第七章――ヨトゥンヘイム①――
ボズゥがいなくなったあとの天幕は、敷き物はめくれ匙や椀がそこらに転がりと、酷い有り様だった。しかも、どれももれなく灰や燃えカスにまみれている。
フェンリルたちがなんだか気乗りしないまま、もくもくと片づけをしている最中に、やっとカザドたちが戻ってきた。
当然、何ごとがあったのかを聞かれた彼らは、ボズゥが出ていったこと、おそらくはもう戻らないだろうことを告げた。
「そうか」
カザドの返事はそれだけだった。
これまでにもそうやって、彼らと袂を分けた若者はたくさんいた。喧嘩別れのようになってそれっきり、というのは珍しいことではなかった。
ダインやロッタのように、身内に引き渡せたこともあったし、手を尽くしたがどうにもならず、冷たくなってしまった者もいた。もちろん、再会を約束した円満な別れだってあった。ボズゥだけが、特別に酷かったわけではない。
別れは常に彼らと共にある。どこへ行こうとついてくる足元の影と同様に自然なことであり、特に若者よりもその経験が多い老人にとっては、大きく心乱されるようなことではないのだった。
だがカザドたちが持ちこんだ物資や食べ物には、当然ボズゥの分も含まれていたし、食卓を囲む際にルクーがうっかり彼の分の皿を用意した。皆何かの拍子にボズゥの影を探してしまった。
さらにはその晩、眠りにつく直前に、まどろむ目つきでロッタが言った。
「ボズゥ、あさにはかえってくる?」
ボズゥと彼らが共にいることも、当たり前になっていたのだった。嫌でも喪失感がついてまわり、若者たちはやるせなかった。
翌日、出立の時間になってもボズゥは現れなかった。それは当然だったのだが、そして勝手な話だったが――一晩たつと、ボズゥを見限ったはずのフェンリルの胸中には、もしかしたらという想いがかすかに湧きあがった。
それはトルヴァやヘルガも同様で、ボズゥの性格を考えれば、気まずそうな顔をしながら戻ってきたとしてもおかしくはなかった。けれどもとうとう、ボズゥを欠いたままで彼らは出立した。
すきま風のような空虚さは、いずれ時が解決してくるだろう。きっとそのはずだ。彼らは春を待ってまどろむ獣にならい、その時をじっと、待つことにした。
市を後にし、再び大川を下ったフェンリルたちは、本当にそれほど日にちをかけず目的地に辿りついた。ケヴァンたちの集落は移動に利用した大川の岸より南、巨大な山壁がそびえたつ山すそにあった。
空まで貫きそうな遙かな頂きは、上にいけばいくほど白んでいる。この山を越えるのは困難を極めるだろう。現にあの橇の技術が確立し、大川を利用して集落に戻れるようになってきたのは、ごく最近のことだそうだ。
舟をつけた川岸には高い柵と船着き場が設置されており、数名の見張り番がいた。彼らはケヴァンたちと互いに手を握り合い、肩を抱き合った。そしてフェンリルたちの来訪を大いに歓迎してくれた。
そうして岸に降り立ったフェンリルたちは、まず積雪の少なさに驚いた。
太い幹の樹木は市のあった平野よりもさらに増え、かすかに芽吹く草が雪を割って茂り、穏やかにそよぐ風にはほのかに薫る暖かさがある。まるで一足先に春が訪れたような、どこかうっとりとするような気候だったのだ。
さらには山の中腹の辺りから山すそにかけて、白や黒の毛皮を持つ生き物が草を食みつつ悠々と放牧し、段々と天幕が連なっていた。家畜の数はこれまで訪れたどの集落よりも多かった。
「どうだ。暖かいだろう?」
ケヴァンが編んだ髭先をつまみながら言った。
「山ひとつ向こうってだけなんだが、ここらは真冬であっても気候が穏やかなんだ。夏にはいっそ汗ばむくらいになるぞ」
「この気候にもからくりがあるんだが……それについては追々聞かせよう」
「まあとりあえず、天王様の気まぐれにも、それなりに備えられるところだな。――女神の御手も、目も、届きにくい」
ケヴァンとエイナルが口々に語った。つまり災害に強く豊かな土地なのだろう。同時に敵の侵入が難しいところでもある。
(季節ごとに移動する必要も無さそうだ)
そんな集落は、フェンリルが知る限りではひとつしかない。郷愁がちくりと胸を刺した。
フェンリルたちはまず長の家に伺うことになった。その道中、収穫待ちの色に染まり始めた小麦畑が連なるのを見た。畑のすぐ側では休憩がてら、淹れたての茶をすすりチーズを頬張る男がいた。
別のところでは、こぉんこぉんと薪割りをする若者がいた。犬の群れと戯れる老人や子供がいて、保存食作りに精を出す女性がいた……様々な人々とすれ違ったが、それだけに留まらなかった。
はじめ、彼らは客人たちに身ぶりのみの簡単な挨拶を送るだけに思われたのだが、先へ進めば進むほどその人数は増えていき、気づけばあっという間に人垣ができていた。
「よく戻ったなぁケヴァン、エイナル。そのお連れが例の客人かい? どれどれ顔を見せてみろ」
「いやあみんな、よく来たなぁ」
「どいつも若いな」
「よく太った羊を用意して、歓迎の宴を開かんと」
「ケヴァン。一番ちんまいのが姪っ子ってのは聞いてたが、どれがお前の甥っ子だ? どいつもあんまり似てないぞ」
「エイナル。さっきお前の家に、奥方から頼まれてた鍋を持っていったところだ」
「エイナルもおっちゃんもおかえりー!」
「こりゃたまげた。おい、青髪の小僧っ子がいるぞ!」
「おやまあ、なんてありがたい!」
「この青髪っ子はあんたのせがれかい? 何、違う?」
好奇心に駆られた人たちから口々に、様々なことをまくしたてられて、みんな目が回る思いだった。
さらに困ったのは、フェンリルたちと似た年頃の少女らの群れだった。
「青髪だわ!」
「青髪よ!」
「まぁ見て。本当にお空のようよ!」
「なんて色なの。初めて見たわ」
「あらでも、目は金色じゃないわよ」
「髪とそろいの色だわ」
「惜しいわね」
「でも綺麗よ」
「顔立ちもなかなか悪くないわよ」
「そう? なんだかとげとげしくなぁい?」
「それになんだか、ちいさくなぁい?」
「わたしは好き」
「きゃー!」
「はしたないわ!」
「隣の子、すごく背が高い」
「あっちの子は目元がきりっとしてる」
「みんな素敵ね」
「素敵だわ」
隠しきれない好奇心と、何らかの期待がない交ぜになった色めきたつ声――そして強烈な値踏みの視線にさらされた。
「ここいいな。かわいい娘いっぱいいる。好きだな」
「そりゃ良かったな……」
ご機嫌なトルヴァの一方で、フェンリルは緊張で身を縮こまらせていた。
年頃の異性に慣れていないということが、前提としてある。だがしかしその心境は女の子の扱いに困る少年というよりも、狼の群れに囲まれた兎そっくりだった。
トルヴァはそんなフェンリルの胸の内などお構いなしに、少女たちへにこにこと愛想よく手を振った。さらには、人の影に隠れようとするフェンリルの肩に腕を回し、逃がすまいとしてきた。
「なんて顔だよ、笑えって。もててるぞ!」
「どうせはじめだけだよ。こんなの」
二人の背後で、ヘルガがおもしろくなさそうに言い捨てた。
「青髪の若いヤツが――客人が珍しいだけ。すぐに興味を無くして離れてくんだから。見てなよ」
ヘルガの声には明らかなとげがあった。
「何怒ってんだよ」
「は? 何が? 怒ってないから」
「ヘルガだってもててるだろうが。むくれるなよ」
「殴られたいの?」
もてる、と言う意味では、確かにヘルガも熱のある視線を向けられていた。
ただし彼女に向けられる好意は例外なく、同じ年頃の少女たちからで、明らかに勘違いをされていた。
「歓迎してくれてるのも、労ってくれてるのもわかった。よーくわかった! しかしだな、こちらは長旅からやっとこさ戻ったところなんだ。色々と聞きたいのもわかるが、まずは長殿の家に向かわせてくれ」
さすがのケヴァンも両手を掲げてまいったをした。しかしそれでも人垣はばらけない。根気よく説得を続けるか、人々が飽きるまで待つか――どちらかの決断を下すより先に、人垣の向こうから腹の底に響く声量で誰かが呼びかけた。
「おい、こんなに集まって何事だ!」
ざわめきが和らいだところ、道を譲る人々の壁を割ってフェンリル達の前に現れたのは三十も半ば、働き盛りの男だった。長衣の上を腰まで降ろし、太い二の腕で斧を担ぎ木桶を持ったその男は、ケヴァンの姿を見ると眉間の皺を緩めて言った。
「おお、ケヴァンじゃないか! それにエイナル、いや息災で何よりだ。よくぞ戻った」
「ブラギよ。そっちから来てくれたか。いや身動きが取れんくて、まいってたところだ」
「――と言う訳だ。そら、皆散れ散れ。長旅してきた者を、あまり煩わせるんじゃあない」
ブラギと呼ばれた男がさらに声を張って大手を振ると、人々はどよめきと共に、ばらばらと彼らの側から離れていった。
簡素になった人垣の中、ブラギはケヴァンたちのあとに続くフェンリルたちの顔をざっと見渡し、短く刈った顎髭を撫でて豪快に笑った。
「首尾よくいったようだな。話は聞いているぞ。皆、よくぞ来てくれた。俺はこのヨトゥンヘイムの長、ヨトゥニア=ブラギだ。さあ、堅苦しい挨拶はあとにして、まずは我が家でくつろいでくれ」