第六章――鷹と狼⑨――
市にやってきた者たちは、日暮れ前に立ち去るか天幕を張って夜を明かすかの、どちらかに分かれた。
あたりが暗くなりだした頃、あらかじめ決めてあった天幕に戻ったトルヴァは、中に入るなりヘルガに詰め寄られた。
「フェンリルは?」
「さあ?」
「さあって、なんであんた知らないの」
「逆に、なんで知ってると思ってんだ」
トルヴァの返事に、ヘルガは納得するよりもむっとした。
「フェンリルといつもつるんでるのは、あんたじゃない。そろそろ日が沈むっていうのに……」
「そこまで頻繁につるんでないですー。腹減ったら戻ってくるだろ」
「犬猫の話をしてるんじゃないんだけど」
ヘルガの声音は何やら普段よりもきつかった。市に立ち寄ってからずっと、彼女はどこかいらだっている。奴隷として連れ回されていた彼女の過去ゆえ、どうしても身構えてしまうのだった。
トルヴァは携えていた小袋から炒られた木の実を数個取り出すと、ヘルガに差し出した。
「食う?」
「なに? いらない」
「さっき買ってみた。いいから、ほら」
なかば強引にヘルガに握らせ、自身もぽいと口に放り込んで咀嚼する。このところ、ケヴァンのおかげで胃袋が大きくなりつつあり、どうしても小腹が空いてくるのだった。
ヘルガは握らされた木の実をじっと見つめた後、トルヴァを責めるように睨んだ。
「呑気だよね、あんた。ここの地の民がいくら安全でも、それでも不用心でしょう。どうして一人にするの」
「おれは保護者か。そもそもチビたちに、じいさんまでいないじゃんか? なんでフェンリルだけ気にするんだよ」
「じいさんたちは、チビ共連れて買い出しに行ったぜぇ」
木の実を口に運ぶヘルガに代わり、卓の前に腰かけていたボズゥが答えた。
「多分晩飯になるもんも、調達してんじゃあねぇのぉ」
「なんだ。期待してたのに」
トルヴァはボズゥにも木の実を差し出した。すべて食べ終えたヘルガが、影のある表情で再び言った。
「昼にわかれたきりなんだよ。――その分だとあんた、フェンリルがロッタとダインを怒鳴ったことについても知らないんでしょう?」
「なんだそりゃ」
「それから誰も見てないんだって」
トルヴァは驚いた。フェンリルが仲間に声を荒げたことにもだが、その相手にもだ。
「ダインは怒られたそうだけど、ロッタは……。とにかく様子がおかしかったみたい。一緒にいたルクーもケヴァンさんも何がなんだか、よくわからないみたいだったし。じいさまは何も言わないし」
どんどん沈んだ声になっていくヘルガに、さすがのトルヴァも態度を改めることにした。フェンリルが声を荒げた原因について、思い当たるものがまったく無いではなかった。
だが不確かなおそらくを口にするよりも、まずは、ヘルガの不安によりそうべきだろう。
「フェンリルが心配なのはわかったよ。でもそんなに気にすんなって、小さな子供じゃないんだ」
「あんたは心配じゃないわけ?」
「そうは言ってないだろうが。でも、ひょっとしたら今頃、じいさんたちと合流してるかもしれないだろ。もう少し待ってみて、それでも戻ってこないようだったらその時は探しに行こう。それで良いだろ? な?」
トルヴァの提案に、ヘルガは少しの間黙って考え込んだのち頷いた。
「よし、決まり」
トルヴァはつとめて明るい調子で言って、再び木の実をヘルガに握らせた。今度は彼女も断らなかった。
(どっちも呑気だよなぁ……)
二人のやり取りを託越しに眺めながら、ボズゥは密かに確信していた。
この二人は知らないのだ。彼らの間で本当はどんなことがあったのか。そしてその後のフェンリルとカザドのやり取りについても。なにも知らずにフェンリルの行方について悩み、やきもきしている。
あれを目撃したのが自分だけなのだと気づいたら、ボズゥはもう、込み上げる笑いを止めることができなかった。
目障りな相手より先に、有利な情報を得ているとは、もっけの幸いだ。
(どうしようかなぁ……)
教えてやっても良いかもしれない。いや、まだ様子を見るべきだろうか。なんとも贅沢な悩みだった。ボズゥは肩を揺らした。
ヘルガが声を殺してくつくつと揺れるボズゥに気づいて、気味悪く思った時だった。天幕の入り口から勢いよく茶黒の狼犬が飛び込んできた。
「わっわっ、来んなよぉ!」
ボズゥが大げさに腕を振り回し、ヘルガが身体を硬直させる。ハティは愛想を振りまいているだけなのだが、そこらの犬と比べて体格が違う。
そも二人とも、犬には良い思い出がなかった。
トルヴァがハティの首根っこを押さえ、わしわしと撫でまわして興奮を落ち着かせてやる。そして天幕の入り口にひっそりと佇む、小柄な人物に気がついた。
「フェンリル」
フェンリルは中に入ると、沈黙したまま隅の方に腰をおろした。
どれだけ火にあたっていなかったのか、唇は真っ青で面差しに険があった。一目でこれは何かあったと、トルヴァは察した。
「どこ行ってたんだよ。じいさんたちはまだ出かけてるぜ。――ほら。飯までまだかかりそうだし、少し腹に入れとけよ」
トルヴァはヘルガやボズゥにしたように、何気なく木の実を差し出した。
しかしフェンリルは一瞥もくれず、曖昧な身ぶりでいらないと示しただけだった。
(あっ、ノリ悪ぃ)
すぐ側で纏わりつくハティの首元を抱えて、その毛皮に顔をうずめる様がいよいよ深刻だった。とりつくしまも無く、ほうっておくのが一番だと判断して木の実をしまって側を離れる。
トルヴァ同様に異変を感じ取ったヘルガが、気遣わしげな声をもらした。
「どうしたの……」
トルヴァはフェンリルに聞こえない位置まで距離をとると、さらに声量を落とした。
「――まぁ、確かに暗いわ」
「けがとかしてるんじゃない?」
「ないない。ないからほっとけ。じいさんじゃないと駄目だな、ありゃあ」
ボズゥは内心で彼らの見当違いを嘲笑っていた。
(――ばぁか。そのじいさんが原因なんだよぉ)
ボズゥはフェンリルの不機嫌の訳を知っていた。
それどころか、彼がいつもひた隠しにしてきた冷たさの正体を、彼の望みのすべてを、今や完全に理解したとすら断言できる。
女神の戦士との戦いでフェンリルの雄叫びを聞いた時は、ほんの予感でしかなかった。だが――。
『――全員、一人残らず殺してやる。天王も、誰もやらないんなら、おれがそうしてやる』
これだと思った。
ボズゥはそれとなくフェンリルの側ににじり寄った。ハティが喉の奥で小さく唸る。どうもこいつとは気が合わない。完全になめられている。
(なんだよぉ、相棒にでもなったつもりかぁ?)
犬ごときが生意気だった。それでも、あんまり近づくと噛みつかれかねない気配がしたので、それ以上は断念した。
――本当はここで引き下がるべきだったのかもしれない。
「もぉさぁ……良いんじゃねぇのぉ? フェンリルぅ」
だが今しかないという想いが、彼の目を曇らせて愚かさに駆りたてた。
ボズゥはそっとささやいた。