第六章――鷹と狼①――
夜が明けると、世界は光さす薄もやの中だった。
湯だる鍋の中から立ち昇るようにもうもうと、あたり一面湯気が広がっている。川の水が暖かいためだ。
日が高くなる頃にはおさまるこの川霧は、吸い込めば身を切るほどだったが、その日の天候が穏やかになることを告げていた。
最後の火の番だったケヴァンは、あくび混じりに薪をくべて、火を更に大きくした。そして手際よく肉をさばき、順々に串に刺して焼いていく。
炙り肉の香ばしい匂いがあたりにただよう頃、目覚めた子供たちがぞろぞろと天幕から出てきた。
「おお、起きたかね。どぉれ、もう少し待っとれよ。いい頃合いのやつをくれてやるからな」
ケヴァンはまめで世話好きな男だった。誰よりもてきぱきと働いて、あっと言う間に食事の様式を整えてしまった。
そんな彼が特に熱心だったのは、人にたらふく食べさせることだ。
「そら、リル坊。おかわりだ。チーズは? パンは? そら、お茶だ。バターもたんまり入れなさい。なに、いらない? 肉の匂いがきついかね? それならほら、香草をたっぷりまぶしたやつと交換しよう。こいつは昨日、肝臓のすり身にも入れたやつでな。これがまた、焼くと一段と香りが良いんだ……」
寝起きからずっとそんな調子でつきまとわれて、フェンリルはすっかり辟易していた。食の細いフェンリルは、ケヴァンにとって格好の餌食だったのだ。
初対面の誰かがフェンリルに接すると、大抵彼のそっけなさと口数の少なさにめげて対話を諦めてしまうものだが、ケヴァンには通用しなかった。
これこそが天命とばかりに、次から次へとフェンリルに食べ物を寄こしてくる。
「ケヴァンおじさん、フェンリルはもうそんなに食えないよ。オレにちょうだい」
「おお、そうだな。お前も食い盛りだものな。そら。他に皿が空いてる者はいないかね?」
ダインがそう訴えなければ、ケヴァンの攻撃はまだ続いたに違いない。大きく切られた脂滴るバラ肉が刺さった串を見て、フェンリルは心よりダインに感謝した。
それでも普段より食べさせられたのは確かで、食事が終わる頃にはすっかり腹がくちくなっていた。
食事を終え天幕をまとめ終えると、とうとう橇のしかけとやらが明らかになった。
「これから面白い物を見せてやろう」
そう言ってケヴァンはカザドと一緒に橇をひっくり返した。二人が支える橇の底板に、エイナルが熱した長剣をあてがい木づちで数回たたくと、ぱきんと、小気味いい音と共に板が外れる。
その動作を何度も繰り返しているうちに、二台の橇はもう、その用途を成せないほどに分解されてしまった。
「……これが面白い物?」
誰もが困惑する中、トルヴァが口を開いた。彼の声の響きを敏感に聞き分けて、ルクーも首を傾げる。
「どうなってるの?」
「橇がばらばらだよ!」
「ばらばらになっちゃった!」
そろって声を上げる兄妹を見て、エイナルがにやりとした。いたずらな企みを持った笑顔のまま、彼は外した板を順番に並べていった。
そして懐から金属製の入れ物を取り出し、中に入った粘性のある飴色の液体を、刷毛を使い木の板に塗っていく。その後はカザドとケヴァンとエイナルの三人で、液体の塗られた面同士、枠同士を、ある一定の法則に則り組み合わせていった。
最後に鍋やたらいで集めた雪を、まんべんなくまぶして払い、出来上がった物を川に放してやる。
「舟だ!」
ダインが歓声をあげて飛び跳ねた。出来上がったのは一艘の舟だった。
二台分の橇で造られたその舟は帆柱を備え、その場の全員が乗り込み、積み荷を載せてもまだ余裕があるように見えた。不思議なのは組み木とは言え貼り合わせたばかりの木と板が、川に放してもびくともしないことだった。
「沈まないのが不思議だろう?」
エイナルが先程の入れ物を見せた。
「秘密はこれだ。これは外気にさらされると張り付き、冷やすとより強固に固まる。熱すると剥がれてしまうから、塗り直す必要があるが、組み木が加工しやすいんだ。多少の隙間も問題はない」
饒舌に語るエイナルを尻目に、子供たちははしゃいで舟に纏わりついた。しっかりと川に浮かぶナラの木の船は、確かに少々のことでは壊れそうにない。
「さあて、出番だリル坊! よろしく頼むぞぉ」
ケヴァンが期待の眼差しで拝みだしたので、フェンリルは戸惑った。
「なに……出番って、何が?」
「追い風があればなお、進みが早い。この帆に風を集めて進ませろ」
そんなフェンリルに、カザドが舟の帆を差して命じた。フェンリルは、カザドが集落でこの乗り物を目にした時には、既にこの事を算段していたに違いないと気づいた。
――つまりはこれより先の旅路において、風使いのフェンリルをこき使うことをだ。
「おれに何もさせなかったのは、この時の為か」
合点のいったフェンリルがねめつけると、カザドは鼻で笑った。
「お前のすかしっ屁なんざ、こんな時くらいしか使い道が無いからな。そらいけ、やれ」
しっしっと、犬を追い払うような仕草で促がされて、フェンリルは頭にきた。風使いなど何の役にもたたない――それは誰よりもフェンリル自身が常々思っていることだが、カザドに指摘されるのとでは訳が違った。
「おれを、なんだと思ってやがる。このっ……」
「せっかく体力を温存させてやったんだ。せいぜいみんなの役に立て」
背中を叩かれたフェンリルの足元では、さっそく、彼のいらだちに呼応するようにつむじ風が渦を巻き始めていた。
人間に馬、狼たちと積み荷。すべてが舟に乗り終えたのを確認してから、フェンリルは言われた通り、風を呼び込んだ。
帆が音を立ててたっぷりと広がり、舟のまわりだけ、台風の中心であるように霧が晴れる。追い風を受けた船は、霧を押しのけるように下流へと向かって進み出した。
――しかし好調な船出とは言えなかった。歓声が上がったのは一瞬で、すぐに悲鳴と不満の声に変わったのだ。
あまりに勢い良く舟が進みだした為、全員がその場で転倒し、身体のあちこちをしたたかにぶつけたからだった。