第一章――カザド②――
カザドほど、平穏と言う言葉が似合わない男はいなかった。確かに世界は平穏とは言えないが――特にほとんどの天の民にとっては――争いとは無縁のまま人生を終えられる幸福な者もいる。
カザドがほかの天の民と同じように慎ましく生きられないのは、彼がすなわち、罪人であるからだった。
カザドは今踏みしめているこのヴァナヘイムよりも、はるか東の地でその生を受けた。
父の顔も母の顔も知らず、誰が与えたのかわからない名前だけを持って、年の近い他の天の民たちと共に、奴隷として売られていた。
遥か大昔に起こった神々の争い以来、多くの天の民が隠れて生きていた。地の民に発見されれば最後、その場で殺されるか、奴隷として酷使されるかのどちらかだった。
珍しいことではなく、殺されなかっただけましなのだと当時のカザドは思っていた。
カザドを買ったのは、小太りな地の民の貴族だった。当時の地帝の傍近くに身を置く成金上がりのようだったが、カザドも詳しく知っていたわけではない。
貴族や成金が、どのような意味を持つのか知らなかったというのもあるが、そもそも、その男の顔も名前もとうの昔に忘れてしまった。
覚えているのは、その男が褒められない嗜好の持ち主だったことだ。男は己よりも弱く力の無い者を、いたぶり傷つけることを何より好んだ。
それだけではなく見た目の良い天の民ならば、少年であろうと少女であろうと自室に連れ込み、夜伽の相手をさせたのだ。
男のお気に入りは胸糞の悪いことにカザドだった。理由は単純なもので、カザドが天の民の中でも珍しく、青い髪と金の目を持っていたからだ。
天の民の唯一の王であり神、天王ヴィセーレンは、紺碧の髪と、白雲のように抜ける肌、太陽のような黄金の瞳だったと伝わっていた。この組み合わせの体色を持って生まれる天の民は滅多にいない。
地の民の男は彼を寝台で引きよせては、楽しそうに笑うのだった。
「天王を抱いているような心地がする」と……
それを聞くたびに、舐めまわすような手つきを体に感じるたびに、カザドは粘るような気分の悪さを感じていた。
それが、嫌悪という感情であることも知らなかった。