第五章――あたらよ⑤――
「眠れないか」
低い声は静けさによく通った。
焚火の前に腰をすえ、かたわらに夜空の化身たる狼と茶黒の毛玉を従えたカザドが、こちらを見ていた。ケヴァンとエイナルの姿がないところを見るに、今は彼が火の番のようだ。火明かりに誘われるように、ふらふらとおぼつかない足取りで、フェンリルはカザドの隣に腰をおろした。
二人の間に横たわるハティがフェンリルに気づき、尻尾をゆっくりと振る。頭を掻いてやると、黒々とした目が細まった。
「腹が減っているんじゃないか?」
「べつに」
「肉はまだ充分にある。炙るか?」
フェンリルは首を振って焚火を見つめた。実際、出された食事をいくらも食べてはいなかった。もともと食べるということに積極的なたちではないのだ。
カザドは懐から包みを取り出し、中身のチーズを小刀で切り分けた。
「食え。この先その調子では身が持たん」
手渡された薄黄色のひと固まりを、フェンリルはうろん気に見つめた。受け取らない限り、カザドがいつまでもそうしているのがわかった。
しかたなく手にとって、無機質にちびちびと咀嚼する。フェンリルがきちんと食べているのを確認し、カザドは薪の中から一本、長いものを選び取った。
「眠れないついでに話してしまうから聞いておけ。これから俺たちが向かう場所についてだ」
カザドは薪で、足元の雪面にそれは簡単な図面を描いた。
「はじめに向かうのはこの川を下った先だ。そこは定期的に開かれる市があって、まずはあの戦利品をさばく」
「いち?」
「様々な一族が交流に利用する、交易場だ――そこで生活している者もいるようだが、集落とも遊牧ともまた違う。各地にそういった場所があるんだ。決まった期間、決まったその場で商売したあと、また別の地で市を開く。お前も一応成人した身だからな、そろそろ覚えておくべきだろう」
フェンリルは内心で拍子抜けしていた。この二月、老人が戻らぬ間に次こそは教えてもらうと意気込んでいたことが、向こうから突然切り出されたのだ。
このことを喜ぶべきか、憤るべきか迷っていると、更にカザドが言った。
「その後は更に川を下り、尾根向こうを目指す。その先の山すそに、ケヴァン殿たちの集落がある。ここが最終目的地だ――ここで、終わりにする」
「――」
フェンリルは言葉に隠れた含みに、はっとした。終わる。終わるとはまさか――
「どういう意味だ」
「どうもこうもない。――彼らはダインとロッタ以外も、受け入れてくれるそうだ。今後は集落の一員となって生活をする。それだけだ」
あまりに唐突に旅の終わりを告げられて、フェンリルは唖然とした。
これまでずっと、集落に居つくことを良しとしてこなかったカザドなのだ。誘いや申し出を、受けつけてこなかったカザドなのだ。フェンリルはその頑なな背中を、ずっと見続けてきた。
カザドはどこかの集落に立ち寄れば、可能な限り沈黙した。
歓迎の食事を受け入れても一人きり幕屋の外で食べて、夜が来れば幌馬車で眠りについた。提供された幕屋を使うのは子供たちばかりで、必要最低限の受け答えしかしないままやがて、逃げるように立ち去る。
集落にいる間の老人はいかにも不機嫌で、何かに急かされているように落ち着かな気で、いっそ、心細く見えるほどだった。そのように、集落にいつけないほど人嫌いな、頑固なこの老人が……
(それが、いったいどうして)
岩のように揺らがない彼の心を動かす、何があったというのか。
「どうして」
カザドはしばらく考えた後、ぽつりと、ぽつりと、落とすようにこぼし始めた。
「なに、どうということはない。そもそも地の民相手に盗みを働くなんざ、まともじゃないんだ」
「まともじゃない自覚があったのか」
カザドがぎろりと睨んだ。だがすぐ手元に目線を落として続けた。
「あの兄妹の母親から頼まれていた、ケヴァン殿の集落を見つけ出したし、あとは引き渡すだけだった。これまでにもこういうことはあったし、今回も同じはずだった。そのつもりだったんだが――まぁ、なんだ。今回、気が変わった。――俺もとしだからな。ここらが引き時なのさ」
「……言うほど老けちゃいないだろ」
カザドは苦笑した。
「お前ももう十五だ。そろそろ今後の身の振り方を、考えるべきだろう」
フェンリルはカザドの横顔をまじまじと見た。
地の民相手でも一切怯まず豪剣を振るう、衰え知らずの老人。
糧を得るために襲った地の民であっても、天王の慈悲を示すべきとふるまう、信心深い盗賊の頭領。
集落嫌いで、人が苦手で、なのに寄る辺なき子供にはめっぽう弱い、ぶっきらぼうなお人よし……
それがフェンリルの知るカザドのすべてだった。
しかし火明かりのもとで改めて見たカザドの顔は、刻まれた皺がより一層深みを増している気がした。頑固さは鳴りを潜め、どこへともなく彷徨いさらされ続けて老けこんだ、疲れた横顔だった。
いつのまに、カザドはこんな寂しい表情をするようになったのだろう?
(まさか自分のとしに、弱気になる日が来るなんて……)
突然すぎて戸惑いはあったとはいえ、拒否するつもりは毛頭なかった。フェンリルにとっては、明日もわからぬ放浪生活も、地の民相手の盗賊業も、集落暮らしになることだってさほど重要ではない。
大事なのはカザドがそこにいるかどうか――どこへ行き、何をしようと、カザドと共にあるか。それだけだ。
「そうかよ」
フェンリルは手元で弄んでいた残りのチーズをハティの鼻面に持っていった。ハティは思わぬおやつに尻尾を振って喜び、一口でたいらげてしまった。
「わかった。いいよ、それで」
吐息と共にもらすと、肩の力が抜けるような心地がした。いつかこんな日が来ると、ずっと予感していたのかもしれない。
それでは、これからはまったく別の生活が始まるのだ――ダインとロッタ、ルクーはまだ彼らの仲間入りをして一年と少しといったところだし、ケヴァン達に馴染むのは早いかもしれない。何より兄妹は身内と一緒にいられるのだから、これより良いことはないだろう。
トルヴァは器用だから、多分どこででもやっていける。ボズゥは……まず間違いなく文句を言う。でもきっと、心から反対したりはしないだろう。
そして集落暮らしはヘルガも望んでいたことだった。きっと喜ぶに違いない。
(でも……)
けれども暗い考えが頭をよぎるのを、どうしても避けることはできなかった。
房飾りの帽子。
なめした革の外套。
夜よりも暗い肌。
あの笑い声。
そして悲鳴。
ヘイルの悲鳴。
悲鳴。
悲鳴。
悲鳴!
(あいつらがいる限り、どこに行っても同じことになる……)
「――そうだ。ずっとお前に、渡そうと思っていたものがある」
火を見つめるフェンリルの瞳が剣呑な光を宿した時、カザドが再び懐から何かを取り出した。