第二章――フェンリル②――
「どうかなさいました? 楽しそうなお顔をして」
「思い出し笑いだ。昔、お前も聞かされなかったか? ある豪族のところの……」
その時甲高い馬のいななきが響き、幌の天井が音をたてて大きく沈んだ。
直後に馬車が激しく揺れ、何が起きたか考える間もなく男と家族が縦揺れになった。
揺れはしばらく続いて、馬車が止まったとわかった時には皆が姿勢を崩して倒れこみ、何ごとかと目を白黒させていた。
使用人の腕の中では、末の子が不服を訴えて泣き声をあげている。
「大丈夫か?」
「えぇ……」
使用人の女に支えられながら、妻が姿勢を正すのを確かめ他の子供たちに目を配らせた。驚いているが、特にけがをした様子はなかった。
「旦那様……」
ともすれば今にもかき消えそうな御者の呼び声に男は立ち上がり、引き裂くように幌をめくりあげた。
「何ごとだ! お前がいながらいったい…」
「そっちから出てきてくれるとは」
しかし眼前に突き付けられた刃に男の声は途切れた。
絶句する男の耳に、かすかに喜悦を含んだ声が届いた。切っ先からどうにか目をそらすと、刃を構えているのは頭からすっぽりと薄い灰色の布を巻きつけ、同じく灰色の外套に身を包んだ人物だった。
あたりを見るともう一人、同じ格好の者が御者の背中にぴったりと張り付き、その喉に刃をあてがっていた。
どちらもしっかり巻いた布のおかげではっきりした容貌はうかがえなかったが、男を睨む凍るような青い眼は、彼らが地の民ではないことを表していた。
(まさか、これが亡霊……)
男が我が目を疑う中、かの亡霊は冷ややかな刃を男の首筋にあてて、腰の剣にのびかけていた腕を踏みつけた。
しまったと思った瞬間、亡霊は男を見すえて慣れた調子で言った。
「さっさと降りなおっさん」
* * *
男は素直に従い家族と共に馬車を降りた。
何がなんだかわからないまま雪の上に膝をつかされ、布越しに雪の冷たさを感じて状況を整理することができた。
天の民の亡霊は全部で五人いた。驚くべきことにいずれも子供と思われた。
一番背丈のある者でさえ、並んで立てば男の長男よりも低いだろう。男に刃を突き付けていた者も、こうして見ればずっと小柄だった。
その気になれば切り抜けられそうだったが、護衛の者が後ろ手に縛られて男の隣に膝をつかされたのを見て、呻くこととなった。
こういう時に役に立たず、何のために雇った護衛なのか。
商人一家と使用人の女と御者、そして護衛が全員馬車から下りたのを確認すると、先ほどの亡霊がおもむろに男に言った。
「あんただな?」
「なに?」
「あんたが、この中で一番偉い。そうだろう?」
改めて聞けばその声はやはり若かった。
男は生唾を飲み込んだ。
「……だとしたらなんだ」
「取引だ」
きっぱりとした簡潔な返事だった。
「積み荷と、食糧を半分置いていけ。そうすれば命は助けてやる」
「なんだと」
その要求に男は唖然とした。亡霊に必要なものとはとても思えない。
(これが亡霊?)
亡者にありがちな、おどろおどろしい印象は一切感じない。
五人の亡霊は皆身軽そうで、若いと言うよりも幼そうで、しっかりと地に足をつけて立ち、得物を持ってこちらを脅している。
(いいや、そうではない。盗賊だ。天の民の……天の民の盗賊?)
地の民に歯向かう天の民など、聞いたことはない。それこそあの昔話くらいだ。
すべての天の民はアマナ女神の恩情によって生かされているのであり、地の民に従属し許しを請うのが本来である。
ましてやこのような子供に膝をつかされるなどありえないことだった。
男が困惑してまごついていると埒が明かないと思ったのか、取引を持ちかけた天の民がふいに、男の妻と使用人の方へと進みでて身を屈めた。