第六章――鷹と狼⑤――
「傷が開くまでやり合うなんて、馬鹿じゃないの。血が出た時点でやめないのも、本当、まるっきり、馬鹿。トルヴァもじいさまも……何よりフェンリル! あんただよ! 本当、もう、馬鹿じゃないの?」
ヘルガは怒声を浴びせながらも、フェンリルの傷を縫い直してくれた。
ただし、それは細かく縫われたので、フェンリルは手のひらに走るちくちくした痛みが、正にヘルガの怒りそのもののように思えた。
「うん」
「すいません。反省させます」
ヘルガはキッと二人を睨みつけた。
「口先だけの反省とか、いらないから」
荒っぽい手当の様子を、すぐ側で眺めていたボズゥが嫌味ったらしく失笑する。
「そんな見てくれで、女の嫌なところだけ持ってるよなぁ、ホント。男の勝負の美徳が、わからねぇんだからぁ。ああ、やだやだぁ」
「てめぇは関係ねぇだろ。唇の隙間から、飯食うような目に合いたくなけりゃ、黙ってな」
ヘルガが針を構えて警告をする。本気の脅しを受けて、さすがのボズゥも口をつぐむ。きっとヘルガは当分の間、彼らとまともに口をきいてくれないに違いない。
フェンリルの手当てが終わると、その日の彼らは陸路を移動することになった。
「もうじき市につく。そこまで行けば我々の集落まではもう、目と鼻の先と言っていい。開けた場所で人も多いから、はぐれないように気をつけなさい」
がたごと揺れる橇に乗った子供たちに、エイナルがそう説明してくれた。船を橇に組み立て直して、目的地に向かう。川べりは雪解けが目立ち進みにくかったのだが、山奥に入ればまだまだ雪深かった。
「それから、市ではこういった物が必要になる」
エイナルが革袋からじゃらじゃらととりだしたのは、銀や銅製の丸くて平べったい無数の物体だった。祭りで踊る者が、布の端に縫いつける飾りに似ていた。
「これは硬貨という。市では物品の交換ばかりでは不便でね。ここで流通している物だ。物の価値や値段をつける相手によって、相手に渡す硬貨の量や質は異なる。お勉強が必要だから、今日のところは我々のやり方を見ていなさい」
「これで何ができるんだ?」
フェンリルは硬貨を裏表返しつつたずねた。
銀細工でもない、宝石でもない。羽根飾りでもなければ、刺繍や木彫りのお守りでもない。ほとんど同じ細工で統一された、薄くて平たいだけの貴金属に、物品の代わりになれるほどの価値があるとは思えなかったのだ。
聞かれたエイナルはにっこりした。
「簡潔に答えるなら『お買いもの』ができる」
意味がわからなかった。
エイナルは不思議そうにする子供たちに、数枚の硬貨が入った小袋を手渡した。とりあえず持っておけということらしい。
服のかくしに渡されたそれらを忍ばせていると、カザドが子供らに向かって言った。
「前もって言っておく。これから、お前たちはひどく驚くことになるだろう。――だが何もおこらないから、安心しろ」
それを聞き、馬を引いていたケヴァンが驚いた表情を向けた。
「カザド殿――まさかまだ、教えとらんかったんですか?」
何事にもおおらかそうなケヴァンにしては珍しい、責めるような口調だった。
カザドは彼を一瞥し、再び子供たちに――特にフェンリルに向けて――忠告めいた前置きを繰り返した。
「改めて言うが、何もおこらない。だからお前たちも、何もするな」
「じいさん、あんたさっきからなにを」
要領を得ないカザドに、フェンリルがやきもきした時だった。甲高い鳥の鳴き声が響き、突進してくる生き物がいた。
「こりゃいかん、捕まえろ!」
ケヴァンが真っ先に動いた。
白や茶の羽毛を懸命に羽ばたかせながら、橇のまわりをちょこまかと走り回るのは、数羽のニワトリだった。
フェンリル含め子供たちは、家禽の類をほとんど見たことがない。捕まえろとケヴァンが言うのも、どうしてそんなに慌てているかも理解できず、とっさには動けなかった。
興味を持って橇から手を伸ばそうとしたロッタも、ニワトリが真っ赤なトサカを逆立て羽根を広げた途端、悲鳴をあげて隣のルクーに飛びついた。
ニワトリを捕まえるのに積極性を見せたのは狼たちだったが、これにもケヴァンは大慌てだった。
「ああ、お前はダメダメ! あっち行きなさい。しっしっ!」
狼たち、特にハティがたちまち興奮して吠えたて、ニワトリを追いまわそうとしていた。好きにさせれば、二、三羽はハティのご馳走になりかねない。
カザドがハティを諌めていると、スコルがニワトリに襲いかかった。だが生かさず殺さずの力加減であり、ハティのようにむやみやたらに吠えて奔走させるのではなく、一か所にまとめるように追い立てている。
スコルに倣い、フェンリルや他の面々もニワトリを捕まえた。すると、ニワトリが向かってきた方向から、これまた慌てた様子の中年男が現れた。
「いやぁすまない。そいつらはうちのだ。捕まえてくれたのかい」
「なに、困った時はお互い様だ。どうだね? 全部いるかね?」
「――ああ、大丈夫そうだ。まったく、せがれに世話を任せた途端にこれだからな。お礼に、何羽かまけるがどうだい? 卵も売っているが?」
「卵だと? それはぜひとも……」
ケヴァンと男のやり取りを、フェンリルは息を飲み身体を強張らせて見つめた。
どうして双方が互いの存在に疑問を持たず会話を続けているのか、何故そんなに悠長なことをしているのか、まったくわからなかった。
「――なぁ」
トルヴァが歯の隙間から漏らすように、それは慎重に囁いた。見れば彼もフェンリル同様に驚き戸惑い――あるいは恐れていた。
「ケヴァンのおっちゃんが話してる相手、あれ、地の民だよな?」
フェンリルは自分の目がおかしくなったのではないと確信した。
ケヴァンが会話を続ける中年の男は、薄黄色の肌とハティのような茶黒の頭髪に髭。そして髪と同じく茶色の瞳を持っていた。
褐色や浅黒い以外の肌を見るのは久しぶりだが、それでも天の民の抜けるような白い肌とは大いに異なっている。
間違えようがない。地の民だ。
(なんで地の民が――)
まさか、戦士の仲間が――迎えに行ったという女神の血族が、ここまで先回りしてやってきたのだろうか?
だとしたら彼らの目的地は、集落は、どうなってしまったのだろう?
フェンリルはいいようの無い不安に駆られ、どうしようもなくカザドを見る。カザドの方も既に、こちらを見ていた。
ぶ厚くかかる暗雲のような重々しさで、カザドが告げた。
「ここから先で見聞きしたことを忘れるな。――けして、忘れるな」