第一章――カザド③――
しかしその行為につき合わされていたのも、カザドが十七になるまでだった。
年が明け暖かくなり始めた頃、いつものように寝室に招かれたカザドは、そこで男を殺した。
ことを済ませた男がいつものように無防備に寝転んだ時、ふいにそうしてやろうと思い至った。
柔らかくて厚い羊毛の枕が目にとまり、それを男の顔に押しあてた。
男は当然暴れて、腹やら何やらひどく蹴飛ばされたので、カザドは一旦断念せざるを得なかった。
それから側にあった剣で、枕の上から男の顔か喉を突きさした。
何度も何度も。男が動かなくなるまで。
その華美な装飾の剣はいつも抜き身で枕元に飾られていた。男は見事だろうと自慢して、カザドに触らせたこともあった。
見た目を大事にしたものなので、切れ味は良くないだろうとも言っていた。
その剣でカザドに殺されることなど、夢にも思っていなかったに違いない。
男が動かなくなった頃には、カザドもすっかりへとへとだった。そのまま寝台で寝転がりたかったが、そんなわけにはいかない。
泥のように重い体で寝室を後にすると、カザドは男の屋敷の住人を殺してまわった。
男の妻、妾、子供や使用人や護衛。容赦はしなかった。
無礼講と称して酒をふるまっていた日だったからだろう。皆酒に酔い、とてもあっけなかった。
ひどく疲れているのに、冷たい氷の芯でも通したように、頭は澄んでいた。一人、また一人と斬り捨てるたび、冷ややかさは洗練されていくようだった。
男の屋敷には、天の民もいた。皆カザドと同じ奴隷達で話したこともある。
カザドは彼らも殺した。彼らは地の民たちよりも無防備だった。
最初は、彼らを放っておくつもりだった。
しかし皆、逃げることも抵抗することもせず、ただぼんやりと血濡れのカザドを見つめていた。哀れな姿だった。
憐憫を凌駕したのは怒りだ。
激しい怒りがカザドの身の内から湧きあがり、剣をふるわせた。そうすべきだと言う気がした。
しかしそれでも皆、ぼんやりしていた。最後までそうだった。
カザドはこの世界の成り立ち全てに怒りを覚え、憎悪した。
その怒りを糧に、カザドは生き続けた。
地の民からは、即座にお尋ね者として追われる身となった。天の民からはもっとも憎まれる同族殺しとして、どの集落からも突き放された。
カザドにとっては願ってもないことだった。追ってくる地の民は一人として生かすつもりはなかったし、同族殺しをやめようとも思わなかった。
カザドにとってはどちらも殺め、略奪する存在だった。
傲慢な地の民も逃げ隠れるばかりの天の民も、どちらも等しく憎悪するべき敵だ。
獣のような生活を続けてしばらくした頃、カザドはある噂を耳にした。どこかに天の民だけの広大な集落が創られたというのだ。
そこは生きるに厳しいが地の民の支配が及ばぬ土地であり、季節に合わせて渡り歩く必要が無い。
そこでは毎日のように新しい天の民が産まれ、健やかな若者が育つ。
老いた者は皆に見守られながら、穏やかに最後の吐息をもらすことができると。
初め、カザドは信じなかった。絶望にうちひしがれた天の民の下らぬ世迷言だろうと思った。しかしそれ以来、その噂を気にするようになっていた。やがてその地に名前がついていることも知った。
ヴァナヘイム――天への階――と。その名に込められた願いに、気づかぬ天の民はいないと思われた。
いつからかカザドは同族殺しをやめていた。時折ヴァナヘイムの名を呟くこともあった。認めるまでに時間がかかったが、彼もまた失くした楽園に焦がれる一人だった。
その噂を初めて聞いた時から、二十年近くがたった。ヴァナヘイムは遠く隠されており、たどりついたカザドも老いた。
だと言うのに、もはやここは楽園とは呼べないのだった。