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チェスガルテン創世記  作者: ノミ丸
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第五章――あたらよ①――

 吹きすさぶ風の音に、歌声が混じっていた。

 それは祝い事があった時に紡がれる言祝ぎのようでもあったし、羊を追う時の掛け声のようでもあった。子守り歌のようにも聞こえた。

 あるいは創世の時代を語り継ぐ(サーガ)のようだった。


 ――天空と大地、飢えと凍え、喜びも無ければ言葉も無く……

 

 この声を知っていると思った。耳をよく澄まし、誰の声なのかをあてようとする。だが、寂しげであまやかな調べは、まどろみからの目覚めと共に遠ざかっていった。

 やがては凍てつく豪風の向こう側へと去ってしまい、二度と戻ってくることはなかった。

 身じろぐとそこは毛皮の敷かれた天幕の中だった。細く削って張りを持たせた骨組の天井をぼんやりと見上げ、次に、すぐ側で胡坐をかくそばかすの少年を見やった。


「……ボズゥ」


 呼びかけると、棘の生えた木の実でも丸飲みしたかのように、いがいがと喉が痛んだ。咳き込みながら体を起こすと、ボズゥが破顔した。


「フェンリル、気がついたかぁ」


 ボズゥが差し出した革袋を受け取り、口をつけた。中の水は喉を潤しはしたものの、痛みを癒すほどではない。けれど冷たさのおかげで、いくらか頭がはっきりした。


「喉が痛い」

「あれだけ叫べば潰れるさぁ。それよりさ、腹減っただろぉ? なんか食えるもん持ってくるから、ちょっと待っててくれなぁ」


 いそいそと天幕から出ていくボズゥの背中を見送り、フェンリルは再び水を含んで倒れ込んだ。いつ寝たのか、今が何時かわからない。全身が水気したたる泥のように重い。

 空腹感よりも気持ち悪さの方が勝る、ひどい倦怠感だった。さらに自分の状態に気を配ってみると、喉だけではなく体のあちこちが痛んでいた。痛みが一番強いのは手のひらだ。

 まかれた布に血が滲み、指先を少し動かしただけで引きつれた。ぎこちなく握ったり開いたりを繰り返すうちに、手のひらに食い込んだ短剣の感触が蘇ってきた。それを皮切りに、次々と倒れる前のことが脳裏を駆けめぐった。

 房飾りのついた帽子。なめした皮の外套。黒い肌の(けだもの)達。見る物すべてが真っ赤に染まった、狂おしい衝動。

 そしてヘイルの悲鳴とまぼろし……


(短剣は……)


 手近にあるはずとあたりをまさぐると、すぐ側に横たえられた毛皮に触れた。


「うわ」


 フェンリルは毛皮に潜り込ませた手を引っ込めた。暖かく肉厚の毛皮は生きていたのだ。フェンリルのがらがら声に反応し、尖った耳をぴくりとさせて頭をあげたのは、一匹の大きな狼だった。

 狼は、不作法にも下腹に手を潜り込ませてきたフェンリルに対し、吠えもせず豊かな尻尾も振らず、湿った鼻先をほんの少しだけ向けてきた。

 頭から尻尾の先まで、艶が出るほど磨いたような黒々とした体躯は悠然と力強く、じっとこちらを見返す琥珀色の瞳は、かしこさに満ちていた。

 星の瞬きのみに煌めく夜空の化身のような、美しい生き物だった。喉笛に喰らいつかれればひとたまりもないと容易に想像がつき、迂闊に撫でまわせない雰囲気を放っている。

 フェンリルは首を傾げた。


「お前、もっと茶色っぽくなかったか?」

「そいつはスコルだ」


 幕を開け入ってきたのは、くしゃくしゃ頭のボズゥではなく、白髪混じりの青髪だった。そして一緒に元気な茶黒の犬も侵入してきて、フェンリルに飛びついた。

 息つく間もなく顔中を舐めまわされて、フェンリルは顔をしかめた。


「やめろ、離れろって」

「お前が言っているのはこいつ、ハティの方だろう。どうにも落ち着きが無くていかん奴だ」


 カザドはハティを(たしな)めながら、フェンリルの目の前に腰を降ろした。それでもハティは世話しなく、フェンリルの回りをうろうろとしていた。


「人間のガキだけじゃ飽き足らず、今度は犬かよ」

「スコルはともかく、ハティは純粋な犬じゃない。狼犬というやつだ。これでも、狼のようにかしこく獰猛だぞ。鼻も犬より良いしな。酷い嵐の悪路だったが、こいつらのおかげで、お前たちを見つけられた」


 二月ぶりのカザドは、見知らぬ犬を引き連れていること以外、これといって大きな変化はなかった。老人にしてはしゃんと伸びた背筋に、未だ衰えを知らない頑健な体つき。

 彼がいかなる人間かを表したかのような刺青も、すべてが変わりない。皮膚のたるみが現れるようなとしだろうに、彫られた鷹の羽ばたきはむしろ、年齢を重ねるごとに硬く、強く、馴染んでいくようだ。

 待たせたなとも、すまなかったとも、申し開きをするようなことをしない。開き直りふてぶてしく見える態度もそのままだ。しかしカザドとて、悠々自適にのんびりと過ごしていたわけではなかったのだということは、口調から察せられた。

 少しばかしやつれて見えるのはそのせいだろう。――本当に、ほんの少しだけではあるが。

 自分たちがどんなに大変だったかについてを丁寧に教えてやろうと思っていたが、今はやめることにした。


「かしこく獰猛? 本当か、おい」


 フェンリルはハティの頭を両手で挟みこんで、うりうりと撫でまわしてやった。狼の血が入ってるとは思えないハティの瞳は、瞳孔の境がわからないほど黒々と艶めいている。

 両手いっぱいにうもる、硬くてたっぷりとした茶黒の体毛。若くて好奇心の塊である、ちぎれんばかりの尻尾。しまわない舌に、笑顔に見えなくもない緩んだ表情――

 よくもまあこんな調子で、あの命の獲りあいの場に乱入してこれたものだ。


(獰猛さのかけらもないじゃないか)

 

 人懐っこさ全開のハティにつられて、フェンリルも自然と顔がほころんでいた。今はカザドへの不満よりも、この惜しげもなく愛嬌をふりまく毛玉への関心が勝っていたのだった。

 ハティとの戯れを堪能するフェンリルの額に、硬くて厚い大きな手のひらがあてがわれた。見れば黄金の双眸がこちらを覗きこんでいる。

 そこには気安さと労りが宿っていた。


「ん。顔色は悪いが熱は無いな。倒れることが特技のお前にしちゃあ上出来だ」


 カザドは厳しい相貌をかすかに崩し、口の端を持ちあげた。額から頭に滑らせたた手のひらが、乱雑にフェンリルの頭を撫でまわす。

 小さな子供にするような手つきに、フェンリルは気恥かしさを覚えて払いのけようとした。


「ガキ扱いするな」

「よしよし、意識もしっかりしているな。――さて」


 だがしかし、カザドの手はびくともしなかった。


「……? いっ――!」


 フェンリルの頭骨がみしりと鳴った。


「積み荷半分。食料半分」


 頭にカザドの指が喰い込んでいた。穏やかだったはずの濁流の声が、ひとつひとつ丁寧に言い募りながら静かに怒りを立ち昇らせていく。ぎりぎりと締めつけられて痛みが走るも、頭を動かせない。

 嫌な予感がした。


「戦闘は素早く、綺麗に終わらせろ。――俺が散々口を酸っぱくして教え込んだことを、ひとつ残らず破りやがって。人が居ぬ間に、舐めた真似をしてくれたな。このくそガキ共が!」


 フェンリルの嫌な予感は的中し、怒声が天幕を突き抜け響き渡る。その怒鳴り声に、ハティは転げまわって天幕を飛び出した。

 久しぶりに落ちたその雷は、カザドが確かに戻ってきたと、子供たちを震え上がらせたのだった。


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