第六章――鷹と狼⑥――
そこは山奥の開けた平地で、青や紫、赤や黄といった目にも鮮やかな色とりどりの布地を張った屋台が、辿りついたフェンリルたちを歓迎した。
馬や山羊や羊を連れた囲いもあれば、布と糸が平台に並んでいた。肉や魚を吊り下げているかと思えば、宝石や毛皮を並べている屋台もある。
剣や弓、釘や鉄くずを並べているところもあった。食べ物を煮炊きする良い匂いがただよい、笛や太鼓といった楽器を打ち鳴らして歌う者までいる……。
フェンリル達はこれほど大勢の人々が、ひとところに集まり賑やいでいるのを、集落の祭り以外で見たことがなかった。
だが様々な氏族が行き交いすれ違う中に、浅黒い肌や黄色、褐色の肌を持つ者たちが混じっていた。そのほとんどが市の屋台をとりしきり、道行く人に声をかけたり、かけられたりしている。
なのに誰もそのことについて、不思議がる様子も恐れる様子もない。ケヴァンとてそうだった。天の民も地の民も、平気な顔で互いに言葉を交わし、当たり前に談笑すらしている。
ダインやロッタは市の賑やかさにつられてはしゃぎ声をあげたが、他の若者たちははじめ、皆そわそわと落ち着かなかった。彼らは地の民に見つかることが何を意味するか、その身を以って体感したばかりだったのだ。
しかしエイナルやケヴァンがこの場所の成り立ちについて熱心に説明し、屋台にいる地の民たちと会話する様子を見て、若者たちの態度は次第に軟化していった。
この奇妙奇天烈な場所を受け入れるとまではいかないが、慣れようと努力し始めていたのだった。彼らの柔軟な若さがそれを可能にした。
フェンリルはそうはいかなかった。
彼にはもはやエイナルたちの声は届いていなかった。血の気を無くした青白い顔で、一言も発さない。よく光る目ばかりを世話しなく動かして、いつ、どこから、誰が飛びかかってくるかの想像ばかりを膨らませていた。
(なにがおかしいんだ。なんで襲ってこない。地の民だろ。地の民なのに)
賑やかしく穏やかな光景は、フェンリルの思考を濁らせた。
なぜ彼らが普通にしていられるのかわからなかった。この場の何ひとつ、理解できない。
――彼らは地の民が天の民になにをしたのか、忘れてしまったのだろうか? それとも知らないのだろうか。剣を振るい、弓を引いて、いつこちらに襲いかかるやもしれない奴らだということを。
こちらの苦痛を喜び痛ぶる、そんな奴らだということを――
フェンリルは熟れきった果実のように、今にもぶちゅりとはじけてしまいそうだった。
「――リル、フェンリル!」
ひとり、たゆたう水底からうつし世を眺めているような心地に陥っていたフェンリルは、幼くてよく通る声に呼ばれて意識を浮上させた。
屋台の前で、子兎のようにぴょんぴょん跳ねるロッタがいた。
「みてみてえ。きれいだよお!」
無邪気に紅玉の髪飾りを掲げる幼い笑顔が、いつかの誰かと重なる。表情までは思い出せない。思い出そうとするとどうしても、ロッタや、ヘルガの笑顔に重なってしまう。
鮮やかなのは苦痛に歪む最後の顔ばかりだ。泣き顔ばかりが、いつまでも取り残されている。
「あんたお兄さん? 可愛い妹さんだね。このままでも充分だけど、どうだい。髪飾りのひとつでも買ってやりなよ」
飾り物を並べる屋台から、褐色の肌を持つ若い男が顔を出し、にこにこと笑いかけてきた。背筋がぞっと凍るのと同時に、熱を持つ何かが湧きあがる。
「あれぇ? お兄さん珍しい髪の色だねぇ。まるで天王ヴィセーレンの……」
男の言葉はそこで途切れた。フェンリルが衝動のまま、ロッタの掲げる髪飾りをはたき落としたからだった。
がしゃんと音を立てて、もろい細工の飾りは砕けた。
「おい、なにすんだよ!」
男は当然抗議の声をあげたが、フェンリルに睨まれて勢いを無くした。魂の芯から凍えてしまいそうな、底知れない青い目だった。
恐れをなす男の瞳の奥に、今にも噛みつきかかりそうな自分の顔を見つけて、フェンリルは我に返ってロッタを見た。
無邪気に笑っていた少女は、足元の無惨な髪飾りを茫然として眺めていた。みるみるうちに、明るい水色の瞳に涙が膨れ上がっていく。
あっと言う間にそれは、細く、甲高い泣き声と共にこぼれ落ちて、ふっくらとした頬を濡らした。
「――ロッタ?」
屋台にはルクーもいた。
「ロッタ、どうしたの?」
彼はロッタの泣き声に手をさまよわせた。ロッタはわっとルクーにしがみつくと、大きな声でいよいよ本格的に号泣しだした。
すると騒ぎを聞きつけ、隣の屋台で子供たちを見ながら冷やかしをしていたケヴァンと、気ままに探索をしていたダインがやってくる。
「なに? なんかあった? ぅわっ!」
来るなり突然フェンリルに胸倉を掴まれて、ダインは驚いた。
「――妹から目を離すな。お前は兄貴だろ」
これほど感情的に、そして頭ごなしに語気を強めるフェンリルを、ダインは初めて目の当たりにした。恐ろしい形相に言葉をなくし、ひたすらこくこくと頷く。
やがてフェンリルはふっと手を放すと、逃げるように立ち去ってしまった。
理不尽な怒りをぶつけられていることはわかったが、なぜ急にフェンリルが怒ったのかわからなかい。
ロッタは普段からルクーにべったりだし、伯父のケヴァンが一緒にいる。様々な肌の色を持つ人々が行き交うこの場所は、冒険するに値するものだ。
よって妹から離れたとして、ダインに落ち度はない。
そのはずなのに。
「なんだよお」
ダインは拗ねた口調でぼやいた。恐ろしいはずのフェンリルの顔は、泣きそうにも見えた。
どうしてそう見えたのかも、これまたダインにはわからないことだった。
* * *
「なにしてやがる」
市の賑やかしさから離れた場所からひとり、木立の陰で潜むように膝を抱えるフェンリルを見つけ、カザドは少々驚いた。フェンリルの傍らには若者の異変を察したスコルとハティが控えている。
表情を失った病的な白さの顔の中、こちらに気づいたその目は爛々と異様に光っていた。はるかな昔にも、こんな目を見た。
先程のちょっとした騒ぎも含め、やはり、時期尚早だったのかもしれないとカザドは思った。
「チビに怒鳴りつけるなんて、らしくないな。いったいなにがあった?」
「――じいさん、そろそろ教えてくれよ」
寄る辺なく、うちひしがれた声だった。
「ここは、なんなんだ」
「お前、ケヴァン殿たちの話を聞いていなかったのか?」
カザドは眉間の皺を深くした。
市を見回りながらここがどういった場所なのか、戸惑う子供らに、ケヴァンやエイナルが丁寧に説明していたはずだった。
「なんで地の民が――天の民の中に混じってる」
フェンリルの硬い表情を見て、放任主義のカザドもさすがに思いなおした。カザドよりも彼らの方が上手く説明できるからと、高をくくって放置したのがいけなかった。
本来ならばそれは、カザドがしてやらなくてはいけないことだったのだ。特にフェンリルには、前もってきちんと説明してやることが必要だった。
だが、彼の抱えるものを重々承知していたからこそ、なにも言えずにいたところもあった。
ややあってから、カザドはいくらか手心を加えて説明を始めた。
「市、としか呼びようがないな。ここは天の民、地の民、知る人ぞ知る隠された、移動式の交流場で――お前たちどころか、俺が生まれるより前、もっと古くから存在している」
そう言われて考えてみれば、フェンリルにも合点がいくものがあった。むしろ今まで、気づかないでいたことが不思議でならない。
これまで地の民を襲撃して得た品々は、本来、地の民にとって価値のある物ばかりだ。
たとえば天の民が取り仕切るこういう場があったとして、それらを全て必要な物に交換するのは無理がある。集落で交渉したとて同じだろう。
地の民の物品のまことの価値を理解できるのは、同じ地の民でしかない。
「彼らならば地の民の国や町などを、堂々と行き来できる。盗品を上手にさばききることができる。代わりに我々は硬貨を得て、ここで必要な物を買いそろえる。俺はそうやって、何年もやってきたし、ケヴァン殿の集落でこの場を知らないのは、幼い子供くらいだ」
「ここは、あいつらは、地帝や帝国と関わりがあるのか?」
フェンリルは地の民たちを指さした。カザドは首を振った。
「いいや。存在くらいは、知られているだろう。だが各地すべての場所までは突き止められないし、そうなってはいけない。――ここにいる地の民たちは皆、帝国を捨て、逃げてきた者たち。あるいは追放された者たちばかりだからな」
「逃げるってなにからだよ」
フェンリルは唸った。
「追放されたって――まさかこの場の全員、同族殺しだとでも?」
布地を両手に掲げて道行く人々に声をかける、フェンリルといくらも変わらない年頃のような、あの地の民の少年まで。見事な彫りを施した食器を拭くあの老人までもが、罪人だとでも言うのではあるまい。
「そうじゃない。ここでは皆それぞれ何らかの事情を抱えて、逃げ延び、隠れて、互いの知恵を分かちながら生きている。ここでは天の民も地の民もない。皆同じだ」
「……天の民も、地の民も、ない?」
フェンリルは再びあたりを見渡した。我知らず、腕が胸元を這う。指が服の下に隠れた銀の腕輪に触れ、握りしめた。
眩む視界に異なる肌の人間同士が、笑い合う姿が映る。
けして、相手に剣を向けて脅したりはしない。
罵倒を浴びせることはない。
逃げる者を追いたてる奴はいない。
下卑た笑い声をたて、斬りつき、踏みつけ、若い女を犯そうとする獣もいない。
なんて穏やかで、朗らかで、にこやかで、平和で――
なんて、不気味な光景なんだろう。
「――気持ち悪ぃ」