第四章――襲撃⑧――
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手元から離れ落下していく短剣を目で追うと、握りしめていた柄が粉々に砕け散っていた。いつのまにか、むき身の刃を握りしめていたのだ。
フェンリルの手のひらに喰い込んだ刃は、獣たちばかりか彼自身の血を纏ってぬめり、とうとう抜け落ちたのだった。
フェンリルが年相応の幼さで呆気にとられたその一瞬、戦士の拳が側頭に叩き込まれた。完全に虚をつかれて、衝撃を受け流すこともできずに吹っ飛ばされて倒れ込む。
すぐに起き上がろうと肘をついたが――ぐわんと視界が揺れ吐き気を催した。蹲るその薄い背中に、ずしりとした重みがのしかかった。
――背後を取られた!
「どけ!」
清々しさは失せ、激昂する。
しかし容赦なく頭を雪面に押し付けられた。猛犬の如く唸り声をあげて暴れるフェンリルの首筋に、更に体重がかけられる。
こうなると細身で小柄なフェンリルには分が悪かった。このままだと息ができずに気絶する。最悪首の骨を折られるだろう。
逃れようと雪を掻き、雪面を蹴ってじたばたともがきながら、落とした短剣を手さぐりに探した。
(どこだ)
視線を動かすが、見える場所にはない。掴むのは雪ばかりだ。どれだけ飛ばされたのだろう。
息がつまり視界がぼやけ、耳の奥が圧力で破裂しそうな感覚を覚える。
なのにヘイルの悲鳴はフェンリルのすぐ側で、痛ましくこだましていた。あの夜の怒号が、燃え盛る炎が、人々が羊の群れのように散り散りになって逃げ惑う様が蘇る。
――いつのまにか、目の前にヘイルが立っていた。
ぼろぼろの服を纏ったヘイルは血塗れだ。金の髪を乱し白い素肌をほとんどさらして、濁りきった紫の目から、とめどなく涙が溢れている。
刺された胸を掻き毟り、細くのけぞった喉から悲鳴が迸る。
痛かっただろう。
苦しかっただろう。
怖かっただろう。
なのに。
(――誰も聞いちゃいない。おれ以外の誰も。あれだけの人間がいて――誰も、誰も、誰ひとり!)
悲痛な泣き声を楽しむ者こそあれ、憐れんだ者はいなかった。
天王に届くどころか、それどころか、あの声を聞いたのが、届いたのが、それが、よりにもよって獣だったなんて。
(ふざけやがって)
噛みしめた奥歯が軋んだ。
(聞けない耳は殺いでやる。見えない目なら潰してやる。笑い声をたてる前に、顎から引き裂いてやる――お前ら全員、そうしてやる)
血を吐くような思いで、フェンリルは吠えた。
背中に齧りつく獣を振り落としてやろうと、渾身の力を込める。手のひらの傷が裂け、全身が軋んで悲鳴を上げたが、知ったことではない。
じわじわとフェンリルの上体が持ち上がる。戦士は踏ん張り、させまいとしたがどこからか吠え声と共に、一匹の犬が飛びかかった。
『なんだ、お前は。あっちへ行け!』
そちらに気を取られた戦士の、頭を押さえつける腕の力が緩んだのを感じとり、フェンリルは一息吸い込み叫んだ。
「来い!」
声に合わせて、激しいつむじ風が巻き起こる。背中の重みがわずかにずれた。
そして、まるで当然のように掴んでいた短剣を――いつのまにか手元に戻ってきたそれを、今度こそ戦士の腿に突き立てた。
犬が素早く飛び去り、戦士が激痛に雄叫びを上げる。
上体を浮かせた分空いた隙間で身体をねじり、更にお見舞いしてやろうと短剣を引き抜くと、相手は血走った眼でフェンリルの首をわし掴んできた。
『この狂戦士めが……!』
逆光を背負い剛力でこちらを締め上げる戦士の表情はどす黒かった。向き合った状態ですぐさま短剣を突き刺したが、狙いが定まっていないうえに腕の長さが違いすぎた。
刃は首まで届かず鎖骨の辺りで止まって――それが、なんだと言うのだろう?
問題はない。
絞め殺されようが、体がバラバラになろうが構わない。
やれ。
殺せ。
壊せ。
――この世のすべて、あの炎にくべて燃やしてしまえ!
「があ゛あ゛あ゛ああああ゛あ゛!」
天の星をも穿ち、地の底にまで轟くような咆哮に怯まず動けたのは、戦士の背後から更に逆光を背負って現れたひとつの影だけだった。
『ぐっ!』
突如戦士が呻き、手の力を緩めた。ぎこちなく自身の体に手を這わせる。すると胸を貫く切っ先が飛び出した。
込み上げたように血を吹き出す戦士を、誰かが蹴り飛ばす。倒れ込む戦士の下敷きになりながら、フェンリルは思い切り息を吸い込んだ。
激しい呼吸とえづくような咳を繰り返し、身を捩る。びくびくと痙攣する戦士の体の下からなんとか這い出ると、岩を割る濁流のような声が降り注いだ。
「なんて有り様だ」
涙目の隙間から見上げると、いかめしい表情の男が立っていた。
猛禽のような鋭い金の双眸に、老齢ゆえ白いものが増えた青い頭髪。左頬に鷹の刺青を彫った男は、厳しい眼差しでフェンリルを見下ろしていた。
「十五にもなって、俺の留守をまともに守ることもできないのか? フェンリル」
子供たちの長たる老人、イル=カザドは剣の血のりを払い、いつもの調子で叱責した。変わったばかりの自分の年齢を言いあてたことに、ひそかにフェンリルは驚いた。
「遅えんだよ、くそじじい……」
言いたいことはそれこそ星の数ほどあったが、悪態をつくのがやっとだった。身体が泥のように重くなり、視界がざあっと白くなっていく。気絶する寸前だった。
(そうだった……助けは来たんだった)
吐息ひとつ漏らさなくなったヘイルの側に寄り添うように現れたのは、フェンリルの命を救ったのは、このカザドだった。
地の民に囲まれて剣を振るう父も、逃げろと叫び母を庇うヴィーダルも、どれほど待っても現れることはなかった。ましてや天王など――
しかし好奇心旺盛にフェンリルに纏わりつく、茶黒の毛玉までは伴っていなかったはずだが。
(なんだこいつ)
犬がフェンリルの鼻先を舐めとった。
炎と血の匂いが犬の生臭い息にかき消され、ヘイルの声が霧の彼方へと遠のいていく……
(じいさんが来てくれたから、もう大丈夫。もうそんなに泣かなくて良い……ヘイル……)
天王がいたなら、きっと彼のような姿をしている。
張り詰めていたものがふつりと切れて、フェンリルは意識を手放した。
第四章終了。次回より第五章開始です。
なおカクヨムさんの方で最新話を先行公開していきますので、読みやすい方をお選びください。
またnoteでキャラのらくがきなんかを公開中です。