第40話『助けて! 大輝先生』
「じゃあ、これから問5の解説をします」
4月14日、火曜日。
昼休み。俺は黒板の前に立つ。右手にはチョーク、左手には午後にある数学Ⅱの授業で提出する課題のプリントを持って。
どうしてこんなことをしているのか。
事の発端は昨晩、俺がお風呂を出た直後のことだった。
『数学Ⅱの課題プリントについてなのだけれど。問5の因数分解がどうしても解けないの。明日、誰か教えてくれるかしら?』
という一紗のメッセージが、2年3組の5人のグループトークに送られたのがきっかけだった。それから程なくして小泉さんから、
『一紗も? あたしもだよ~。確か、速水君って数学得意だよね? 助けて~』
というメッセージをもらったのだ。
小泉さんに数学が得意だと話した記憶が全然ない。なので、サクラに訊いてみると、1年生の頃にサクラが話したことがあったそうだ。
俺が数学が得意なことが分かったからか、一紗から、
『いいことを教えてくれたわ、青葉さん! 大輝君。明日、学校で私達に教えてくれるかしら? 助けてください!』
そんなメッセージと、『おねがい!』という文字付きの白猫が両手を合わせるイラストスタンプが送られてきたのだ。
『俺は答えを出せたけど、難しかったから合っているかどうか不安だ。明日、速水が解説してくれると嬉しい』
という羽柴のメッセージも送られてきて。難しいから、答えが出ても合っているかどうかは不安だよな。その気持ちは分かる。
数学Ⅱだし、3人から解説をお願いされたら、教室で直接教えた方がいいと考えた。幸いにも、火曜の数学Ⅱは午後にあるので、昼休みに教えることにしたのだ。
「一紗、小泉さん、羽柴。プリントは用意できたかな」
『はい』
いいお返事だ。一紗と小泉さんは自分の席、羽柴は昼食を食べるときにいつも使う席に座り、3人が横に並ぶ形に。サクラは自分の席で、微笑みながら俺を見ている。
俺は一紗達に因数分解の問題について解説していく。数式を丁寧に書きながら。こうしていると、先生になった感じがするな。3人とも真剣な様子で俺の解説を聞いて、ノートやプリントにメモしているし。
あと、3人の後ろで、机の上にプリントを広げて俺の解説を聞くクラスメイトが10人くらいいるんだけど。それだけ、この問題が難しいと思った生徒が多かったのだろう。
「それで、これが答えになるんだ。分かったか?」
「分かりやすい説明だった。合っていて安心したし、理解が深まったぜ」
「とてもいい解説だったわ。ようやく分かった。私、数学は大の苦手だから、これからも大輝君に数学を担当してほしいくらいだわ。欲を言うなら他の理系科目も」
「一紗って理系が苦手なんだ。……1年の頃に文香が言っていた通り、速水君って教え方が上手なんだね。小学生の頃から、仲がいいときは頼りにしていたのも納得だよ」
「も、もう。青葉ちゃんったら……」
そう言うと、頬をほんのりと赤くし、小泉さんの背中を叩くサクラ。照れくさいのだろうか。
一紗と青葉さんの疑問が解決し、羽柴の理解が深まったようで良かった。
解説の時間が終わったので、俺達はいつもの席で5人一緒に昼食を食べ始める。
「大輝君。教えてくれたお礼がしたいのだけれど」
「そうだなぁ。昨日、サクラに教えた後は、オレンジマシュマロをもらったよ。もちろん、お礼がなくても全然かまわないぞ」
「なるほど。マシュマロか……」
「あたしはミートボールを一つあげるよ」
「俺は焼きそばパンを一口やるよ」
「ありがとう。じゃあ、弁当箱のフタに置いてくれ」
俺の弁当箱のフタに、ミートボールと一口分の焼きそばパンが置かれる。今日は放課後にバイトがあるから、その分のエネルギーをこれでちょっと補給できそうだ。
「だ、大輝君」
「うん?」
「……お昼ご飯を食べ終わったら、2人きりになる場所に行かない? それで、その……私のマシュマロを堪能させてあげましょうか……?」
頬を赤く染め、妖艶な笑みを浮かべながら、表情で俺を見つめてくる一紗。
私のマシュマロというのはやっぱり……胸のことだよな。そう思ったら、自然と一紗の胸に視線が動いてしまう。それに気付いたのか、一紗は両手で自分の胸を持ち上げる。まったく、一紗らしいな。あと、今のことを俺以外の人間に聞かれるような声で話してはダメだろう。
ちなみに、今の一紗の言葉のせいか、サクラは顔を真っ赤にして、羽柴は口元に手を当てながら笑っている。小泉さんはようやくお昼ご飯を食べられて幸せなのか、満面の笑顔でお弁当を食べている。
答えはノーだけど、どうやって返事しようか。
「……き、気持ちだけ受け取っておくよ。できれば、食べ物がいいかな」
「そう? まあ、大輝君がそう言うなら仕方ないわね。……出ないし」
残念そうに言う一紗。出れば自分のマシュマロを堪能させる気だったのか。それを言ったら、色々とまずそうな気がするので心に留めた。
「じゃあ、このタコさんウインナーはどう?」
「それならもちろんいいよ」
「決定ね。じゃあ、食べさせてあげる。あ~ん」
「あ、あーん」
一紗にタコさんウインナーを食べさせてもらう。
「うん、美味しい」
「ふふっ、良かった。これからも数学とか理系科目は助けてもらうかもしれないわ。そのときはよろしくお願いします」
「分かった。よろしくお願いします」
「あたしの方も頼むね、速水君。1年のときに一緒だった理系科目が得意な友達は、理系クラスに行っちゃったから。その子に聞けばいいのかもしれないけど、同じクラスに聞ける人がいるのは心強いからさ」
「そうだね、青葉ちゃん。私の場合は一緒に住んでいるから本当に心強い」
「俺で良ければいつでも聞いてくれ」
「あと、数学以外の理系科目だと化学基礎があるよな。……頼んだぞ、速水」
決め顔で言うような内容じゃないだろ、羽柴。どうやら、化学基礎は苦手のようだ。こいつ、理科でも得意不得意があるのか。去年、生物基礎は教えることがなかったけど、物理基礎は試験勉強になるといつも時間を多く割いて教えたっけ。
中2から去年までは、定期試験前は男の友人達と一緒に勉強することが多かった。ただ、今年からは女子の割合がかなり多くなりそうだ。
それからはお弁当や羽柴と小泉さんにもらったものを食べていく。解説をした後だからか、普段よりも美味しく感じられる。あと、羽柴の焼きそばパンも、小泉さんのミートボールはとっても美味しい。人からもらうって素晴らしい調味料だと思う。
昼食を食べ終わって、昨日の放課後のことについて話し始めたときだった。
「速水くーん。後輩の女の子が来てるよー」
「ああ、分かった」
クラスメイトの女子が教えてくれたので、俺は教室前方の入口に向かう。俺が知っている後輩の女子は彼女しかいない。
「どうもです。大輝先輩!」
教室の入口に行くと、そこには杏奈が立っていた。俺と目が合うと杏奈が元気そうに挨拶した。やっぱり、来客は杏奈だったか。
「どうした? 杏奈」
「お昼ご飯を食べ終わったので、ここに遊びに来たんです。昨日の帰りにも言ったじゃないですか。先輩方の教室に遊びに行くかもしれないって」
「……確かに言ってたな。教室の雰囲気や窓から見える景色に興味があるって。遠慮なく入ってくれ。サクラ達もいるぞ」
「はい。失礼しまーす」
俺は杏奈を連れて教室の中に戻る。
杏奈が入ってきたからか、教室がちょっとだけざわつく。杏奈はかなり可愛らしいし、中学の頃は何人もの人から告白されるほどだもんな。
「おっ、小鳥遊か」
「杏奈ちゃん、こんにちは」
「制服姿も可愛いわね、杏奈さん!」
「みなさんこんにちは。先輩方の教室の雰囲気がどんな感じなのか気になって、遊びに来ちゃいました。お昼ご飯を食べ終わっても、まだ時間がありましたから。ええと、文香先輩と向かい合って座っているこちらの方は? 確か、女子テニス部の人ですよね。部活説明会に出ていましたよね」
そうか、杏奈と小泉さんはこれが初対面なのか。ただ、部活説明会に小泉さんが説明側で参加していたので、杏奈は覚えていたと。
「あのときのことを覚えているんだね。彼女は私の親友の小泉青葉ちゃんだよ」
「そうなんですか。初めまして、1年の小鳥遊杏奈です。文香先輩や大輝先輩達から聞いているかもしれませんが、日曜日から大輝先輩のいるマスバーガーでバイトを始めました」
「文香達から話は聞いているよ。話通りの凄く可愛らしい子だ。初めまして、小泉青葉です。よろしくね、杏奈ちゃん」
「よろしくお願いします」
杏奈も小泉さんも爽やかな笑顔を浮かべて、2人は握手を交わした。
杏奈は教室の中を見渡す。
「教室の中の雰囲気はうちのクラスとあまり変わらないですね。あたしもそうですけど、うちのクラスでも机を動かしてお昼ご飯を食べる子はいますし」
「そうなんだな」
「大輝先輩達はいつも、5人集まってお昼ご飯を食べているんですか?」
「ああ、そうだよ」
「気が向いたら、いつでも食べに来てくれていいからね、杏奈ちゃん」
「分かりました、文香先輩!」
サクラが言うからか、とても嬉しそうに返事する杏奈。
杏奈なら、先輩である俺達と一緒でも楽しくお昼ご飯を食べられそうだ。これから、たまにここにお昼ご飯を食べに来るかもしれないな。
「……あっ、黒板の左側に数式が書いてありますね。見た感じ……因数分解ですかね。結構難しそうです。急にここが2年生の教室な感じがしてきました」
「可愛いコメントね、杏奈さん。あと、あれは大輝君が私達に数学の課題の解説をしてくれたのよ」
「ダイちゃんは数学が得意だからね。私の昨日の夜に教えてくれたけど、凄く分かりやすかったの」
「へえ、そうなんですか! 綺麗で見やすい文字ですし、てっきり数学の先生が書いたものだと思いましたよ」
「文字のことで褒められると嬉しいな」
小さい頃は字が綺麗じゃなかった。だけど、両親から、
『これから、たくさんの人に自分の文字を見られる。だから、見やすい字を書くようにしていこうね』
と教えられたので、それからは丁寧な字を書くように心がけたのだ。今は自然と読みやすい字を書けるようになった。ただ、さっきのように黒板で一紗達に解説するときには意識するようにしている。
「ちなみに、大輝先輩って苦手な教科はあるんですか?」
「体育の球技と、家庭科の手芸くらいかな」
「ふふっ、そうなんですね。じゃあ……何か勉強や課題でつまずいたときは、先輩に教えてもらってもいいですか?」
「もちろんいいよ」
「ありがとうございます。頭のいい学校の先輩と繋がれると心強いですね。大輝先輩なら気軽に訊けますから」
ニッコリと笑ってそう言う杏奈。
俺も中学までは家に和奏姉さんがいたし、姉さんに訊くと分かりやすく教えてくれた。なので、心強いという杏奈の気持ちも理解できる。
1年生の内容なら、どの教科も教えられる……はず。もしダメそうなら、そのときは一緒に勉強すればいいか。
「そういえば、この教室から景色は広くていいですね。4階だからでしょうか」
「そうだな。グラウンドと四鷹の街並みがよく見えるよ。それが、この教室になって去年と一番変わったことかな。1年の頃は第2教室棟の1階だったからね。この第1教室棟と庭くらいしか見えなかったよ」
「そうなんですか。うちの教室は2階の一番端ですから、正門周辺の景色も見られますね」
「そうなんだ」
「こういう景色、あたしは好きですね。羨ましいです」
「俺も好きだな」
個人的には、1年の頃の教室から見える景色よりも好きだ。
「ちなみに、私は窓側の先頭の席なの。授業中、たまに外の景色を見るといい気分転換になるわ。羨ましいのなら、午後に1時間だけ入れ替わりましょうか?」
「さすがにそこまでは」
「じゃあ、私の脚の間に座って一緒に授業を受けましょうか? 私が後ろから抱きしめてあげるから」
「それはもっとないですね。それに、景色が見たくなったら、今みたいに休み時間に来ますから」
笑みこそ浮かべているものの、杏奈が一紗に引いているのが分かる。
こんなことを杏奈に言うなんて。一紗は杏奈のことが本当に気に入っているんだなぁ。顔の雰囲気が二乃ちゃんと似ているから、姉としての血が騒いでいるのかもしれない。
昼食を食べ終わっていたので、席を元の位置に戻す。杏奈が窓からの景色が好きなので、一紗の席の周りで残りの昼休みの時間を過ごすのであった。