レインⅠ 1章・英雄推薦②
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ホームルームが終わり、同時に終業のチャイムが校内に反響した。
「またな、倫也」
「え、おう」
肩にカバンを掛けた冬夜が、せわしなく席を立ち上がった。
まだ大半の生徒が教室に残っている。その中での冬夜の帰宅する早さは群を抜いていた。
「もう帰るの?」
「ああ、ちょっとな」
冬夜を取り巻く空気が変わった。
少し──ほんの少しだけ表情が曇ったように見えた。
中学の時からだ。冬夜は時々今のような顔をする。まるで何かに追われているような──。そして、だいたいその日の前後に限って体のどこかしらに簡単な治療を必要とする程度の怪我を負ってくる。
前に一度、心配になってその怪我について聞いたことがある。だが「ちょっと派手に転けただけで、心配しすぎなんだよ」と、苦しさを隠した笑顔で返されるだけだった。もちろん、それが空元気で何かを隠しているのはわかっている。だが、あの時の笑顔に──それ以上聞くな──という意味が込められているのを察知し、それ以来度々負ってくる怪我のことを聞けずにいた。
「こんなに早く帰る理由って……まさか女? 冬夜お前、抜けがけするつもりか──!」
今回もまた怪我をしたのではないかと心が痛むのを抑え、見える範囲で治療跡を探した。
「……なんだそれ、的外れすぎて訂正する気にもなんねぇよ」
だが今回はそれが見つからず、思わず安堵がため息として外に出た。
──これでいい。
ほんの少しだけオーバーなリアクションを取り、本当の狙いを隠す。
半目になって呆れている冬夜にはバレないように。
「あと倫也っ」
「お、おう」
突如、俺の鼻先にビシッと指を伸ばした。
「お前ぇは藤原がいるんだから、抜けがけでもなんでもねぇだろ。ちゃんと幸せにしろよ」
「え──ああ。なんだ、その事か」
一瞬、考えていることがバレたのかと思ったが、顔に出ない程度に胸をなで下ろした。
「わかったよ」
「おっとまじか、じゃあな」
「おう、またな」
(杞憂だったか……良かった)
固く、注意深く気を張っていた自分の心が柔らかくほぐれたのが、身に染みて感じた。
良かった──と、思いつつ、カバンに荷物を詰めるのを再開する。が──。
冬夜が教室から出ていく瞬間、ワイシャツの腰あたりに赤い斑点が僅かに滲み、散らばっているのが見えた。
「──っ!! とう──……」
腕をのばし、足が一歩前に出たところで動きを止める。
追うのか? 追って、なにをするつもりだ?
呼び止める? 呼び止めたところでどうする。
追及するな──冬夜はそう言った。だから、気にして欲しくないはず。
でも、それでも──明らかに困っている奴を放っておくなんてできるものか。
放課後に、冬夜が何をやっているのかは知る由もない。それでも、何で怪我をしたのかを聞くだけなら許してくれるはずだ。教えてくれなくても、しつこいと言われても、ちゃんと言葉にするまでは引き下がらない。心配するだけなら、冬夜も怒らないはず。
ごちゃごちゃと整理がつかないまま、教室のドアに手をかける。
「──倫也」
刹那、呼び止められた。
「ごめん舞、今はちょっと──」
「知ってるよ。見えたもん」
舞にも見えていた。俺が追うと分かって声をかけたんだ。
「倫也、追ってどうするつもり?」
「そんなのっ……」
「冬夜くんさ、何か独りで抱えてるよね。多分それも、なにか重大なこと」
「そうだよ。だから助けなきゃ──」
「でも、それが人に言えない事だってある。違う?」
その言葉に答弁できず、押し黙った。
「だからさ、私たちは冬夜くんが助けを求めた時に助けたらいいんじゃないかな?」
ほんの少しだけ下げた俺の目線に合わせて、舞が目を合わせるように見上げた。
「それも友達を想う友情のひとつだと、私は思うよ」
「見守るのも友情……か。そうだな」
平常心を欠いていた。冬夜が本当に困った時、助けを求めた時に一緒になって悩めばいい。冬夜なら俺たちを頼ってくれる。わざわざこっちから呼ばれてもない手を差し伸べる必要なんてどこにもない。
そうだよな。俺たちになら頼れるよな。
「とう──や!?」
突如左右の頬が引っ張られた。
「えっと、ごめん。今の話とは全然関係ないんだけどさ」
やけに真面目に──深刻そうに眉間に皺を寄せて──絶妙に目を合わせて来ない舞。
「ふぁ、ふぁひ?」
「さっきの言葉、本当?」
(さっきの言葉?)
心当たりがなく、舞につねられた状態で首を傾げる。
「むーーっ!!」
「痛へへへへへへへ!!」
何故か顔を真っ赤にした少女が、容赦なく頬をあちこちに引っ張り出し、右往左往、縦横無尽に駆け巡る。グリングリンとしばらく頬が走り回ったあと、ピタッと動きが止まり、同時に舞が顔を背けた。
「タイミングおかしくない!? 今絶対シリアス的な展開だったよねッ!?」
ヒリヒリと熟れたトマトが目立つ左右の頬を涙目になりながら抑えた。
「知らない!」
「なんでゴフッ!?」
みぞおちにクリーンヒットした回し蹴りで教壇の方に吹っ飛ばされた。目を回したまま、訳が分からず、その場でうずくまっていると次の瞬間、教室の空気が濁ったような暗さに変わった。否、クラスの男子全員が俺を囲い、殺気立った目で睨み殺そうとしていた。
「……えっと、これは死亡フラグってやつ?」
周りの男子が一斉に頷く。
「舞の機嫌を損ねた俺を、生きて返す訳には行かない……と?」
またもや一斉に頷く。
「俺をここから出すつもりはある?」
教室中の空気が揺れ動くくらい、激しく横に首を振られた。
「…………あのー──」
「「「「──シネ」」」」
怒りマークが添付された拳が、一斉に振り上がった。
「──うおーー、火事場の馬鹿力アァ!!」
出口に最も近い男子生徒を吹っ飛ばし、力の限りを尽くして逃亡する。廊下、階段、窓枠、壁面をふんだんに使い、逃げて、遁げて、迯げた。
全員を撒き、教室へ戻った俺の机の上に、五寸釘で藁人形の心臓部と下半身骨盤の中心が打たれ、首吊り状態で干されてあったのは言うまでもない。
*
帰り道──。
陽が高い。6月の後半ともなれば、4時では夕方の赤い斜光を見ることは出来ない。
辺り一面田園で埋め尽くされており、風も日差しも遮られることなく自然の法則に任せて運動していた。
「──でね、あれほど大きな事件をテレビに映さないのはおかしいって思うの」
舞は、夜中に起こった高層ビル倒壊のニュースの話をしていた。本来なら、この帰り道には俺と舞とあと2人いるはずだが、今日は用事があるとかで側にいない。
「確かに、あからさまに不自然だな」
舞が話している報道内容に純粋な疑問を抱いた。
まず、崩れる兆候が一切観測されなかったこと。そして、何が原因で崩れたのか分からないこと。
動画を見たが、それが明らかに異質だということにはすぐに気が付いた。
「風ちゃん辺りに聞けば、なんか分かるかな」
今この場にいない2人の1人、九条風花。家柄の権力が高く、よっぽどの秘匿情報でない限り、大抵の情報は回されてくるそうだ。そして、もう1人はその付き人。
「うーん、どうだろうね。風花のお父さんが公開してくれてたらいいんだけど」
原因、解決策も含めて、二人揃って首を傾げた。
「まあ、明日聞けばいっか。風ちゃん達が今日早く帰ったのって、もしかしたらそれ関連かもしれないし」
舞も同じことを考えていたのか、微笑した。
「そうね」
刹那──。
空気が変わった。
否、空気が重くなった。
意識してなければ感じ取れないほどの機微な変化、ズレ。
「──なんだ?」
「なに、どうしたの?」
異変にはまだ気づいてない様子の舞は、急に真剣になった俺を不思議な表情で見つめた。
すると、舞の足元が不自然な影におおわれた。
「──舞、こっちに来い!」
「え、急にどうしたの!?」
「いいから!!」
「わっ!?」
戸惑う少女の体を寄せ、そばにあった電柱の杭に足を掛けて大きくジャンプし、今いた場所から大きく離れた。
その瞬間、空気がよどみ、ある一転をめがけて立体的に収束していった。
「え、なん……で……?」
先程舞がいた場所に、濁黒の〈気〉放つ青黒い謎の影が立っている。
『──オオ……』
発せられた声に大気が震える。否、声かどうかすら判断できない唸りに、顔をしかめた。
「なんだこいつ……なんでまた──」
過去に全てを変えた元凶。それと全く同じ色の〈気〉が発生していた。
側頭部から2本の角が生えており、腕には遠目でも分かるほど鱗が鋭利に主張している。しかも、体には薄気味悪い瘴気がまとわりついており、それが辺りの空気を著しく重くしている。
ズシッと、影がこちらに向かって踏み出す。大地が陥没するような重さが、地面を通じてヒシヒシと伝わってくる。
「──っ!」
(か、体が……!)
動かない。根が生えたように重い。硬直している。
生物としての本能があれを拒否している。
目が合ったら石にされる。
触れたら肉体が朽ちる。
あれは──死ぬ。
「──倫也!」
「──っ!!」
体が軽くなった。
「逃げるよ! できるだけ遠くに!」
──そうか。逃げる。その選択肢があった。思いつかなかった。そうだ。逃げなきゃ。逃げなければ。あれは相手にしてはだめだ。でも──。
舞が引っ張った腕を固定して、反動で離れた。
「……倫也? 何してるの。早く逃げよ?」
「ごめん舞、先に行っててくれ」
「え?」
少女の反応が困惑している。
「すぐに追いつくから」
「な、何を言って──」
『──アオオォォッ!!』
青黒い人型の影が咆哮と共に距離を詰めてきた。
「舞」
「──っ……」
完全に標的にされた。このまま逃げたところで逃げ切れる保証はない。見逃す可能性もあまり現実的な確率ではない。ましてや、舞に注目が行ってしまったら。ならば──。
「お願い」
俺が言った数秒後、舞の重苦しい足音は徐々に遠ざかって行った。
音を確認して、完全に聞こえなくなったところで影に向き直った。先程より距離を詰めてきている。
カバンの中を探り、1枚の包帯を取り出した。
「本当は、こんなことのために使うつもりじゃなかったんだけどな」
ギリッと拳に強くまきつけた。
影が手の届く範囲までに迫った。
衝突する瞬間、体をねじり、寸のところで黒い体躯を避ける。
「うっらあぁぁああ!!」
回避して真横を通り過ぎようとしている影に、握りしめた拳を躊躇なく叩き込んだ。
『オオッ!?』
後頭部を打たれた影は、バランスを崩した。
が──、すぐに体勢を立て直し、俺の方へ突進してくる。
(もう一度!)
俺も影に合わせて距離を詰める。刹那、動きが見違えたように軽くなった。影を避け、もう一度打ったあと、違和感を辿って足を見た。
「なんだ、これ?」
いつの間にか足に薄い光のベールが巻きついていた。だが、不自由さを感じない。むしろ自分の体が軽くなっている。
「よくわかんないけど、動きやすくなってるっ!」
これなら行ける!
『オオッ……!』
グッと足に力を入れ、強く踏み込む。
地面を蹴った瞬間、今までとは比べ物にならない速さで影に詰め寄った。
自身の反応速度も上がったのか、影の攻撃が遅く見えるようになった。
余裕を持ちながら攻撃を避け、今度は全体重を乗せて顎下からすくい上げた。
『グッ!? ゴオオォォ……』
影が宙に浮き、ズンッと音を立てながら仰向けに倒れた。
「やったか?」
倒れた影はわずかの間微動だにしなかったが、突如霧散した。驚愕し、様子を見ようと近づく。刹那──。
「──は?」
先程と同じ影が辺りの地面をまばらに侵食していた。
背筋に悪寒が走った。
(嘘だろ)
影が湧き出るように膨らむ。
(なんで、ふざけんなよ)
形が安定した。数にして数十体。
ギロリ、と虹彩のない白目を俺に向けた。
『『『『──グオオオオオオォォッ!!』』』』
仲間を倒した俺を敵と認め、一斉に咆哮した。
(まずい……!)
一斉に距離を詰めてきた。
「────くそやろおぉー!!」
白い壁に包まれた廊下にけたたましいアラームが鳴り響く。
『複数の魔力を感知しました。複数の魔力を感知しました。戦闘員は直ちに現場へ直行してください。座標は──』
警報が壁で反響し、嫌気的に鼓膜を刺激する。
「志峰」
長身が目立つ白衣の男性が、隣にいる青紫色の縮れ髪の好青年に合図を送った。
「わかってるんよ。すぐ行く」
二つ返事をし、白衣の男性が瞬きをする間に好青年はその場から消えていた。
「どうしてこんな時間帯に。まだ次の発作までには時間があるはず……」
ギリッと爪を噛みながら、感知した〈魔力〉の度合いを投影している座標を凝視した。
「──ん?」
少し離れた所にもうひとつ、〈魔力〉ではない別の反応がレーダーに引っかかった。
「これは────」