第六章――鷹と狼⑫――
さめざめと泣くボズゥを、トルヴァは唖然として見つめた。
あれだけ大変な思いをして、血が出るほどフェンリルに殴られて――この期に及んで出てきた言葉がこれなのだ。
「お前がやったこと、やっぱり、じいさんにだけは伝えとくんだったな……」
救えない。
そんな思いが、すとんと胸に落ちてきた。
「……お、おれは、ずっと嫌だったぁ」
つっかえながら、ボズゥはさらに続けた。
「嫌だった……じいさんが。じいさんの言うこと聞いてばっかのフェンリルがさぁ。トルヴァもヘルガも、チビ共も、こんな生活も……全部、本当は全部嫌だったんだぁ……。それでも、それでもさぁ……一緒にいれば、きっと、いつか、良いことだって起こるって思って……だから……。こないだみたいにさぁ。なのに、なのにさぁ……」
とめどなく溢れる涙をこする。瞼の端が、擦り切れて痛かった。なんで。どうして、自分だけが痛い思いをしなければならないのだろう。
「なんでだよぉ! なぁ、フェンリルぅ? フェンリルだって、あいつらをやっつけたいんだろぉ? じいさんの手前、ずっと、ずうっと、我慢してたんじゃないのかよぉ! おれは、気づいてたぜぇ? だから、フェンリルの為に、あいつらを……。なのに、なんでさぁ……なんでだよぉ……」
フェンリルが自分の望みのまま動いてくれれば、喜んでこちらは手を貸した。ボズゥだって、あんな危険を犯さずに済んだのだ。
ボズゥが悪いのではない。悪いのはボズゥにこんな選択をさせた、彼らの察しの悪さであり――くさくさするものが蔓延る、世の中のほうだった。
「……おれはお前のことを聞いてるんだ、ボズゥ。問題をすり替えるなよ」
フェンリルがため息と共に吐きだした。
「あいつらを呼び寄せたのが、おれの為だったって? お前に、おれの何がわかるっていうんだ」
つき放す響きだった――。ボズゥははっと顔を上げて、フェンリルを見た。
「おれに何を期待してるか知らないが、見当違いだ。おれは世の中を変えられるほど、大層な人間じゃない。その逆で……。おれは……おれは、誰かの期待に応えられるような奴じゃない。ボズゥとなんにも変わらない。ただの人間で……どうしようもないガキだよ」
ささやきは痛みに満ちていた。ボズゥは、フェンリルが自らに失望する理由を、よく理解していた。だって自分もそうだから。
「フェンリル――」
「――でもお前はこれからも、おれの為だと言っては危険を犯すんだろうな」
フェンリルは自分の懐に手を入れると、服のかくしに入れたままだったものを取り出して、ボズゥの目の前に放り投げた。はずみもなく床に落ちたその小袋は、市に来たはじめにエイナルからみんなへと配られたものだった。
中から硬貨がこぼれ出た。そのうちの一枚がボズゥの手元に転がってきて、くるりと回って倒れた。
「やるよ」
ボズゥは硬貨とフェンリルを交互に見た。
「ここでは、何をするにもそれがあったほうが良いんだろう。それを持って、行けよ。ここならお前が気にいるところも……必要な誰かも見つかるだろ」
「フェ、フェンリルぅ」
「期待通りの奴じゃなくて――こんな暮らしに、つきあわせて悪かったな。行きたいところで、やりたいようにしろよ。じいさんには、それとなく伝えておく。――好きにすればいい」
「フェンリルぅ!」
覆いがすべてめくれた天上から差す星明かりのもと、やっとこちらを見たフェンリルの青い目は、自ら光っているかのように鮮烈だった。
その目にもう怒りは宿っていなかった――そのかわり、覆しようのない失意に満ちていた。
彼がボズゥのすべてを諦めたのだと悟り、ボズゥは血の気が引いた。
「わる、悪かったよぉ……なぁ、本当に、悪かったってぇ……」
震えて訴えたボズゥだったが、フェンリルの態度は変わらなかった。助けを求めてトルヴァに、ヘルガにまで視線をさまよわせたが、彼らの心もとっくに決まっていた。
ボズゥは、越えてはならない一線を越えてしまったのだ――。
それが明らかになった今、それでもなお、自らを省みないボズゥの心を知った今、憐れむに値しなかった。
「……」
長い沈黙だった。
誰も決断できないでいるうちに、カザドや大人たちが戻ってきはしないかと、誰かが期待した。しかし誰も戻ってはこなかった。
やがてボズゥが冬眠明けの蛙よりも鈍重な動きで、床に散らばった硬貨を一枚一枚、拾い集め始めた。すべて集め終えてしっかり袋の口を塞ぐと、それを持って立ち上がった。
誰も、何も、言わなかった。トルヴァでさえも、もう、彼を引き留めななかった。
うつむき加減にボズゥが天幕を出ていき、少ししてからだった。はじかれたように、ヘルガが駆け出していた。
「――ボズゥ!」
ボズゥはわずかにふり返る素振りをした。しょぼくれた背中だった。たった数歩の距離だが二度と埋まることはない、恐ろしいまでの隔たりに感じた。
ヘルガは叫んだ。
「ボズゥ、なんで、あんたはそうなの?」
地の民の奴隷として命令を上手にこなせず、蹴られたり、鞭打たれたりするたび、ボズゥはいつまでもしくしく泣いて、じっとりとした眼差しでこちらをねめつけてきたものだった。
「なんで、いつもそうやって、誰かが助けてくれると思ってんの? 自分の代わりに誰かが、なんとかしてくれるって。自分は弱いから、なんにも悪くないって。――いつまでそうやって生きていくつもり」
いつも誰かの優しさを待ってばかりの、あの目が嫌だった。
奴隷だった頃、ボズゥはいつだって可哀想な自分に優しくしてくれることを、ヘルガに求めていた。
痛い思いをしているのは、ヘルガとて同じ。助けてほしいのも優しくしてほしいのも、同じだったのに。
なのに同じようにぶたれてるヘルガを見ても、ボズゥは自分だけがこの世で一番可哀想だと信じきっていたし、そんな自分を可愛がっていたしいかにも憐れにふるまっていた。
そんなボズゥが嫌で、ヘルガは冷たくあしらった。
けして優しくせず、慰めまいとした。ボズゥのように情けなくめそめそして、地の民に媚びへつらって、与えられるかもわからない慈悲を期待するのもやめた。ボズゥのように自らを憐れんで行動できなくなるくらいなら、自分を叱咤する方がずっと有意義だった。
やがてボズゥはヘルガが期待通りの慰めをくれないと知ると、ヘルガに対して彼女の倍に冷たくなった。
ボズゥは時に地の民の主人と一緒になって、戯れに犬をけしかけては笑った。ならばと、ヘルガも同じようにしてやった。そんなことが何度もあった。
どちらかが気にいられて、贔屓されていたということはない。二人とも、奴らの体の良い暇つぶし相手で、おもちゃだった。
……本当は共に励まし合い、助け合うこともできたはずだが、二人はそうしなかった。
水と油のように混ざらないまま、互いに反発しあって憎み合うことで活路を見出したのだ。
それは奇妙な絆だった。
「あんたは、馬鹿だよ。なんで自分で、全部台無しにするんだよ。なんで、あるものを大事にしようとしないの。そのままじゃあんた――今に、本当に、ひとりになるのに」
ボズゥは冗談じゃ済まされないことをした。見限られて、追い出されて、当然だ。
なのにどうしてか――ヘルガは初めて、ボズゥに同情していた。
「もうとっくに、ひとりだよぉ……」
闇に解けるような、いじけた声が返ってきた。
「――言うことはそれだけなの?」
ボズゥは答えない。
ふり返らず、けれどそれ以上歩みを進めることもなく、そのままじっと――まだ、何かを期待している。雄弁な沈黙だった。
何故なのだ。
何故こうも愚かに、自分のやったことをふり返ろうとしないのだ。
何故もっと必死にすがって、許しを乞おうとしないのだ。
話の通じない、あの地の民の主人とは違うのに。
仲間だったんじゃないのか。
今だって仲間だろうに。
これが最後かもしれないのに――
「――あんたのそういうところが、その甘ったれた、いじいじしたところが――あたし、心底大っ嫌い!」
ヘルガの声は怒りで震えた。
こうも話の通じない相手を追いかけて、こんなに声をあげて、爪が喰い込むほど拳を握りしめている。馬鹿みたいだった。
どうしてこんな奴を追いかけてくるのが、よりにもよって、自分一人だけなのだ。
先程の騒ぎなんて誰も気に留めていないようだった。嘘のようにそこかしこの天幕から、穏やかに談笑する声が聞こえてくる。暖かな灯火が、天幕の天上から漏れ出ている……。
この世の誰にも関わりが無いことなのだと骨身にしみて、一層侘しかった。
ボズゥは憎まれ口ひとつ叩かなかった。それきり静かにそっと、どことも知れぬ夜の暗闇に紛れていった。
もう何も届かないのだと、二度とわかりあえないのだと思うと、悔しいやら悲しいやらで、ヘルガの瞼の裏が熱くなった。
友人ではなかった。
むしろその逆で、敵とすら言っていい相手だった。
でもお互いへの怒りで、憎むことで、酷い日をやり過ごせた。そんなことも確かにあった。
「……馬鹿やろう」
これきりだと思った。
ボズゥの為に泣くのなんて、これきりだ。