第六章――鷹と狼③――
「なんだと?」
「見物ばかりのそっちはどうなんだ。参戦しようとしないあたり、大方足腰、がたがきてんだろ。としには勝てないんだもんな」
腕を組んであからさまに挑発するフェンリルに、カザドが眉根を寄せた。つきあいの浅いケヴァンとエイナルでも気づくほど、フェンリルの声には棘があった。
カザドはどうも、彼の神経を逆なでしたらしい。
フェンリルはカザドを冷たく睨みつけて、わずかに口角をあげた。
「――本当におれが速いだけなのかどうか、わからせてやるよ。おれが勝ったら、年寄りらしく隠居しな」
凍てつくような瞳の奥で、青白い火花が散っている。それを見たエイナルは呆気にとられた。
(なんと、まぁ……)
エイナルは、フェンリルという少年に対する認識を、改めなければならなかった。ひとたび暴れるとなれば手がつけられない、狼のように獰猛で執念深い気配がする。
(喧嘩が好きそうなのはトルヴァの方かと思ったが、本当に危ないのはこちらだったか……)
警戒心が強く慎重に見えていたが、実は誰よりも喧嘩っ早いのかもしれない。
「確かにな」
一呼吸置いて、カザドが呟いた。
「久しぶりに実力を見る、いい機会かもしれん。――良いだろう、つきあってやる」
カザドの口の端が、酷薄に持ちあがる。
年齢も上背も全く異なる二人だったが、そうしていると血縁ではないのが不思議なくらいによく似ていた。
「いやぁ、これは面白いことになってきたぞ」
やりとりを見守っていたケヴァンが、わくわくと瞳を輝かせて言った。
「実に面白いことになってきた。良い部位の肉でも賭けるか、エイナルよ?」
「お、いいですね。なら私は、集落に置いてきた秘蔵の酒でも出しましょうか。君らもどうだ? どちらが良い線いくと思う?」
たずねられた子供たちは、顔を見合わせて沈黙した。
「……おれなら賭けねぇかなぁ」
ボズゥの冷めた口調に、ケヴァンとエイナルは首を傾げる。するとトルヴァが二人にひらひらと手を振った。
「やめときなよ、おっちゃんたち。賭けは成立しない」
「そりゃ、どういう意味かね?」
トルヴァはにやりとした。
「勝負になんないってこと」
* * *
「なるほどなぁ」
「これは……ははぁ……」
数分後、ケヴァンとエイナルは子供たちの反応の意味を目の当たりにした。現在、カザドとフェンリルは距離をとり、相手の出方を見計らっている最中だ。
――だが彼らがこの体制に戻るのは、すでにこれで三度目だった。
「おい、まだいけるか?」
「――全然、余裕だ」
首をごきりと鳴らすカザドに対して、フェンリルは歯をむき出しにして吠える。その額には、玉のような汗が浮かんでいた。
彼らは今、構えも得物も異なって対峙している。それは二人が戦闘する前にたてた、互いの決めごとゆえだった。
ひとつは、手合わせ中にフェンリルが風を操れば、敗北とすること。もうひとつは、カザドは素手で彼と対戦することだった。
カザドが何も持たないことに対して最初、フェンリルは文句をつけた。
「お前ひとりをいなすのに、得物はいらん」
カザドにさらりと言われて、かちんときたフェンリルも自分に枷をつけたのだった。そうして二人の手合わせが始まってみれば、確かに、勝負になっていなかった。
開始早々、カザドの懐に飛び込んだフェンリルだったが、すぐに襟首を掴まれて放り投げられた。危なげなく着地したものの、すぐさま重く打ち込まれたカザドの掌底を、もろに喰らうことになった。
身の軽さが幸いして、動けただけ良かった。けれどフェンリルがカザド目がけて距離を詰めても、足首や手首をいくら狙っても、一撃も与えることはできなかった。
俊敏に跳びつくフェンリルに対し、地の底より根を張るようにどっしりと構えるカザドは、まるで一頭の大熊だった。カザドがわずかに手足を動すだけで、フェンリルの姿勢は容易に崩れて、距離をとらざるを得ない。
何を持ってしても動きそうになく、子猫とのじゃれあいに興じている風情さえあった。
「ね?」
トルヴァが三本目の串肉をたいらげて言った。
「一方的だなぁこりゃあ。リル坊の攻撃を、カザド殿は先んじていなしているようだ」
「手の内を読まれきっている。これは分が悪すぎるな」
ケヴァンとエイナルが呆気にとられて、渋い顔をした。
「風を使えば、また違うかもしれませんけどね。でも強情だから、一度言いだしたらきかないな」
トルヴァは指についた脂を舐めとった。
「案外ひっこみがつかなくて、困ってるかも。なんにせよそろそろですよ。多分先手は――ほら、フェンリルだ」
トルヴァの見立てどうり、先に動いたフェンリルは、まっすぐカザドに突っ込んでいった。
どうあってもカザドの足腰はびくともしない。
だというのに、一度動けば拳からも脚からも、それは速くて重い一撃が繰り出される。そしてすでにフェンリルは、息がつまるような一発を胸にもらっている。
とはいえ――体勢を崩す方法が全くないではない。
(――地面が見えてきた)
彼らの今いるこの地は、これまでの場所に比べて雪が柔らかく、少し踏みしめただけで豊かな黒土が顔をのぞかせた。
普段のフェンリルならまず迷いなくそうするはずだが、それはあまり、カザド相手に用いたい方法ではなかった。
なるべくなら、フェンリル自身の実力のみで、正攻法の拳と拳で、負けを認めさせてやりたい――しかし、こだわり出し惜しんでいては、勝てない相手だということもよくわかっていた。
フェンリルは心を決めると、カザドの間合いに入る直前で脚を止めて、ぐずぐずの雪面を思い切り蹴り上げた。
カザドは自分目がけて飛散する雪と黒土を、読んでいたかのような素早さで、飛び退ってかわした。だが湿った黒土に足をとられ、わずかに姿勢が崩れる。そこへフェンリルの低い足蹴りが、身体ごと雪面を滑ってきた。
脛に蹴りを喰らったカザドが前のめりになる。その襟首を、フェンリルが掴んで引き寄せた。
(――ここだ!)
木剣を、喉元目がけて走らせる。――その直前、フェンリルは手首をがしりとつかまれた。
カザドの上体がぐんと持ち上がり、振り下ろされる――重い頭突きを額に食らい、拳を頬に叩き込まれて、フェンリルは血を噴いた。