第六章――鷹と狼⑦――
「気持ち悪ぃんだよ。ふざけるなよ……ふざけるな!」
フェンリルは目の現実を薙ぎ払うように、吐き捨てた。彼のすべてが、この場のなにもかもを拒絶していた。
「全部あいつらのものなのに。女神に、守られてるくせに。それを自分から捨てて逃げてきただ? 意味わかんねぇ」
「――女神のもとでは生きられない、地の民もいるというだけのことだ」
「それならのたれ死ね! おれたちに関わってくんじゃねぇよ」
逃げて隠れているのも、傷ついているのも、殺されているのも、こちらの方なのに。なのに逃げ延びた先にまで紛れ込んでくるなんて、どこまでずうずうしいのだ。
哀れぶるな。お前たちは何も失っていない。
奪われていない。何ひとつ。はじめから。
「ここの連中、みんな、頭がどうかしてる……」
「天の民にだって手のつけられない、救えないような奴だっているだろうが。皆、様々だ。お前と同じように、どうしようもない目に合って、かろうじて生き延びてきた者だっている。だが天王様は女神の庇護からあぶれた者とて、懐に招き入れて――」
「天王が何をしてくれた!」
フェンリルは吠えた。
いもしない神のありがたい話など、もううんざりだった。
「一緒にするな、同じなもんか。あいつらを招き入れるなんて、蛇の卵を懐で孵すようなもんだ。いつ寝首をかかれるか――。あいつらはおれたちを、人間だなんて思ってない。対等になんか見ていない。――人間扱いなんてされなかった。人間のやることじゃなかった! あいつらみんな獣だ! 獣が――目の前にいる――。なのに、なんで誰も、何もしない。追い出せよ――。ぶっ殺せよ! でないと――」
フェンリルの唇がわななき、冷や汗が頬を伝う。
「また、壊される」
恐ろしいことは、悪いことというのは、こちらの都合など考えてはくれない。待ってはくれない。
ある日ふいに現れて、嵐のように全てをなぎ倒し、炎のようにすべて燃やし尽くしてしまう。――そうならないためには、どうすればいいだろう?
答えは明白だった。
暴力がもたらすものを教えてくれたのは、他でもない奴らだ。
「……そうなる前に、壊さないと」
カザドが目元を引きつらせた。
「――何を壊すってんだ」
「全部だよ。あいつらが築いたもの全部だ! ここも含めて全部! 奪われる前に、壊される前に壊すんだよ! 自分たちがなにをやってきたか思い知らせてやる!
あいつらがやったのと、同じ方法で――全員、一人残らず殺してやる。天王も、誰もやらないんなら、おれがそうしてやる」
「そんなこと、できるわけないだろう」
呆気にとられるカザドの声に、フェンリルは激しくかぶりを振った。
無表情で無感情で、冷静に思われがちな少年とは繋がらない。癇癪をおこす子供のようだった。
傍らの狼が、不安そうにそわそわと足元を掻く。このようなフェンリルはカザドにとっても初めてで、内心かなり戸惑っていた。
動揺を悟られぬよう、カザドは静かに語りかけた。
「……お前、俺がいない間の襲撃で、赤ん坊を人質に取ったらしいな」
フェンリルの目が泳ぐ。
赤ん坊。
地の民の赤ん坊。
ふにゃふにゃと頼りない命。
うるさく泣きわめいて、話の邪魔だった。
天の民の腕の中で、無防備にふくふくと眠りこけて。
これがいずれ、あの獣どもそっくりに育つのかと。
今のうちに、間引いておいた方が良いだろうと。
このまま二度と目覚めなくとも良いから。
どうか目覚めないでくれと。
まるで祈るように。
腕をゆらした。
「手も足もでないような、守られるばかりの赤ん坊を、お前はどう思ったんだ。――一人残らず地の民を殺すってのはそういうことだぞ。力ない無垢な者も、お前を直接襲った奴らと無関係な相手でも、理不尽な力で踏みつけるということだ。お前自身が、嵐にでもなるつもりか。……それで……フェンリル。そんなのでお前、どうやって生きていくんだ」
「どうでもいい」
駄々っ子に言い聞かせるように、根気強くカザドは語りかけたが、フェンリルは青い炎を宿した瞳でつき放した。
「あいつら全員いなくなるのなら、その後なんかいらない。どうなろうが構わない。――おれの一生かけて思い知らせてやる」
たとえどれほど時がたとうとも、誰しもが忘れ去ったとしても、フェンリルの中では終わっていない。
未だ、ヴァナヘイムは燃えている。
未だ、悲鳴と苦痛のただなかにある。
同じ炎で、やつらのすべてを焼いてやる。
そうでなければ報われない。
彼女たちへのたむけにならない。
どうして生きているのかわからない。
「本気か?」
この世の何もかもに憤り、憎んだ。
かつてのカザドそっくりのことを口にするフェンリルに、燃え盛る風車の影を見た気がした。
* * *
カザドはヴァナヘイムのことを、あの日、フェンリルが体験したことのすべてを、一度としてたずねたりはしなかった。彼の家族が迎えた最期も、伝えたことはない。 もういないということだけを、フェンリルは察していた。
地獄を見たのは想像するにあまりあったし、何よりフェンリル自身が生死の境を何日もさまよい、それどころではなかった。やっと峠を越した頃、フェンリルは魂がごっそり抜け落ち、物言わぬ人形のようになっていた。
食事も着替えも、それこそ排せつだって。こちらが促がしてやらなければ、なにもしようとしなかった。自ら生きようとしていないようだった。
そんな子供を相手に、何を聞き、何を伝えることができただろう。
ひょいと簡単に向こう側へと行ってしまいそうな、もう二度と元には戻らない痛ましさしかなくて、とにかくあの日のことには触れないようにしてきたのだ。
大きな変化があったのは、トルヴァが彼らの旅路に加わってからだった。
相変わらず夜には酷く泣き叫び、昼にはぼんやりと虚ろなフェンリルが、やっと自分から身のまわりのことをするようになった頃。無表情で、まだ言葉を失くしたままだった頃。そしてカザドがいよいよ、フェンリルを手放すべきか悩み始めた頃……。
そんなひりつく緊張感しかない彼らの元へ、ある日トルヴァが迷い込んだ。
トルヴァの明るい性質に、惹かれたのかもしれない。あるいは自分と似た年頃で、同じく家族も寄る辺も失くした少年に対して、フェンリルなりに思うところがあったのかもしれない。
なんにせよトルヴァの存在が、ひとつのきっかけになったのは確かだ。
フェンリルにそれらしい表情やふるまいが増え、まともな意思疎通がとれるようになったのだから。
そしてフェンリルが暗い望みを抱いていると察したのも、この頃だ。
『――どうする?』
声変わり前の、高い猫のような声が耳底に蘇る。
『やり返す?』
あの時、トルヴァが首を横に振らなければどうなっていたのだろう。
なんとか繋ぎとめなければと。このあやうさのまま、迂闊に飛び去ってしまわないようにと、色々とやってきたつもりだ。
危険が降りかかっても、身を守れる様に剣を教えた。逃げ方を教えた。放浪する上での経験を伝えた。
地の民の隊商を襲うようになったのもこの頃だ。
だがけして相手の命を脅かさないように教え込んだ。必要な場合にだけ反撃だけをし、盗む物はすべて半分ずつにした。商人の扱う品々には、納期というものがあるのをカザドは知っていた。
ならば食料も半分残して生かしておけば、納期のあるうちに商品をさばききろうと躍起になるだろう。試してみればやはり、命がけの戦闘をし、死体の処理をするよりこちらの方がずっと楽だった。
そして彼らは天の民にしてやられたと吹聴して、恥をさらすような真似はしなかった。命はあり、半分とはいえ儲けもあるのだ。たった一度きりの悪い夢として、忘れようとつとめたに違いない。
奴らが手元に残った物を売り切り襲撃犯を探しに来る頃には、こちらはもう姿を隠している。たとえ無理でも痕跡を消すように徹底した。
当然毎回思う通りにことが済むわけでもなかったし、痛い目も見たが、上手くやってきたように思う。そうやっていくうちに、自然と寄る辺ない子供たちが集まって……。
フェンリルに仲間が増えていくのは、良いことのように思えた。彼にとっての大事な足枷が、増えれば良いと願ったのだ。
なのにすべてを顧みず、あの炎に身を任せて魂を焦がし、灰になってしまっても構わないと喚くのか。
* * *
カザドはひとつ、深く長いため息を吐くと、重なり透けて見えるかつての自分ごと、フェンリルを睨みつけた。
「――復讐なんてもんにとりつかれるようじゃあ、てめえはまだ青臭えくそガキだぜ。この馬鹿野郎が」