第七章――ヨトゥンヘイム③――
彼の深い濃紫の瞳は鋭さを帯びると、光の届かない海の底のようだった。たとえ優しげな笑顔の中にあっても、ひとかけらも慈悲はなく、受けとめる者の意思をくじく。
カザドはそんなまなざしを、真っ向から見返していた。
「あいにくケヴァンたちと違い、俺にはあんたの言うことが一言一句、うわっつらに聞こえてならんな。どれほど信心深く振る舞まってみせようと、歪んだ性根までは変えられん。そう思わないか?」
「よさんかブラギ。子供らの前で」
ケヴァンが眉根を寄せて抗議したが、ブラギはカザドを睨んだままだった。
(なんだ?)
ブラギの声から放たれるものにフェンリルは困惑した。どうしてかブラギはカザドを嫌悪し――軽蔑さえしていたのだ。
戸惑うことはまだあった。ブラギがそのような振る舞いに応じる訳を、ケヴァンが少なからず周知しているらしいということだ。あるいは静観するエイナルも、知っているのかもしれなかった。
(どうして――)
しかし次にブラギが言ったことで、それらの疑問は吹き飛んだ。
「おおかたあんたこそが、その子が家族と死に別れる要因を作ったのじゃないか? 連れ回してきたのは罪悪感からだろう。だがな――あんたが何をしようと、なんの弔いにも慰めにもなりはしない。――犬死にしてこそ、それは果たせるというものだろう」
「よせというに、ブラギ!」
ケヴァンが声を張ったのと同時に、フェンリルが立ち上がっていた。
ひゅう、とどこからか入り込んだ冷たい風が、その場の者たちの頬を撫でる。自然と上座を見下ろす形になったフェンリルを、ブラギが驚いた表情で仰ぎみた。
「人を馬鹿にするのも大概にしろよ。おっさん」
フェンリルが低い声でもらした。あの夜のすべてを否定するような、これ以上ない侮辱だった。黙って言わせたままにしていいはずがない。
フェンリルの目がみるみる凍てつき、突き刺すような剣呑な気配を纏う。よくない流れを察して、トルヴァが身構えた。
「フェンリル。座れ」
カザドが静かに命じた。
「ああ?」
「長殿に向かってなんて態度だ。――座れ」
フェンリルは睨みをきかせたが、カザドは頑として譲らなかった。
そのうちにフェンリルの方が折れた。目つきは鋭いまま、どかりとその場に座り込んで胡坐をかく。
「ばか」
トルヴァが小声で毒づいたが、フェンリルは無視を決め込んだ。
これ以上の問答は無用だとつっぱねたかったのだが、なんとカザドが頭を下げだしたのでそうもいかなかった。
「――長殿の言うことはごもっともだ。何を言われても申し開きできん。だが、俺がやったことの咎めは、俺一人が受けるべきことだ。この子らがこの集落に受け入れられ、成人の儀を行えるかどうかとは無関係だろう。よってどうか――どうかお願い申し上げる」
深々と頭を下げるカザドを、しばらくの間誰も口を開かず見つめていた。フェンリルとしては、一刻も早くこの場を立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。
ブラギの発言はカザド以上に無礼だと思ったし、言わせたままにしているカザドの行動も信じられない。
とりあえず、移住の話は無かったことにして良い気がした。
「もうよしとくれブラギ。ヨトゥンヘイムの面汚しになっちまうよ」
ふと、天幕をまくり上げて、としなりにふっくらとした中年女性が現れた。その場の全員がふり返り注目する中、彼女は続けた。
「そして早く、うちの人を返しとくれ。こちとらこの一月近く、気が気じゃなかったんだから」
「グズリ!」
今度はケヴァンが立ち上がる番だった。
ケヴァンは大きく腕を広げて歩みより、グズリと呼んだ女性を抱きしめた――そして人目もはばからず、ついばむような口づけを相手の顔じゅうにお見舞いした。
「おお。わが満ちたりた月よ! いま帰ったぞ!」
「わたしの明るい暖かなお日さま。どれほど無事を祈ったことか」
グズリは満面の笑みで、つかの間ケヴァンとの抱擁を堪能したのち、びっくりして彼女を見上げる子供たちの顔を見つめた。
やがてダインとロッタに視線をぴたりと合わせると、二人のもとに腰をかがめてその頬に触れ、感情豊かな目元を潤ませた。
「マリッタとアルトゥルの面影がある――ひと目でわかったよ、ダインとロッタだね。わたしはグズルーン、あんたらのおばさんだよ。あんたらのととさまとかかさまの結婚式は、今でもありありと思い出せる。わたしがマリッタを綺麗にしてあげたんだよ――よく来たね、本当によく来た。もうなんにも心配はいらないよ……」
グズリは目元をそっと拭って立ち上がると、途端に表情を変えブラギを睨みつけた。
「――それで? ブラギ。わたしたちの可愛い甥姪を、ここまで守りぬいてきて下すった恩人に頭を下げさせて、何をそんな意固地になっているのさ?」
「いやグズリ、これはだな――」
「ブラギがその態度を崩さないつもりなら、この淑女代表のグズルーンが、この方の後ろ盾になるよ。この方は真に悪い人じゃない。実直な方だ。見ればわかる。目の曇ったあんたには、どうやらわからないらしい。――わたしらと反発しあって、よい結果に繋がればいいね」
それはつまり彼女の意にそぐわぬことをすれば、淑女たち――長と覡巫のほかに、集落での取り決めについて決定権を持つ女性たち――全員が敵に回るだろうと暗に告げていた。
腰に手をあて胸を張るグズリには、そうやって物ごとを動かしてきた者特有の言い知れぬ度胸と迫力があり、たとえ誰であっても逆らえはしないと思わせた。
「まいったな」
旗色の悪くなったブラギが表情を歪めて頭を掻いた。
「いや、そんなつもりはなかったんだが――」
「そんなもこんなもあるもんかい! うちの人が抗議するのだって、こっちは聞いてるんだからね。だいたいブラギ、あんたはいつもいつもそうやって――」
「ああ、わかったわかった。勘弁してくれ」
困り果てた調子で、ブラギは渋面を作った。この場の主導権が、すっかりグズリのものとなっている――フェンリルは現れるなりカザドの味方にまわった彼女に、たちまち好感を持った。
「頭を上げてくれカザド殿」
咳払いをしてブラギは居ずまいを正した。そして頭を下げまではしなかったが、声を元の調子に和らげた。
「確かに来たばかりの客人に、無礼な発言だった。すまなかったな。あんたの考えは理解した。あんたの言うとおり、めでたい祝いの日をこれ以上遅らせて、良いわけはあるまい」
「では――」
勢いよく頭を上げるカザドの目に、苦笑するブラギが飛び込んだ。
「ああ、良いだろう。急ぎ成人の儀を執り行うと約束しよう。だが今日より五日後だ。これ以上はさすがに急がせられん。良いな?」
「何よりだ」
頷くカザドの表情は、わずかに明るくなっていた。
(何をそんなにこだわる必要がある……)
フェンリルは少々くさくさしながら、心で悪態をついた。
「ただな、ひとつだけ問題がある」
まだ何かあるのかと身構える一同の前で、ブラギは苦笑気味に言った。
「成人の儀において若者に贈るのは、基本長剣なのだ」
「――なんだと?」
「短剣はあまり例がない。何せ儀式の際、若者が剣舞を天王に奉納するゆえ――な?」
ブラギに先を促がされたのはエイナルだった。エイナルの薄い眉が、困ったように山の形をとる。
「儀式そのものは問題ありませんよ。ただ、剣舞の型は長剣が適しているので――短剣だと少々、見劣りがするかと」