第六章――鷹と狼⑪――
硬い物がひしゃげる音がした。
「フェンリル!」
トルヴァが叫んでいる。強い耳鳴りのせいで、どこか遠くから発せられたような声だった。ボズゥはいつのまにか肘をついていた。
「――う、ぁ」
何が起きたのかわからなかった。
顔の中心が熱を帯び、視界がぶれてあちこちに星が散っている。やがて鼻の奥から錆臭くぬるい物が伝い、敷かれた毛皮に、そこについた手の甲にと、ぼたぼたと音をたててしたたった。
遅れてやってきた激痛に、殴られたのだと気づく。ぎしりと軋む首を回し、恐る恐る振り返った。
フェンリルは顔を仰ぎ見られる直前に、ボズゥの鼻先、顔面のすぐ真横を射ぬくように踏みつけた。
「ひっ――」
「おい。逃げるな」
ボズゥは四つん這いで必死に手足を動かしたが、逃れられるはずもない。たやすくフェンリルに胸ぐらを掴まれ、無理矢理にあおがされる。
ボズゥは両手を眼前に掲げて、あわあわと首を振った。言葉にならない呻き声は水混じりで、鼻孔にいくつもの細かな血泡を作っている。溺れる人のそれだった。
彼が首を振るたびに、垂れ流しの鼻血が飛沫となってフェンリルの手首に、頬にまでも飛散した。
「馬鹿、やめろ!」
たまらずトルヴァは、フェンリルが再び振り降ろそうとした拳を掴んだ。脇にも腕を回し、ボズゥから引きはがしにかかる。
たやすく指のまわる細い手首の、どこから湧いてくるのか。恐ろしいまでの剛力で、ほんの少しだけボズゥが宙づりに引きずられた。
「いきなり何をしてんだよ――わけを話せ、わけを!」
「わけ?」
しりもちをついたボズゥは、ようやっとフェンリルを見上げた。天幕の中心で焚かれる火明かりを背に受けて、フェンリルの顔面にはどす黒い影が降り、激昂した眼差しが爛々と危険な輝きを放っていた。
眼光とはうらはらに、ひどく落ち着きはらった氷の声で、フェンリルは言った。
「おれも知りたい。敵の正体に気づいていて、どうして、全員を危険にさらすようなことをしたのか」
「――は? なに」
突然の暴力に戦き立ちつくしていたヘルガが、聞き捨てならない内容に顔色を変えた。
「どういうこと……。あんた、なにしたの?」
自分に向けられた二人分の視線にさらされて、ボズゥは氷の上に立たされたような心地がした。
「悪いことしたって……スカッとしたかだって? ――他人事みたいにぬかしやがって、てめぇ!」
「うわ――まてまて、まてって!」
火の粉のように爆ぜたフェンリルに、トルヴァは慌てて取り押さえていた腕に力を込めた。獲物を前に全力を尽くす猛獣と同じく、怒りで暴れるフェンリルを取り押さえるのは至難の技だった。
最終的には体格のあるトルヴァが勝利したが、それでも全身全霊をもってかかなければいけなかった。フェンリルもトルヴァも、あっというまに髪と服とが乱れに乱れた。
近くでずっと、ハティが抗議するように吠えたてていた。
「――どういうつもりだった。どうしてあいつらに矢なんか射かけた! ――理由があるなら言ってみろ! 言えよ!」
ボズゥは天幕の隅まで這いつくばり、腕を前に出したままの姿勢で情けなくひいひい泣いていた。
「おれは、おっ、おれは、ただざぁ……」
涙と鼻血とで顔中がぐしゃぐしゃになっても、誰の同情も引くことはできなかった。ボズゥだけが自身の現状を嘆いていた。どうして殴られたのか、何故フェンリルがこうも怒りをぶつけるのか、本気でわからなかった。
すすり泣くボズゥへ向けた剣幕のままフェンリルは、次にトルヴァへと噛みついた。
「トルヴァ――お前は知ってたんだな」
矛先を変えられたトルヴァは、唇を真一文字に引き結んだ。
「知ってて、黙ってたんだな。ダインは――口止めか。――よくも今まで素知らぬ顔ができたな」
彼らを取り囲むようにつむじ風が巻き起こり始めた。
焚火がふいに消え去り灰と燃えカスが舞った。敷かれた毛皮がめくれ、天幕が激しくはためき、組み木が軋む。
ヘルガは目を開けていられず、両手で顔を覆いしゃがみこんだ。そんな彼女にハティが身を寄せたが、気にしている余裕はなかった。
「――当然だろ。大真面目なんだよこっちは」
吹き荒ぶ風の音に負けぬよう、トルヴァが声を張り上げた。
「なんでオレが黙ってたかなんて、少し考えればわかるだろ!」
「馬鹿かてめえ。わかるかそんなもん!」
「わかれ馬鹿! お前こそ冷静になってまわりを見ろ! 天幕からなにから、全部吹き飛ばすつもりかよ! お前のそれは癇癪だぞ! ――戻ってからずっと、おかしかったよな。どうせじいさん絡みでいらついてんだろ!」
「――なんで、じじいの、話になんだよ!」
カザドの話題で、つむじ風がますます荒っぽくなった。もはや嵐と言ってもよく、軽い日用品――湯飲みや匙などが――宙を舞って踊り出したので、トルヴァは今度こそ肝が冷えた。このままでは組み木すら折られかねない。
トルヴァはとにかく、思いつく限りのことをあらん限りの声でまくしたてた。
「お前をへこませられんのなんて、じいさんだけだからな――。そっちこそ、じいさん子も大概にしろっての! とにかく、落ち着けよ――今チビたちが戻ってきたら、泣いちゃうだろうが!」
奇跡的にも、そのいずれかに響くものがあったらしい。暴風がぴたりと吹きやんだ。
暗闇の中、互いの息づかいだけが聞こえた。火の消えた熾から、白い煙が、天上に向かって細く昇っていくのが見てとれた。
「……もういい。……放せ」
四人が暗さに目が慣れた頃、フェンリルが苦しそうに呟いた。あまりに必死で気づいていなかったが、絞め落としかけていたのだった。
トルヴァはすぐさま絡めていた腕を緩めた。解放されたフェンリルは、ぐったりと脱力しきってその場に座り込んだ。
「悪い――夢中でつい」
「……」
フェンリルは無言で首をさすった。息がつまったにしては緩慢な動作に、トルヴァは、ひょっとすると風を操るというのは、体力がいるのかもしれないと考えた。
思い返せばこれまでもそうだった。襲撃で相手を激しく翻弄したあと。女神の戦士との戦いのあと。舟の帆を操ったあと……。
フェンリルが感情的になったり、普段よりも繊細に風を操ったあとは、必ずこのようになってはいなかったか。
(でもこれって、操ってるって言えるのか……)
小さな子供が感情に任せて手足を力一杯ふり回すのと、どう違うのだろう。トルヴァはへとへとの頭で、どうでもいいことを考えた。
「ボズゥ」
落ち着きを取り戻したというよりも、疲れきった声でフェンリルは呼びかけた。
「結局、何がしたかったんだ」
フェンリルの問いかけに、ボズゥは目を泳がせた。
そんなのは決まっている――だが頭をよぎるいずれも、ふさわしくない。どれもこれも、ボズゥの望みからかけ離れていると思えた。
では山峡で、女神の戦士に矢をつがえた時――本当はどうしたかったのだろう?
当たるにせよ、当たらなかったにせよ、相手に自分たちの存在を知らせる行いだったのに。誰に言われるまでもなく、そんなことはわかっていたはずだったのに。
しゃくりあげる喉を励まし、やっとのことでボズゥは言った。
「……トルヴァ、トルヴァが、変にちょっかい出してこなけりゃ、矢だって当たらなかったんだぁ!」
「はぁ?」
引き合いに出されたトルヴァが眉間に皺を寄せた。
「おれは、おれはふざけて構えただけで……だから、トルヴァだって悪いだろぉがぁ。……そもそも、最初にあいつらを発見したのは、ダインだろぉ! あいつが見つけなけりゃ、あんなことになってない……。だから、だからぁ、あいつだって悪いじゃんかぁ! あの場にいた全員に、女神の戦士を呼び込んだ責任があるだろぉがぁ! なのに、なんで、おれだけが責められんだよぉ……」