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チェスガルテン創世記  作者: ノミ丸
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第五章――あたらよ④――

 フェンリルの短剣は見つからなかった。戦士たちの亡骸を葬った大人たちにも聞いてまわったが、彼らからの答えはなにやら奇妙なものだった。

 最後の戦士が負っていた腿と鎖骨まわりの傷口が、ほかの亡骸のそれとは異なっていたという。


「一晩放置して、食べる際に柔らかくする時の肉があるだろう? ちょうどあのような状態だ。傷口が半分凍りついて、滲みだすほどにしか血が出ていなかった」


 本当に短剣で斬りつけたのか? と逆にたずねられたが、フェンリルにも答えられない。

 これらの事象が何事か証明できるものがあるとすれば、それはやはり、どこかに埋もれているはずの短剣のみだった。

 ハティの鼻で嗅ぎあててもらおうかとも考えたのだが、先を急ぐ旅路となる以上、あまりこだわってもいられない。

 結局、もうどこにもないものと、諦めるしかなかった。


「成人したての若造の手元から、古い剣が無くなった。これも天王様の思し召しだろうさ」


 フェンリルは呆れた。この世のどんな出来事も、カザドにかかれば天王のお導きとなるのかもしれない。

 得物が手元にないことは、心もとなく頼りない気持ちにさせたが、あえて反論はしなかった。

 その後彼らはカザド達の持ってきた食べ物と、戦士たちの騎馬を潰して得た肉で簡単な食事をとった。痕跡をなるたけ残さないよう、火を起こさなかったため、冷たいままの食事である。

 しかし、肉と塩があるだけでもごちそうだった。

 香草と混ぜ、すり身にして塗りつけた馬の肝臓のおかげで、石のようだったパンも柔らかくなったし、久しぶりに食べた集落のチーズは美味しかった。そして生の馬肉は兎や小魚よりもずっと活力が湧いた。

 戦士たちが駆っていたのは、雪道も苦にせず怒号や火の勢いにも(おのの)かない、立派な軍馬だった。

 だからこそ連れ歩くには目立ちすぎた。かと言って野に放てば、主人の仲間の元に帰りつき、異変をいち早く知らせる存在となるだろう。

 そんな理由から彼らの糧となったのだが、一度乗ってみてからでも遅くなかったのにと、トルヴァがいつまでも惜しんでいた。

 そして今回、カザド達大人が移動の為に利用したのは、二台の大きな(そり)だった。


「いつもの幌馬車(ほろばしゃ)はどうしたんだ?」

「車軸がいかれて駄目になった」


 カザドは簡潔に答えた。あの幌馬車はフェンリルの記憶のある限り昔から、長く使ってきたものだった。


「寿命だろうな。そのかわりに、彼らの集落で橇を借りることになったんだ。雪道だとこれほど快適なものはない。滑るように進んでくれる。――まあ、舵取りは少々難しいが」


 話を側で聞いていたケヴァンが笑った。


「なあになあに、カザド殿は馬の扱いが上手いからすぐ慣れますとも。それと、この橇には少々面白いしかけもある」

「しかけって?」


 (そり)に張った天幕から顔を出してダインがたずねたが、ケヴァンはだめだめと手を振りもったいぶった。


「まあ、まてまて。答えは今にわかる。ともかくお前たちは乗っていなさい。今はまだ火を起こせないから、しっかり互いにくっつきあってな」


 荷物と子供たちを二手に分けて、橇は出発した。歩く必要が無いのはありがたいが、橇はカザドが言うほど快適な乗り物とは言えなかった。

 元来た道の匂いを辿り、彼らを扇動するスコルとハティがいても、歩みはずっと遅い。

 風こそないが霧のたちこめる薄暗がり、火も起こさず道なき道を進むのは誰であっても無謀なことで、馬をも虐める行いだった。


「霧を晴らそうか? 今よりはましになるだろ」


 フェンリルが申し出たが、彼の顔を見た途端、カザドは渋い表情になった。


「いらん、お前は休め」

「だけど――」

「休め。わかったな」


 反論は一切認めない、強い口調だった。


「目を閉じてるだけでも違うから、座っておけよ。気づいてないみたいだけど、かなり顔色悪いぜ」


 トルヴァが言うと、フェンリルは橇の中に引きさがりはした。けれど膝を抱えて目を光らせている彼の頑なさを見て、トルヴァもついに説得を諦めた。

 時折雪の塊に引っかかった橇が揺れ、夜行性の生き物の鳴き声が遠くからでも聞こえてきた。夜は彼らの歩みを追い越して深くなり、あたりはより一層冷えていく。

 そうして幾度も獣しか使わないような斜面を登り降りし、夜の帳がとっぷりと降りた頃、彼らの歩みは止まった。

 フェンリルはとうとう馬がいじけてしまったのだと考えた。


「今夜はここで野営する。天幕を張るから手伝え」


 カザドが告げたのは歓迎すべき内容だった。うつらうつらと船を漕いでいた子供たちが降り立つと、そこは川のほとりだった。

 フェンリル達が拠点にしていた洞窟の側の小川よりも深く、流れの早い大川(おおかわ)で、黒く暗く、どうどうと流れる流水は星明かりに煌めき、周囲に水音を轟かせていた。

 彼らはその場に素早く天幕を張り、毛皮をたっぷりと敷いて火を起こした。暗闇の中に灯った篝火は、凍えてこわばった彼らの心身をおおいに温めた。

 その後大人たちは子供たちを労り、寝ずの番を担ってくれた。

 大人に甘えるということから離れがちの子供たちにはありがたい申し出で、彼らは天幕の中、久しぶりに安心しきった眠りについた――ただ一人をのぞいて。


 毛皮の掛けものを被って横になってはみたものの、眠れないままで身じろぐのはフェンリルだった。

 日の高いうちに意識を無くしていたとはいえ、彼の身体はまだ休息を必要としていた。そのはずなのに、右を向けども左を向けども一向に、甘美なるまどろみはやってこない。

 それどころか黒い(もや)が瞼のむこうにかかり、意識に覆いかぶさってくる。形のないまま鎌首をもたげるそれは、フェンリルの抱く不安や恐れそのものだった。

 ついには夜のしじまを引き裂くような悲鳴を聞いた気がして、フェンリルは思わず耳を塞いで飛び起きた。

 あたりを見渡すも誰一人起きていない。安らかな寝息だけが天幕を支配していた。額に浮かぶ汗をぬぐい、フェンリルはそっと天幕を忍び出た。

 濃密な霧はいつのまにか晴れていた。

 すべてが凍りつくほどに冷えきり澄んだ夜だった――仰げば空には、いつ降り注いでもおかしくない、数多の星ぼしと細い弓張りの月が、冴え冴えとした光を放ちながらこちらを見下ろしている。

 翼をもってこのまま、夜の空に飛び去ってしまえたら――いっそ、この凍てつく清廉な空気に融けてしまえたなら、どんなに気分が良いだろう。

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