第56話『帰り道の先には』
せっかくみんなで琴宿に来たので、昼食を食べた後は南口周辺を散策したり、その中で見つけたアニメイクに立ち寄ったりした。
琴宿をこんなにもたくさん歩くのは初めてだ。あと、アニメイクではそろそろ発売される漫画がもう入荷されており、購入することができた。なので、個人的には満足な時間となった。3人も楽しそうにしていたから、彼女達にとっても楽しい時間になったことだろう。
午後3時半。
俺達はそれぞれの家に帰るため、東京中央線快速の下り方面の快速電車に乗る。
行くときと同じく、乗車したのは1号車。しかし、行きよりも多くの乗客がおり、席が埋まってしまっている。なので、俺達は端の方に立つことに。
俺達の乗った電車は定刻通りに発車した。
「今回は座れませんでしたね」
「行きよりも混んでいるからな。仕方ないさ」
「立ちながら車内の時間を過ごすのもいいなって思うよ」
「登校するときはいつも立っているから、全然気にならないわ。そのときに比べたらかなり空いているし」
「さすがは電車通学だな、一紗」
「ふふっ、褒められるほどのことでもないわ。萩窪から四鷹まで7分だもの。帰りは、座りたくて各駅停車の方の電車に乗ることもあるし」
と言いながらも、一紗は結構嬉しそう。だからか、サクラと杏奈もクスクスと笑う。
ちなみに、四鷹駅は東京中央線各駅停車という路線の始発駅だ。この路線しか止まらない駅もあり、小泉さんの家の最寄り駅の西萩窪駅はその一つである。
各駅停車は始発駅だから、座れる確率はとても高いのだろう。乗車時間もそんなに変わりないだろうし。
また、和奏姉さんの通っている大学の最寄り駅まで、四鷹駅から各駅停車で乗り換えなしで行ける。ただし、千葉県にあるため結構な時間がかかってしまう。それもあって、姉さんは大学の近くのアパートに一人暮らしをすることになったのだ。
「そうなんだね。青葉ちゃんは最寄り駅が各駅停車しか止まらないから、帰りはいつも座っているんだって。ただ、部活の後で疲れているからウトウトしちゃうこともあるみたい。一度、一人で帰ったとき、眠っちゃって気づいたら千葉県の近くの駅だったことがあるんだって」
「それはかなりの寝過ごしだな」
「電車の揺れが心地良かったんでしょうかね。一紗先輩って乗り過ごしてしまったことはありますか?」
「帰りに何度かあるわね。酷いときだと、四鷹駅で快速電車の席に座って、本を読み始めたらとても面白くて……気づいたら萩窪駅に到着する直前だったわ」
萩窪駅だったら……一紗の家の最寄り駅だから全く酷くないんじゃないか? サクラと杏奈も首を傾げており、俺達は互いのことを見合う。
「ええと……それは酷いというより、むしろちゃんとしているのでは? 乗車時間が体で分かっているから、萩窪駅に到着する前に気づけたのだと思いますが」
「東京に向かっている上り方面だったらね。そのときは下り方面だったのよ」
恥ずかしがる様子もなく、一紗はいつもの落ち着いた笑顔で言った。
俺とサクラ、杏奈はお互いに見合い、サクラと杏奈は苦笑いをする。
「……な、なるほど。ずっと読んでいて、終点で折り返したのも気づかなかったんですか」
「ええ。だから、そのときは1時間以上乗車していたことになるわね」
「そうでしたか。……折り返しの電車が特快電車じゃなくて良かったですね」
本好きの一紗らしいエピソードだな。その小説がよほど面白かったのだろう。
『まもなく、萩窪、萩窪。お出口は右側です』
4人で話していたら、あっという間に一紗が降りる萩窪駅に近づいてきた。
「あまり混んでいない中で、3人と話していると10分もあっという間ね。今日はとても楽しかったわ。また一緒に映画を見に行きましょう」
上品でありながら、可愛らしさも感じられる笑みを浮かべながら、一紗は俺達にそう言ってくれた。
「そうだな、一紗」
「また一緒に行きましょうか」
「いつか、青葉ちゃんや羽柴君と6人で行きたいよね」
「いいわね」
サクラの言う通り、いつかは6人で映画を観に行ってみたいものだ。
それから程なくして萩窪駅に到着。
一紗は電車から降りるが、すぐに階段の方へ行こうとせず、電車が萩窪駅から離れるまでずっと手を振ってくれた。俺達もずっと手を振り続けた。
「一紗ちゃんがいなくなるだけで寂しい気持ちになってくるね」
「それだけ、一紗と一緒にいた時間が楽しかったんだろうな」
「ですね。あたしもちょっと寂しいです。初めてのバイトのとき、あたしのことをお持ち帰りするって言ってきたので、最初はヤバい人だと思っていたんですけどね。今は可愛らしい人でもあると分かったので」
やっぱり、最初の頃に比べると、一紗への好感度は上がっているか。
「まあ、ヤバい人には変わりはないんですけどね」
今でもヤバい人認定はしているのか。それを聞いてサクラは苦笑い。
「見た目だけだとクールな印象だけど、話すと気さくで明るいよね。ダイちゃんがいるときは特に暴走することがあるけど。ただ、気持ちをオープンした状態でいられるところが凄いと思えるよ」
「そうですね。ハートの強さを感じます」
一紗のハートが強いのは俺も同感だ。
今のことを本人に言ってあげたら、とても喜ぶと思うけど。でも、言ったら感動して、サクラと杏奈の頬にキスしたりしそうだな。前に一紗が俺だけじゃなくて、可愛らしい人も好きだって言っていたし。特に、妹の二乃ちゃんに似ている杏奈は。
『まもなく、四鷹、四鷹。お出口は右側です』
俺達が降りる四鷹駅にもうすぐ着くのか。サクラ達と話していたからか、琴宿駅からのおよそ15分間はあっという間だったな。
「遊びに行った先から帰ってきて、家の最寄り駅の名前を聞くと、地元に帰ってきた安心感もありますけど、何だか寂しい感じがしません? お出かけが終わっちゃいますし」
「分かるなぁ。楽しい時間が遠くに行っちゃった感じがするというか。もうすぐ家に帰れるのは安心できるけどね」
「ですよね! 大輝先輩ってどうですか?」
「普段電車に乗らないからか、四鷹駅周辺のビルが見えると結構安心する。今まで寂しさを感じることはそんなになかったけど、今の2人の話を聞くと……段々寂しい気持ちになってきた」
4人で一緒に映画を観るのはとても楽しかったし、お昼ご飯を楽しく話しながら食べられたからな。思い出すとますます寂しい気持ちになってきたぞ。それだけ、サクラ達と一緒に過ごした時間が良かったんだろうな。
俺の感想が面白かったのか、サクラと杏奈は「ふふっ」と小さな声で笑う。
「ダイちゃん、凄く寂しそうな顔をしてるよ」
「見る見るうちに表情が変わりましたよね」
そんなに顔に出ていたのか。それを指摘されると、恥ずかしい気持ちになってくる。頬が熱い。きっと、顔が赤くなっているんだろうなぁ。そう思うとますます恥ずかしくなって、頬の熱さが強くなる。きっと頬の赤みが強くなって……あぁ、恥ずかしスパイラルだ。
「た、楽しかったからな。とっても。また。みんなが興味ある映画が上映されたら、今日みたいに一緒に観に行くか」
「そうだね、ダイちゃん」
「また一緒に行きましょう!」
サクラと杏奈は明るく可愛らしい笑顔でそう言ってくれる。そんな2人を見ていると、彼女達も今日のお出かけが楽しかったのが伝わってくる。きっと、一紗も今日は良かったと思ってくれていることだろう。
それから程なくして四鷹駅に到着。
進行方向右側の扉が開き、俺達は四鷹駅のホームに降り立つ。全身が熱くなっているからか、ホームに吹く穏やかな風がとても気持ちよく感じられる。
別のホームでは上り方面の電車が到着し、多くの人が降りてきている。
「反対側の電車も到着したんですね。今行くと改札が混んでいそうですから、空くまでここで少し待ちますか?」
「私はかまわないよ。ダイちゃんもそれでいい?」
「ああ、いいよ」
多くの人が降りているので、階段周辺には人が集まっている。それが解消された頃には、きっと改札口もそこまで混んではいないだろう。ああいう人の多い光景を見ると、羽柴と一緒に行ったアニメイベントや同人誌即売会を思い出す。
ただ、人の動きのある場所。2、3分も経てば、階段周辺に人がほとんどいなくなった。それを見て俺達は改札へと向かい始めた。
階段を上がって構内に行くと、人はまばら。今ならすんなりと改札を出られそうだ。そんなことを思いながら改札に近づいたときだった。
「杏奈ちゃん……」
聞き覚えのある女性の声が聞こえたので、俺は立ち止まってその声がした方へと振り向いた。
女性用の化粧室の近くで、木曜日のバイト中に杏奈の様子を聞きに来た女の子がいたのだ。パンツルックの服装で、スタイルがいいので大人な印象を抱かせる。俺がいることに気づいたのか、こちらに向かって軽く頭を下げた。俺も女の子に会釈をする。
「ダイちゃん。知り合いなの? ダイちゃんに頭を下げていたけど」
「バイト中にちょっとな。……杏奈、あの子だよ。木曜日に、杏奈のバイト中の様子を見て、俺に訊きに来た子っていうのは。……杏奈?」
さっきまで見せてくれていた笑みが杏奈の顔からすっかりと消えており、無表情だ。少し俯いていて。呼吸も少し乱れているように思える。杏奈は俺が着ているジャケットの裾をぎゅっと掴む。
「……今さら何なの? 木曜日にはバイトをしているあたしの様子をこっそり見て、大輝先輩にあたしの働きぶりを訊いたそうじゃない」
今までの中でも一番低い声色で杏奈はそう言う。小さな声だけど、その声には力強さがあった。思わず身震いしてしまうほどに。
ゆっくりと上げた杏奈の顔には怒りの表情が浮かんでおり、目つきも鋭い。そんな杏奈を見て、一瞬、この子は杏奈によく似た別人じゃないかと思ってしまった。
「バイトをしている杏奈ちゃんを見た友達がいて。ちゃんとバイトできているのかどうか気になって、それで……」
「今のあたしにとって、陽菜ちゃんは何の関係もない人だよ。もう二度とそんなことはしないで!」
杏奈は鋭い目つきで女の子を睨み、罵倒とも言えるような声でそう言う。そのことで女の子は体をビクつかせ、戸惑った様子を見せる。
どうやら、何か理由があって、杏奈と女の子の間には深い溝ができているようだ。その結果、杏奈にとってこの女の子が『何の関係もない人』になっているのだろう。そして、激しく嫌っている。
そういえば、この女の子……俺が杏奈を呼び行こうかと訊いたら断ったな。おそらく、今のような反応をされると思ったからなのだろう。
「何かあったのか?」
「喧嘩かな……」
今の杏奈の声が構内に響いたこともあり、周りにいる人の多くがこちらを見てくる。
「ごめんね、杏奈ちゃん」
申し訳なさそうに、女の子は俺達にしか聞こえないような小さな声でそう言った。しかし、女の子の謝罪の言葉があっても、杏奈の睨みは変わらない。
一度、長めに息を吐くと、女の子は真面目な様子になり、杏奈のことを見つめる。
「あのね、杏奈ちゃん。あたし、今からでも――」
「陽菜ちゃんの話なんて聞きたくない!」
さっきよりも大きな声で言うと、杏奈は首を激しく横に振る。どうやら、今はこの女の子の言葉を受け付けられないようだ。
今の杏奈の気迫や怒りに押されたのか、女の子は杏奈から視線を逸らしてしまう。
「2人の間で何があったのか俺は知らない。ただ……杏奈を見る限り、今は君とまともに話せる状況じゃなさそうなのは分かる。だから、ここで杏奈と話すのは諦めてくれないか。……頼む」
俺は女の子に向かって頭を下げる。
「止めてください、大輝先輩。頭を下げないで――」
「……分かりました。今日のところはこれで失礼します。杏奈ちゃん……ごめんなさい」
俺がゆっくりと頭を上げると、今度は女の子が頭を下げる。数秒ほど頭を下げた後、女の子は改札を出て北口の方へ歩いて行った。
女の子の姿が見えなくなった直後、力が抜けたのか杏奈はフラフラとした様子に。
「危ない、杏奈ちゃん」
後ろから、サクラが杏奈の両肩を掴んだ。それもあって、杏奈が倒れてしまうことはなかった。
「大丈夫?」
「……はい、大丈夫です。ありがとうございます、文香先輩」
小さな声でお礼を言うと、杏奈はサクラの方にゆっくりと振り返り、微笑む。
杏奈が笑顔を見せてくれるようになったけど、さっきのことがあったせいか、杏奈にどんな言葉をかければいいのか分からない。こういうときこそ、先輩として杏奈を支えたり、助けになったりしないといけないのに。したいのに。自分が情けない。
「先輩方には話さないといけませんね」
微笑みながら言うと、杏奈は俺とサクラのことを交互に見る。
「特に大輝先輩はあの子……志気陽菜ちゃんに接客して、さっき頭を下げましたから。先輩方はこの後、お時間はありますか?」
「私は大丈夫だよ。ダイちゃんは?」
「俺も大丈夫だ」
「分かりました。では、これから一緒にあたしの家に来てください。内容的にも、周りに誰もいない方がいいですから。あたしの部屋で陽菜ちゃんとのことをお話しします」
依然として、声は普段より小さかったものの、しっかりとした口調で杏奈は言う。
俺達は改札から出て、杏奈の家がある北口方面へ歩いていくのであった。