枯れ落ちた花びら
「すまない、許してくれとは言わないよ」
そう言って彼は私の腹部からナイフを引き抜いた。寒い時期だからか余計に私のお腹から流れ出る鮮血を、脳が感じたことのない熱さだと訴えていた。だが私は雪に点々と落ちる赤い染みよりも、目の前にいる男に裏切られた事実が、奥歯をかみ砕きたくなるほどに心を痛くさせた。
目の前の景色は意識が遠いのか、無意識にあふれている涙の所為か、モザイク壁画のように視界を歪めている。あぁ、死んでやるものですか。絶対に。絶対に。絶対、に……。
私ことソフィア・アリスノートはここら一帯を統治するアリスノート伯爵家の令嬢である。当然、私は良家の生まれで有り、他の人と比べると相当に恵まれた幼少期を過ごしたと思う。
赤茶色で上品で艶やかな髪は母親譲りであり、父からは碧眼を譲り受けた。貴族はわがままボディだと言われることが多いのだが、例に違わず私も体系には恵まれていると言える。アリステン発足の頃に豚貴族がきょぬーの血を見境なく襲ったからだろうが。ことわざでも言われている。美人の裏には豚が居るだったか。意味は確か親の事を聞くな、だったはずだ。知らないけど。
そんなイケイケ伯爵令嬢の私が子供の頃から好きだったのは魔法の本。父からは女の子が戦闘をするのははしたないからやめなさいと何度も言われたが、その度に母が女の子は自衛できた方がいいとたしなめてくれたのはいい思い出だ。
いつだったか、父についていき王都アリステンまで行ったときに魔法適正を調べてもらい、どの属性についても相性がそれほど良くないと聞かされギャン泣きしたのは……まぁ、あまりいい思い出ではない。
お転婆だった私にだって、幼馴染が一人いた。思えば彼はずっと世界の主人公だったのかも。商家出身のエータ―は、今では勇者などと持て囃されるイケメンに育ったが、昔は私に打算目的で近づくような悪ガキだった。七年前だから、私が十二歳の時に彼と出会った。お祭りの時に父とはぐれたときだったのだが、はじめて彼に言われた言葉は確か、「いい体してますね! お嬢さん!」だったはずだ。正直ゾッとしたし、憲兵に連れて行って五回は処刑してほしいと思ったのだが、なんだかんだそれから結局七年も仲良くしているのだから第一印象というのは時々当てにならないのかも。
十五歳の時に聖女が彼を今世の勇者だと認定した。伯爵領は大いに盛り上がり、毎日がお祭り騒ぎになったものだ。確か前回の勇者が没したのが500年ほど前。その時には既に老人だったと聞くが、その魂をも散らしてまで魔界から侵攻するために作られた巨大な空間の裂け目に結界を生み出したのだとか。遠い国のおとぎ話だとばかり思っていたっけ。
勇者と認められた夜、彼とお酒を飲んで話したこともあった。大泣きして期待にこたえられるか分からなくて怖い言う彼に、お祝いとして用意したナイフを渡した。私だと思ってと、言って。世界に愛された彼に対して、諦めた若干の恋心を捨てながら。
そうして彼は旅に出た。私は王都の貴族学校に通うことも出来たが、どうにも行く気になれず、家庭教師を雇い、様々な事を見聞きする事に。勇者の活躍を音に聞くたびに私の事のように喜んだったのだっけ。
そんな淡い色の現実が音を立てて、いや、黒色の絵の具を思い切りカンバスにぶちまけられるように幸せは哀しみに塗りつぶされるのは一瞬の事だったように思う。
雪が積もって銀色に輝いた街を、冬が来たなぁ。なんて呑気に、家の窓からザッハトルテなんか食べながら見ていると、突如町の片隅が爆発した。ゴブリンやオーク、トロルなんかなら兵士達が対応してくれるが、その歴戦の兵士たちもが即座に二つになっていくのが見え、父に急いで報告しに行く。
「パパ!? 街が、街が襲われているわ!」
報告をしに息を切らしながら駆けていくと、既に父は宝杖を手に携えて家を出ていくところだった。
「大丈夫だソフィア。ママとおうちで隠れていなさい」
そう言って家を出ていく父を見ると、今回もなんとかしてくれると、そう信じて母と家の奥に隠れる。父は歴戦の魔導士。この国でも相当な実力者だったのだ。
しばらくして、外の音が震えとなって家を揺らし、何が起きているのかを容易に感じさせた。
父の魔法は貴族らしく、守りの魔法。特に氷属性と相性がいい為、冬で尚且つ雪の積もった今日に父が負けるはずなど無かった。あるはずがなかった。
二度の爆発音が響き、ガラスの割れる音がする。その直後に大きな咆哮が聞こえ、地響きが鳴る。守護者ゴーレムだろう。何度か魔物の群れ討伐用の子供程度の大きさの小さな大群は見た覚えがあるが、これ程大きく低い唸り声をあげるゴーレムは初めてだった。それでも敵は善戦しているようで巨大なゴーレムの腕が冷たい風を切り裂く音と小規模な爆発音が繰り返し聞こえる。
しかし、やがてその音の連鎖は、一つの大きな風切り音で止まった。岩が崩落するような鈍くて悲し気な音と共に。
それを聞いた母は、一言「逃げなさい」と言って私と裏口に出る。
「ま、まだパパは負けてないんじゃ」
誰が聞いても不安そうな声だっただろう。自分でも酷く動揺しているのが分かる。例えそうだとしても、受け入れたくなんかなかった。でも母は困ったように笑って、私に一つの宝石を手渡し、抱きしめてくれた。愛しているわ、ソフィアと呟きながら。
いななき駆けだす馬の手綱をしっかりと掴み後ろを振り向くと、力なく項垂れた父がゴミのように投げ捨てられるところだった。分かっていたのに、あぁ、パパは負けちゃったんだ、と乾いた笑みと冷たい涙がこぼれた。
それでも、母の逃げなさいという声の凛とした固さが私と馬を必死に走らせた。
そうして、今度は固い鉄をぶつけ合わせるような音が響く。母方の血統魔法は磁力。金属を自在に操り攻撃にも防御にも使える大魔法。だが、既に母の代では血が薄まって、私には受け継がれなくなるほどに強い力ではなくなってしまっている。
激しい金属の音が鳴りやみ、再び大きな風切り音が響くが、今度はそれで終わりでは無かった。ひときわ激しい爆発音。地を揺らし、雲までが逃げ出すような音に思わず振り向けば街の中心から噴火していた。
実力と釣り合わないほどの威力を出す方法は、先代勇者が示した通り。母が魂を削って魔法を行使したのだと、一目で分かってしまう光景だった。しかし敵はそんな魂を掛けた想いすら踏みにじった。巨大な噴火は不自然に地脈へと還って行った。まるで時間が巻き戻されたかのように。
それを見た私の顔は誰にも見せたくないくらいぐしゃぐしゃだった。泣きに泣いて、大きな声を恥ずかしげもなく出しながら。父も、母も、家も、街も、思い出も。全てがたった数分で奪い取られていった。その事実があまりにも悔しく、また、哀しかった。でも。それでも、私は、私だけは生きなければいけないと、馬を走らせていた。
だけど神はそれすら許してくれなかった。馬は突然止まってしまったのだ。どうして、と焦っていると目の前には地割れがあり、運悪く川につながってしまって水が流れていた。
あぁ、最初から逃がす気なんてなかったんだ。と、妙に納得する。訓練された軍用馬ではなく、今乗っているのはただの馬。寒さにも弱く、川は渡れないだろう。そして、私もまたこの激流を渡ることは出来ないのだ。あきらめの溜息は白くぼやけていく。
「さ、逃げて。あなたはこれから自由に生きなさいね」
せめて、と馬を逃がそうとすると馬は潤んだ目で私にすり寄る。いつもならすぐ楽しそうに駆け出すじゃじゃ馬だった癖に、どうしてよ、と笑ってしまう。馬を抱きしめてみるとすごく暖かかった。私が冷たすぎたのかもしれない。
「ふふ、首を冷やしてごめんね。ほら、あなたまで死んじゃったら、私は胸を張って逝けないわ?」
そう言うと馬は私の顔をベロリと舐めると、物惜しそうに遠くへ駆け出していった。
こういうのを何て言うのかしら? 人事尽くして死を座して待つ? ふふ、笑えないわね、ほんっと。あぁ、子供の頃におとぎ話で夢見てたような奇跡って、そんなに起きないものなのね。世の中、思ったより残酷よ。
しばらくすると雪をザクザクと踏みしめる音が聞こえた。敵が来たと、宝石を握りしめる。伯爵家の宝石だ。魔法の適性が無い私でも、魔力伝達のいいこの宝石なら一発や二発、初級魔法の「火よ燃えよ」くらい使えるだろう。かかってきなさい! と腹をくくり振り返って足音の主を見た私は、思わずえっ、と声をこぼしてしまった。その驚きの声は、憎しみからではなく、安堵から出た物だった。
「ソフィア、ソフィアかい?」
「エー、ター? エータ―なの?」
勇者が、幼馴染が助けに来てくれたんだ! と彼に思わず抱き着く。彼の鎧は凍てつくほど冷たくなっていたが、それでも私の心の氷が溶けていくのを感じていた。エータ―に今まで何があったかを説明してギャン泣きしていると、エータ―は昔のように悪戯っぽく笑い——
「——知ってるよ、殺したの、僕だもん」
刹那、腹部を異物が貫いた。急所を突かれたようで、口からゴボっと血が漏れ出る。
「あ……え……?」
なに、が。何が、起こっ、えっ、エー、ター? あ、あぁ、あぁぁぁ、あああああああああああ。
崩れ落ちていく思い出は私の心を蝕むには十分だった。
なんで、どうして、エータ―は勇者で、私達の味方で、私の幼馴染で、助けにきてくれたんじゃ。
「すまない、許してくれとは言わないよ。でも、仕事だからね」
歪んでいく意識の中、振り返って帰り始めたエータ―に、私は最後どんな顔を向けていたか分からない。ただ、零れていく命に対して、強く願ったのは確かだった。死にたくない、死んでやるものか、と。
そんな想いも空しく、私のふら付いた足はそのまま雪に制御の主導権を取られ、氷より冷たい川へと落ちた。身体は既に流れていく冷たさを感じなくなっていた。
ねぇ、こんな願いくらい叶えてよ、神さま。
私の意識も身体と同じく凍り付き、冷たい川の底へと沈んでいった。