番外編――まなざし【後編】――
「お前はこの辺りにあるという、集落から来たのか?」
腹が膨れると、ひと心地つくというものだ。
男が口を開いたのは、互いへの緊張がすっかり緩み始めた頃だった。
「お前の目的地もそこなの? いったいどんな訳があって、こんな雪深い時期にやってきたのかしら。命知らずも良いとこだわ」
「……ここにはいないが、養い子が何人かいてな。最近加わったある兄妹の母親の兄が、この辺りの集落で暮らしているらしい」
男は酒を口に運び、想いを馳せるように語り出した。
「道中立ち寄った、病にやられた集落から逃れた一家の子供だ。出会った頃、両親はもう立てなくなっていた。託されて以来、そこを目指している。彼らの集落からもう一人、連れてきた子がいるんだが――病を乗り越え命が助かった代わりに、目をやられてしまった。あの子は特に、長旅には向かん。――皆、縁あるところで生きられるなら、それが一番良い。そうだろう?」
なるほど、そういった訳があったのか。
「子供はほかにもいるでしょう。その兄妹と、ほかの子供たちはどうしたの? この場にいないのはどんな訳?」
男は目をそらした。やましいことでもあるのではあるまい。
(――そうであれば、里へは連れていくまい。子供を見捨てるような男であれば)
「……初めは市に用があったのさ」
しばらくの沈黙のあと、再び男は口を開いた。
「そうしたら近くに目的の集落があるというじゃないか。先に確かめようと深入りした矢先にこれだ。まったくついていない」
「急ぎすぎたわね。一旦引き返そうとは思わなかったの?」
「一度は引き返そうと思ったんだがな」
男は自嘲気味に笑った。伏せた目元が暗く陰りを帯びる。
「この辺りは、市を経由しない訳にはいかないだろう? 養い子のひとりが難しい奴でな――市に来たらどうなるか、見当がつかん」
「天の民であれ、地の民であれ、初見で戸惑わない者はいないわよ。まず一度は拒絶されるでしょうね」
けれどそういうものは時間がいずれ解決するものだ。里でもそういう者たちを見てきた。
何度も訪れ、何度も互いに言葉を交わし合うことで、どうにかなっていく。縄張りが違う者どうし、争うつもりが無いのなら根気よくそうやって、敵意が無いとゆっくり知らしめていくしかない。彼らにはそもそも、対話がたりないのだ。
「今、子供らはそいつを筆頭にどうにかしているはずだが、なりばかり成長した奴だ。――いや、ずっとチビなんだが。ああそういえば……離れている間にもう、成人しちまったな」
目は口ほどに物を言うと聞くが、この男はその極みだった。見知らぬその子について語る口元が、眉間によった皺が緩む様子が――とても哀れっぽくて、なんだか好ましかった。
「その子はお前のお気に入りなのね」
子供に優劣をつけるつもりはないが、つい心を割いてしまう子というのはどこにでもいるものだ。
できの悪い子ほど可愛いというもので、里でのんきに遊び呆けているに違いない息子を思い、わたしは喉を鳴らして笑った。
「お前、連れ合いがいないのでしょう? 本来なら女親と男親とで分かち合うべきものを、お前一人が担っているからそんなに気をもむのよ。わたしはたくさん子供を生み育ててきたけれど、必ず連れ合いがいたわ。仲間もね。お前にはどちらもいなさそうね。――その子が成人しているというなら、冷たい風にさらしてやることも必要だというのに。一人でやってきたから、わからないようね。せめて連れ合いか仲間か、どちらかがいれば、また違ったでしょうに」
この男は殺伐としていて、いかにも腕力ひとつで全てを切りぬけてきた気配を持つ。
だが長年足となってきた馬を、励ましてやることができる。
見知らぬ子供を引き入れ、行く末を気遣い、今も遠く離れた子供達を思いやる心を持っている。――行きずりの相手に、食べ物を分かち合うこともできる。
そのまごころが相手にどれほど伝わっていることやら。
(でもきっと、気にはしないのでしょう)
わたしは立ち上がると、燃える篝火を回り込んで男の側に腰かけた。
「いいわ。朝になったら里に案内してあげる。――そうして、これからのお前の旅路に同行するわ」
男は驚いた表情で、火明かりにひらめく眼差しを向けてきた。わたしは微笑んだ。
このままあの里で、最後と決めた連れ合いの眠るあそこで――息子を見守り果てるのも良いと思っていたが、気が変わった。
「このわたしが、お前の連れ合いになってあげる。お前の養い子も、皆わたしの子供にしてあげましょう。お前の行き届かないところは、これからはわたしが補ってあげよう」
わたしは男の膝に顎を載せ、火を見つめて寝そべった。
「何も蹄の礼という訳ではないわよ――お前があんまりにも不器用だから、見ていられなくなったのよ」
この男も、相当長生きしてきたのだろう。
お互いなかなか死ねぬままやってきて、こうして出会った。先の短い者同士、結びついても良いのではないか。
男がそっと、手を伸ばしてきた。そのまま背中を滑る手を、わたしは許してやった。
「――お前はいったいどこから来たんだろうな」
「言ったでしょう。お前が目指す里からよ。あそこには、わたしが産んだ息子がいるのよ」
「そもそも俺たちを見て、襲いかかろうとしないあたり、相当変わっている……」
「思慮深いと言ってほしいわ。――でもそうね。良く言われる『お前は変わり者の狼だ』とね」
男の手はごつごつと硬くて大きく、暖かかった。
「お前も変わり者でしょう。似合いの連れ合いだと思わない?」
* * *
「エイナル、お客人の旅路に同行するってのは本当か?」
「ええ、私もご一緒させていただきます。カザド殿の話じゃ子供たちは、ケヴァン殿の甥姪の他に、あと五人はいるとのことです」
「お前さんとこ、まだ娘も小さかろうに」
「なに、妻に任せれば大丈夫でしょう。戻りは大川を利用して下った方が早い。何よりあの舟の設計について、私以上に詳しい者がいますか?」
「そんなことを言って、お前さん、実は試してみたいだけじゃないのかね」
「そこについては言いっこなしで。それと、直に会ってみたい相手もいまして」
「お前さんの探究心には時々呆れるね。――それにしても、カザド殿はスコルにずいぶんと気にいられたな」
「惚れこんだのかもしれませんね」
「狼が人間にか?」
「ふらりと現れて、集落の猟犬といつのまにか子供をこさえていたスコルなら、あり得る話でしょう」
「だとしたら本当に、変わり者の狼だなぁ。群れから離れて人里に棲みつくところもそうだが、今度は人間と番おうというのかね」
「ああ、ほら」
エイナルは、カザドをじっと見つめる艶やかな漆黒の狼に、目を細ませた。
「まなざしが追っている」
奇跡的に会話が成り立っていますが、カザドに彼女の言葉は一切理解できていません。
そして彼女にはそんなことどうでもいいのです。