世界のあちこちに破片が散らばった……折れた根もとの部分なのか、はたまた砕けて落下してきたほうなのかはさだかじゃないが、これは自ら熱を放っている。草木や生命を育むような熱を」
ヨトゥンヘイムが雪深いところにありながら、積雪が少なく草木が多いのは世界の支柱がここにあるからだったのだ。
(――ヴァナヘイムのもそうだったんだろうか)
フェンリルの記憶にある世界の支柱は泉の底だった。水はよくよく澄んでいたが生き物がいたかはさだかではない。冬は当たり前に凍えたし、春の芽吹きや夏が特別長かった印象もない。
覡巫がそこで祈祷をする為、儀式ごとの際にしか近づかないように言いつけられており、間近で泉を覗きこむことはまれだった。水底に沈む淡く光る琥珀色よりも、泉から空へと伸びる光の束のほうにこそ見覚えがあった。
あの光は昼日中よりも夜の闇の中での方がくっきりと際立つのだ――
「この世で唯一、天王と地帝が互いに手を取り合って創ったのが、この世界の支柱じゃ」
覡巫はあおいでいた首を戻して呟いた。
「世界の支柱を流れる天王の吐息は、地帝へのもの想いがもれたわずらいのため息。吐息と共に編まれた海は、天王に焦がれて流れた地帝のせつなさの涙よ。天と地に分かたれた互いを想い、たやすく行き来できるようにと願いを込めて編まれ、建てたられたものだった――しかしこれが折れたことで天空は――アースガルドは失われ、我々天の民は大地へと堕ちたのじゃ」
歌を語り継いで聞かせる時の、眠たくなるような口調だった。
「我々が今もなお地帝の――女神の懐で生きていけるのは、天王への思慕がとこしえである証じゃな。我々は皆天王の子ども。添い遂げることこそかなわなんだが、かわりに女神は慈しんで下さっておる」
「――慈しむ?」
フェンリルは思わず声が鋭くなった。
「蔑むの間違いだろ。だからこんな世の中なんじゃないか」
覡巫がフェンリルの方へと向き直った。白濁した瞳は奇妙な光を帯びていた――魂の半分がすでにここには無いような、ぞくりとするようなまなざしだった。
「世界をこのような有り様にしたのは人の行いよ。神々がこうせよと、おおせになられたわけではない……たとえばお若いの。お前さんが負ったその胸の傷とて、つけた相手は人だったはずじゃ――神ではなく」
ぎくりとしてフェンリルは胸元をおさえた。覡巫の盲たはずの眼に何が映っているのかはわからないが、気分の良い指摘とは言えない。
だがこれから五日も、ふいにぽきりといってしまいそうなこの老人の見透かすまなざしと、対峙しなければならない。さっそく嫌気がさしてきた。
「まったく。相変わらず眠たくなる」
エイナルがため息と共に言った。
「どうせ似たようなお説教ばかりなんだから、その辺で勘弁して下さい。つまらないですよ」
「この不良めが」
覡巫が途端に顔をしかめて、側に横たえていた杖をエイナル目がけて振り回した。
「覡巫の家に生まれておきながら、神話をなんと心得とるのだ――お前に跡を継がせるなど、先が思いやられるわ」
「私は私なりに説教するので、ご心配なく」
「何をこの生意気な」
エイナルはなんなく覡巫から杖をとり上げた。フェンリルは、穏やかな好々爺から癇癪持ちの頑固爺への豹変ぶりに、呆然とした。どうにもこれが通常どうりであるらしい。
ふんと鼻息を荒くし、ぶつぶつと覡巫がぼやいた。小柄な体がさらに小さくなったようだった。
「お前の話なぞ屁理屈でしかないわ、できそこないめが。神々の神秘を斜に構えて馬鹿にしおって」
「私は別に不信心ではなく、天空が失われたという教えに納得がいかないだけですよ。だって我々が見ているあれはなんですか」
エイナルが指さす先は真上だった。日は西の空に沈みつつあり、早くも星ぼしと白い月が浮かび始めていた。
フェンリルは見たままに答えた。
「空だ」
「そう、空だ。私が考えるに天空は失われていない。あり方が変わっただけだ。たとえばそうだな――かつて、世界とはこうだった」
「真面目に聞くでないぞ。お若いの」
覡巫の忠告は無視された。フェンリルがうさん臭げに見つめる中、エイナルは両手の平で椀の形を作り、胸の前で上下に掲げた。
「天と地が明確に分かれ、その間は世界の支柱で繋がっていた――空とは双方の間の、空洞を示すもののはずだった」
そこを太陽と月と星ぼしが、雲をまといながら互いにぐるぐると回って昼と夜とが交代する。誰しもがおのずと歌で耳にし、絵で見る創世の図だった。
「だが支柱は折れた。そして天空は堕ち、失われて、この世は大地のみとなった。それが我々の知る神話だ」
上に掲げた手のひらを下げて、両手で大きな椀の形を作る。これも、知っている形だった。女神は両腕を広げて、空をも包み込んで自らの民の糧にしたのだ――
「だが私はこう考える」
そう言うと、エイナルは両の手の平を重ね合わせた。
手の中に拾ったひな鳥でも隠し持つかのようなその形に、フェンリルは首を傾げた。
「覆われた?」
「というよりも、重なった。天空は確かに堕ちたんだろう。けれど何も横倒しになったわけじゃない。そのままの形で大地と重なり合ったんだ――ひとつの球になるように。だから、アースガルドは失われていない。我々が見上げている、空こそがそれなんだ」
「たわごとじゃ」
覡巫が苦々しく吐き捨てた。エイナルは意に介さず続けた。
「神々は本当は世界を二つに分けるのではなく、このような形にするつもりだったんじゃないだろうか」
「なんでそう思う」
「だってほら――丸い形と言うのはそれだけで完成しているじゃないか」
「どういう理屈だよ?」
「だが神々は世界を創りあげる前に、この世から去ってしまった。争い、世界の支柱を砕き、互いの民だけ残して」
エイナルは、嵐のあとの空そっくりの灰色の目を細めた。
「我々が生きるこの世は――世界とは、未だ、未完成なのかもしれない」
「……あんたの話はよくわからない」
あまりに確信めいて言うものだったからつい聞きいってしまったが、フェンリルはいよいよ頭が痛くなってきた。そもそも難しい話は得意じゃないのだ。
「たわごとじゃ」
覡巫が再び言った。
あたりはすっかり暗く、世界の支柱の淡い光がまばゆくなり始めていた。