第六章――鷹と狼②――
舟は、揺れに揺れた。子供たちは振り落とされないように船体や積み荷にしがみつき、大人も岩礁や川岸にぶつからないよう、必死に舵取りをする。
だが右へ左へと大きく傾く舟に皆もれなく気分が悪くなり、最初の一日は早々に、川の流れのみに任せるのが一番だと判断された。
だいたいフェンリルとて、このように大きな物に風を纏わせ操るなんて芸当、やったためしがない。当然と言えば当然の結果だった。
「役立たずめ。いつも無意識に操っていながら、いい塩梅ってものがわからんのか」
「じゃあやってみろ」
カザドとフェンリルはぎすぎすと睨みあった。結局フェンリルがいい塩梅とやらを掴むまでに、それからたっぷり三日はかかった。
彼らは時に陸路もいった。生き物がいる以上、ずっと舟の上という訳にもいかなかったのだ。何よりこの舟は大勢が寝泊まりするような造りではなかった。
身動きが取れずいらだつ馬を駆り、狼たちを引き連れて狩りをすることもあった。
日が暮れれば川べりに天幕を張り、日が昇れば川を下る日々が続いて五日目の昼。その日の野営場としてつけた川岸は、それまでと様子が異なっていた。
雪こそ積もっているが合間に黒い土壌が覗けて、太い幹を持つ木々が増えてきている。少し探せば容易に獣の足跡を見つけることができた。
漂う空気も、きんと研ぎ澄まされたようなものではなくなってきている。湿り気のある土や、滲む露に濡れた葉っぱの匂いが混じり、雪風は穏やかだった。どこかしら、人の営みの気配がした。目的地まではもう、そこまで遠くないに違いない。
ケヴァンが作る食事の完成を待つ間、フェンリルとトルヴァが、どちらからともなく手合わせしだした。これは互いの調子を確認し合う、他愛ない取っ組みあいのようなものだ。
だが気づけば、二人のまわりには見物人が集まっていた。命の獲り合いとは違う若者の手合わせは、誰にとっても最高の娯楽だったのだ。
「トルヴァ、下! 下から来るよ!」
「フェンリルぅ、捕まるぞぉ、距離とれぇ!」
「どっちもがんばってー」
「やっちゃえ、やっちゃえ!」
「がんばれー!」
互いに打ち込む二人の手足には、次第に熱がこもるようになっていた。
彼らの一挙一動に野次が飛び、歓声が上がる。こうなるともはや、勝敗をつけずには終われなかった。
「――前はどっちが勝ったっけ?」
足蹴りをくり出しながらトルヴァが聞いた。フェンリルは彼の力強い突風のような蹴りを受け流すと、いくらも考えることなく断言した。
「おれ」
「即答かよ! よく思い出せっ、実はオレじゃないか?」
続けて蹴りを叩き込もうとするトルヴァの長い脚を俊敏にかわして、フェンリルはうっすらと口角を上げる。
「いいや――おれだったね」
(――あ、ヤバい)
どこか凄みのあるフェンリルの笑顔に、トルヴァは背筋がぞくりとした。こういう時のフェンリルは危険なのだ。
触れれば裂け切れる、かまいたちのようになったフェンリルを、突き飛ばすつもりで掌底する。しかし手のひらは空を貫いた。
「うぅわっ」
トルヴァはぎょっとした。フェンリルは、突き出されたトルヴァの腕を支えに低く跳び、その懐めがけて足蹴りをくり出してきていた。
あいている方の腕で受け止めたトルヴァだったが、フェンリルはその腕を軸に身体を回転させ、もう一撃、回し蹴りを放った。
側頭を綺麗に蹴飛ばされて、とうとう、トルヴァが膝をついた。
「……そんなん、ありかぁぁぁ?」
さらにその場にくずおれて手をつく。ぐわんぐわんと激しく揺れる頭でうなだれるとすっかり汗みずくで、額からも首筋も雫が垂っていた。
周囲でどっと歓声が上がっていたが、顔を上げる余裕はなく、雪の上で大の字にひっくり返る。
そんな彼の元に、降り注ぐ日の光を遮りながらフェンリルが近づいた。
「ほらな。おれの勝ち」
上気した清々しい頬笑みで勝ち誇るフェンリルを、トルヴァは小憎たらしく思いながら見上げた。
トルヴァでこれなのに、フェンリルの方は汗ひとつかいてやしなかったのだ。
「どう動いたら、ああなるんだ。身軽すぎだろうがよ」
「トルヴァは的がでかいから、掴みやすいんだよ。あんまり食わなきゃいいんだ。身軽になる」
「嫌だね、食うもんね。人を物干しか何かみたく、使いやがって。こうなったらオレは、誰よりもでかくなってやる。……あーあ。負けた、負けた! ちくしょう!」
二人は声をたてて笑いあった。この数日、何かと落ち着かないことばかりで、常に皆どこかぴりぴりしていたが、今は心よりくつろげた。
まだまだ若く幼い彼らにとって、気の知れた仲間との他愛ないやり取りこそ、なににも勝る最良の薬だった。
「リル坊もトル坊もやりよるなあ。そら、食え食え!」
明るい声で二人の元に歩みよるケヴァンの手には、焼けたばかりの串肉が握られていた。さっと笑顔を引っ込めて彼を警戒するフェンリルに、同じくこちらへ来ていたエイナルが声をかけた。
「いや本当に、たいしたものだ。我々の集落の者でも、ここまで動けはしない。地の民の戦士を相手に、生き延びたのも頷けるな」
「どうも」
手放しに誉めたエイナルだったが、ひとみしりを発揮したフェンリルの返事はすげなかった。口数の少なくなったフェンリルに代わり、さっそく串肉に齧りついていたトルヴァがあとを引き継いだ。
「そりゃあ、教える人が違いますって。じいさん容赦なかったもん」
「カザド殿が?」
ちらとエイナルが視線を配らせると、それまで黙って見物していたカザドが口を開いた。
「トルヴァの敗因のひとつは、一気に伸びた身長のせいだ」
そう言って彼の手首を掴み、曲げ伸ばしさせる。されるがままにしていたトルヴァだったが、何かの拍子に悲鳴をあげた。
「いっててて!」
「捻挫しているな。背丈と腕力のつり合いがとれていないから、自分で自分に振り回されて、こういうけがに繋がる」
「――ああ、身体の急成長に色々と追いついていないのか。どうだろう、関節は痛むかい? この辺は?」
「痛い痛い痛い!」
「肩が簡単に外されたのもそのせいだろう。もう少し身体が馴染むまで、あまり無茶はしない方が良いな。脱臼癖がつくぞ」
「わかった――わかったから放してくれ!」
大人二人に囲まれてあちこちまさぐられたトルヴァは、解放された時には恐怖と痛みで涙目になっていた。
「残りの敗因は?」
ヘルガが、トルヴァに若干同情めいた視線を投げかけてからたずねた。
「知っていたなら、次はこうならないんじゃないの?」
「おまえぇ……余計な事聞くんじゃねぇよぉ。フェンリルが今後、不利になったらどうすんだよぉ」
隣で肉を齧っていたボズゥが、ヘルガを肘でこづく。
ヘルガの皿にパンだけがある一方で、彼の皿にはもう一本の串肉が乗っていた――どうやら二人は、フェンリル達の勝敗を賭けていたらしい。
そのことに目ざとく気づいたフェンリルが、ぼそりと呟いた。
「――不利になんかならない」
「うえぇっ? いやぁ、そのぉ、変な意味じゃなくってさぁ」
フェンリルの視線に、ボズゥがしどろもどろに言い訳をする。カザドがふんと鼻を鳴らした。
「まぁ、あえてもうひとつあげるならな、トルヴァよ。フェンリルは、自分よりでかい相手との喧嘩に慣れてる。そもそもほとんどの人間が、こいつよりでかい」
みんながカザドに注目していたので、フェンリルが目元をぴくりと引きつらせたことに誰も気づかなかった。
「フェンリルは確かに速いし鋭い。だがそれだけだ。チビで軽いから、攻撃のひとつひとつが浅くて決定打に欠ける。だから急所を狙うしか能が無い――懐に入れさえしなければ、充分に勝てたと思うぞ」
さらにカザドは容赦なく続けた。
「年齢的に、トルヴァはまだまだ背が伸びる。体格も良い。速さはこのまま、上背と重さを活かせばゆくゆくは……」
「それなら確かめてみろよ」
そこまで静かに聞いていたフェンリルが、唐突に遮った。