第七章――ヨトゥンヘイム②――
招かれたブラギの天幕には彼の妻と娘たちがいて、それぞれ縫い物や糸車を回している最中だった。簡単な紹介ののち、彼女たちは手際よく敷物を整え卓を出し、湯を沸かしてお茶の支度にとりかかった。
ブラギの娘たちは平パンや硬いチーズ、炒られた木の実に茹でた腸詰め、甘く煮詰めたコケモモや蜂蜜の瓶詰めなど、次々とつまめる物を持ってきてくれた。
「見苦しい恰好で出迎えて、すまんかったな。ちょうど裏の畑に鍬を入れ終えたところだったのだ。去年は家畜が良く育ってな、堆肥が豊富で良い。今年は豊作になるかもしれん」
新しい長衣に袖を通しながら、ブラギはそのよく通る声を張った。
蒼く染め上げ長の証である文様が施された長衣に、琥珀玉の連なる首飾りを下げたブラキは、いかにも長らしい佇まいになった。豪胆そうな性格が、手ぶりや口ぶりから溢れ出ている。
卓の上座に腰を降ろすとブラギは改めて、フェンリルたちの顔を一人一人確かめた。
「地の民相手に盗みを働いて生計など、正気の沙汰とも思えんかったが――いざこうして顔を合わせてみればどうだ。皆健やかそうな若者ではないか」
ブラギは盗賊業をぐちぐちと咎めはしなかった。
前もって聞いていたから心構えができていたのか。それとも細かいことにはこだわらないたちなのか。ブラギの口ぶりでは、どちらでもあり得そうだった。
「広い集落で驚いただろう。年々人も増え、今や里と呼んでも良いくらいだ。この地の成り立ちや我々の生活について、長々と語って聞かせるのも良いが――若者にはつまらんだろうな。自分たちの目で、足で、確かめて回るが良いさ。案内役はこのまま、ケヴァンとエイナルに任せるぞ」
ブラギは彫りの深い顔立ちにいたずらっぽい笑みを浮かべて、フェンリルたちにたずねた。
「道中大丈夫だったか? ケヴァンはおせっかいで、エイナルはえらいうんちく屋だったろう。ケヴァンのこれは嫁の影響でな。エイナルはおそらく腹ではなく頭から生まれたのだ――ああ、そう言えばお前たち、家にはもう顔を出したのか?」
「あんな状態でできる訳がないだろう。これから向かわせてもらうともさ」
「おお、寄ってやれ寄ってやれ。グズリのやつめ、お前が旅立ったあとは事あるごとに覡巫の元に通って、欠かさず祈りを捧げていたぞ。この時間なら、今日もきっと同じだろうさ。安心させてやるといい。エイナルもな。おチビさんはすぐ顔を忘れてしまうぞ」
「無論、そのつもりですよ」
三人は砕けた調子で語り合った。年齢も立場もそれぞればらばらに見えるが、彼らはよく気心の知れた者同士らしい。憎まれ口でも楽しいようだった。
ブラギはお茶をひと息に飲みほすと、今度はカザドに話をふった。
「さて、お客人よ。養い子の中に成人済みの者がいると聞いていたんだが?」
「ああ」
集落に来ればおなじみの、むっつりとした態度でカザドは答えた。
「しかし皆、成人前だというのに額当てをつけとらんな。琥珀玉を下げている者もいない。いったいどの子がそうなんだ」
「こいつだ」
言葉少なに、カザドはトルヴァの隣に座るフェンリルを示した。そしてすぐに、何かを察してつけ足した。
「青髪のほうだ」
「ああ――なるほど」
フェンリルはブラギが初めトルヴァに注目し、それから何かを言いかけて飲みこんだことに気づいたが、とりあえず頭を下げておいた。
二人並べばトルヴァの方が年上に見られがちなので、相手から拍子抜けされることが多いのだ。かなしいかな、相手のそういう態度が察せられるようになってしまった。
ブラギはフェンリルの方へと向き直り、改めて問いかけた。
「そうかお前さんが。いや、実にめでたい髪の色だ。名は?」
「イル=フェンリル」
「フェンリル――? ははっ、蒼穹の狼か!」
ブラギは一瞬面食らった顔になったあと、はずみがついたように笑った。
「大地の生き物――それも女神の化身にして、しもべたる狼までが名にはいってるとは――いったい誰にその名をつけられた。ご尊父か? それともご母堂か?」
「知りません」
無愛想にフェンリルは答えた。
「きく機会がありませんでした」
「ふむ――案外名づけた相手は、いっそ不気味で縁起が良いと思ったのかもしれんな。どんな意味や願いがこめられているのか、聞いてみたかったものだ」
名前について言及されるのは久しぶりのことだった。
天王の翼に春の嵐ときて、蒼穹の狼。天空ばかりか大地由来の名前まで持つのは、兄弟のなかでも彼のみである。
意味を知った時にはフェンリルも、何故自分一人がこんなちぐはぐな名前をつけられたのか、不思議に思ったものだった。
「それでフェンリルよ。成人の儀はまだだな?」
フェンリルが無言で頷くと、ブラギは顎に手を置いて言いだした。それは彼が成人済みの子が誰かを気にする時点で、なんとなく予想していた話だった。
「そこの子らも見たところ、そろそろだろう? めでたいことだ。ただな、ここでもつい最近、成人したばかりの若者が何人かいて、何かと不足している。お前たちがきちんと儀式を執り行えるようになるまで、少々時間が欲しい。まずはここでの暮らしに慣れてから――」
「剣ならばある」
ブラギを少々遮るようにして口を開いたのはカザドだった。そして懐より黒塗りの鞘に収まる短剣を取り出し、卓上に置いた。
フェンリルはその真新しい短剣に見入り――遠吠えする狼の意匠に気づき、何の皮肉かと思った。
「そして琥珀玉は持っていないが、銀細工がある。腕輪だ。いま、本人が首から下げている」
「おい……銀細工は女が成人する場合だろ」
市での出来事以来、なんとなく気まずくてカザドを避けていたフェンリルだったが、さすがにこれは指摘した。だが意に介した様子はなく、カザドは続けた。
「たとえ新しく贈られた品ではなくとも、身内に由来する物であればどちらでも問題はないはずだ。だから、儀式に必要な物はそろっている。――すぐにでも執り行える」
「……お客人よ。それは成人の儀を急ぎ執り行うようにという申し出か? 歓迎の宴もまだだというのに、随分と急かされるじゃないか」
呆気にとられた声でブラギが言った。それもそのはずで、カザドの発言は訪れたばかりの客人が申し出ることとしては、少々礼儀に欠けていた。
いかにブラギが懐深い人物だったとしても、相手がその寛容さに胡坐をかき、己の要求を押し通そうとすれば、気分を害しもするというものだった。
「十五になってもう三月にさしかかる。これ以上の先延ばしは、亡くなったこいつの家族に指し示しがつかん」
カザドの返答にフェンリルがびっくりする一方で、ブラギが濃い金褐色の片眉をはね上げた。
「――ほう?」
「たとえ星空の彼方におわす天王様のみもとにあっても、きっと彼らは一人残された息子の行く末が気がかりでいるはずだ。……息子が無事十五のとしをむかえ、成人の儀を終え、新たな場所で受け入れられて初めて、安らげるに違いないのだ」
「つまり、弔いも兼ねていると……。――あんたにそのような殊勝さがあったとは驚きだ」
ふいに、ブラギのまなざしがぎらついた。