第五章――あたらよ⑥――
フェンリルの眼前に突き出された、皮紐に結びつけられたそれは、銀製の細い腕輪だった。
「これはお前が、身につけていた物だ。覚えはあるか?」
「これ」
皮紐の先で火を映して揺れる腕輪を、フェンリルは食いいって見つめた。長い間磨かれていなかったと見える銀の腕輪は、すっかりくすんでくもりきっていた。飾りの青や紫の色石も、ところどころ剥がれている。だが見間違えるはずがない。
その腕輪は、元を辿ればフェンリルの曽祖母の物だったという。その後は祖父の手に渡り、祖父が婚礼の祝いに祖母に贈り、祖母は生まれてきた父へと授けて――
そうして父から母の手首につけられたものを、駄々をこねたじゃじゃ馬娘が、とうとう貰い受けたのだった。十三のヘイルには少々大きくて、何かと手首から滑り落ちてしまうから、鎖に通して首から下げていた。
いいでしょう? きれいでしょう? と笑って、日の光に掲げながら歌うように自慢していた。
――大事な物だから、ちゃんとあとで返すのよ。
約束の証にと、フェンリルの首に下げられたのが最後だった。
「なくしたとばかり……」
「見つけた時、真っ二つに割れていた。だが鎖がお前の肩に引っかかっていてな。いつか確認しようと直して、持っていたままだった――家族の物だったのか?」
フェンリルは答えず、手のひらにのせられた細い腕輪を指でなぞった。確かに一部、修復の際に盛りあがったと思える跡がある。
「……俺はこれが、お前の命を繋いだんだと思っている。だから捨てられなかった」
こんな華奢な腕輪ひとつが、なんの助けになったと言うのだろう。共に斬り捨てられて、共に血まみれになった。それだけの物でしかない。
フェンリルは、そうやってなんでも奇跡や神秘に結びつけようとするなと、笑い飛ばそうとして――できなかった。
かわりに泣きそうな声で呟いた。
「――捨てないでいてくれて、ありがとう。……大事なものだったんだ」
「そうか」
フェンリルはかつてそうしたように、腕輪を通した革紐を首から下げた。胸元で揺れる腕輪を握りしめる。
長らく離れていた魂のかけらが戻ったようだった。
「そいつは腕につけないのか」
「これは女物だよ。本当は妻にする人に贈るものなんだ。――ほら、引っかかる」
手の甲より先に動かない腕輪を見せつけると、急にカザドは怒ったような口調になった。
「なんだこの手首の骨は」
「何が」
厄介そうな気配を感じ取り、フェンリルは身構えた。
どうもカザドのおせっかい心に火をつけたらしい。手首を掴まれ、ぶらぶらと揺すられる。
「肉づきが悪い。だいたいお前くらいの年頃は、もっと背が伸びるもんだろうが」
「そんなこと知るかよ」
「トルヴァを見てみろ。この二月、見ない間にぐんと伸びたのに、お前はなんだ。ヘルガにまで越されてやしないか」
「うるせえ」
巨大なお世話だった。
フェンリルはカザドの手を振り払い、お小言から隠れるようにハティの毛皮に顔をうずめた。
のしかかる重さに不服の唸り声をあげたハティだったが、丁寧に撫でてやるとおとなしくなった。
カザドの説教は続いた。
「みんなお前より年下だろうに。このままだとボズゥにも越されるぞ」
「うるせえって」
「なにがうるさいだ。真面目に話を聞け、大事なことだ」
「聞いてるよ」
「お前は身のこなしこそ軽いがな、体重をもっと増やすべきだ」
「ああ、そう……」
「まずはもっと寝て、もっと食え。そうすれば、おのずと背も伸びる」
「はいはい……」
「移動中も、休んじゃいないんだろう。ばれていないとでも思ったか。今日のところは、まぁ、もう良いだろう――だが明日はきちんと人並みに肉を食え。わかったか?」
「……」
「おい、わかったのか」
返事はなかった。
かわりに規則的な呼吸音が聞こえてくる。見ればハティに顔をうずめた不自然な体勢のまま、フェンリルは眠っていた。
「――ガキめ。話の途中だろうが」
ハティがフェンリルの頬を舐めたが、目覚める様子は無い。
時折びっくりするほど唐突に、気絶するような眠りにつくフェンリルのこの癖を、カザドは久しぶりに目撃した。
「彼は眠ったんですか」
カザドたちの元へ近づいてきた人影は、エイナルだった。そろそろ火の番を交代する時分だったのだと、カザドは気づいた。
エイナルはフェンリルの顔を覗きこみ、彼が深い眠りの中にあると知ると微笑んだ。
「私の娘も、おしゃべりの途中で突然、こんな風にことりと寝てしまうことがありますよ。彼もずいぶん、寝つきが良い。ぴくりともしない」
「その逆だ。こいつは普段、酷く寝つきが悪い。今も眠れずに出てきたんだ」
「それなら緊張が解けたのかもしれませんね。今日は大変な一日だったに違いない。彼だけ常に、張りつめた様子でしたから」
エイナルはカザドの向かいに腰かけて、革袋を手渡した。カザドが受け取り口をつけると、華やかな香りのする蜂蜜酒が入っていた。
「――昔はよく、うなされて起きていた」
酒で口を湿らせて、カザドは言った。
「今は叫ばなくなっただけ、ましになったな」
「では貴方の側だから、安心しているのでしょう」
「そうだろうか」
普段の憎まれ口を思いカザドは唸ったが、エイナルは再び笑みをこぼした。
「ひと目でこれは、気難しそうな若者だと思いましたよ。実際、彼は人みしりするのでは?」
確かに。たとえばエイナルのような親しくない他人が近づけば、飛び起きるような子供ではある。
(いや、もう子供ではないか)
成人したのだと、カザドは考え直した。そして、フェンリルが殺めた女神の戦士の、凄惨な姿を思い出す。
これまでにも、地の民を屠ったことはある。何もそれはフェンリルに限った話ではなく、トルヴァもボズゥも、ヘルガだって経験していることだ。
殺意を向ける相手には容赦するなと、子供らに教えてきたのはカザド自身だ。
そのことを後悔したことはない。いざという時に反撃できなければ、命を落とすのはこちらなのだ。
彼らには相手の命を奪う術を、自分の持ち得るすべてで叩き込んできたつもりだ。
だが今回の結果は、これまでと訳が違う。フェンリルが相手に負わせた傷が、すべてを物語っていた。
(あれがお前の望みなのか?)
無防備な寝顔を見つめ、カザドは心で問いかけた。フェンリルだけではない。皆語らないが、少し触れただけで血を噴く傷を抱えている。
それともフェンリルの負った傷は、未だ血を流し膿みただれているのだろうか。だとすればそれは、この世の何を以ってすれば塞がるのだろう?
(……いっそこのまま夜が明けなければ、幸せなのかもしれない)
カザドは空を仰いだ。
星空の彼方からこちらを見下ろす、何某かを睨みつけるようなつもりで。
星ぼしの光が刺すように降り注ぐ、凍てつく美しい夜だった。