雑音
なななん様企画の「夏の涼」企画 参加作品です。
川の中に寝そべって、火照る青空を見上げていた。
蝉の声。
風鈴の音。
川のせせらぎ。
熱された風にあおられる草木の音。
夏はうんざりするような雑音が多い。
先週遊びに行った親戚の家が懐かしい。都心に住む従妹夫婦の家はエアコンがガンガンにきいていて、上着を羽織らなければ寒いくらいだった。エアコンが心底羨ましいと僕が言うと
『でも、そっちは涼しいんだろ? 扇風機だけで夏がしのげる方がよっぽど羨ましいよ』
なんて笑って答えた。
そんな訳ないだろ一回こっちに来てみろと思ったけど、口には出さなかった。
僕の住む町はド田舎にある。エアコンなんてないし、例えあったとしても、昔ながらの日本家屋のあの家じゃ冷気が外に出てしまって、さしたる効果はないかもしれない。
ばあちゃんは「夏はこれで十分」なんて言って扇風機と団扇を出してくれたけど、はっきり言って力不足だ。
時代は変わったのだ。昔と今じゃ、人の心も地球の環境も大きく変わっている。
のろのろと首を振って、生ぬるい風を送る扇風機だけでは耐えられない。
ちりんちりんと、蝉の鳴き声にかき消されるくらいささやかに鳴る風鈴の音なんか、体感温度を一度たりとも下げてはくれない。
代謝のいい高校一年生の僕には、あの家の中ははっきり言って地獄だ。
だから僕は、この街で一番涼しい場所に行くことにした。
自転車を飛ばして十分と少し。山の合間を縫うようにして流れる編図川。
上流の方は流れが険しいけれど、ここなら流れも緩やかで安全だ。
べたつく汗を洗い流したくて、僕は服も脱がずに川の中に寝そべった。
ひんやりとした川の水が僕の体の横をさらさらと流れていった。大小様々な石ころが背中に当たって少し痛いけれど、それに目をつぶればここは天国だ。
丁度いい大きさの岩を枕にして、熱い空を仰ぎ見た。
じわじわという蝉の声があたりに散らばっては吸い込まれていく。ゆったりと流れる雲の切れ端を眺めていると、時計の針の事なんて忘れてしまって、一体自分がどれくらいの時間そこにいるのかが分からなくなる。意識がとろとろと自然の中に溶け込んでいくような、この感覚がとても好きだった。
「あ、いた。やっほー翔太」
……やっぱり来たか。僕は声がした方向に顔を向けず、答える。
「いたら悪いかよ」
「そんなこと言ってないし」
鈴の音のような軽やかな声音に似合わない勝ち気な口調。西城 美奈はいつもの通り、川べりから僕に声をかける。
「涼しい?」
「涼しいよ」
「きもちいい?」
「気持ちいいよ」
「ふーん」
ぽちゃんぽちゃんと音がした。多分、美奈が小石を拾って投げ込んでいるんだろう。構って欲しいなら素直にそう言えばいいのにな。
「美奈も入ればいいじゃん」
仕方がないから、目を開けて声をかけた。
川べりに立ってこっちを見る美奈は、相変わらずあか抜けた格好をしていた。
花柄の白いワンピースに、洒落た麦わら帽子、この辺りを歩くには少し不向きなデザインのサンダル。
どれもこんなド田舎では手に入らないような物ばかりだ。美奈の周りだけ、都会から切り取ってきたような違和感がある。
「無理。お洋服汚れちゃうから」
「あ、そ」
美奈がそう言うのは分かっていたので、僕は特に何も思わず川の中で背伸びをした。
美奈がこの街に越してきたのは三年前、中学一年生の時だ。
両親が離婚し、美奈は父親の方に引き取られた。疲弊した美奈の父親は色々な人間関係をリセットするため、住んでいた都心を離れ、実家のあるこの片田舎に戻ってきたらしい。
ネット環境さえあれば仕事はどうにかなるようで、美奈の父親はほとんど外に出てくることはない。寄合や近所の集まりにも、ほとんど顔を出さない。
当然、住民たちの印象は良くない。コミュニティの小さなこんな街じゃ、よくない噂や評判が広まるのは一瞬だ。
どんな仕事をしているのかは知らないが、元々あった家を小洒落たデザイナーズハウスにリフォームしてしまったのも良くなかった。
都心ならまだしも、昔ながらの日本家屋が立ち並ぶこの街に、真っ白で奇妙な形をした家はどう考えても浮いていた。
そんなこんなで、西城家は完全に「よそ者」として扱われ、父親にも、その娘である美奈にも、極力関わらないようにという暗黙の了解ができつつあった。
「暑いねー」
「夏だからな」
「もっと気の利いた返しはないの?」
「じゃぁ、もっと気の利いた話題を提供してくれよ」
美奈の家にエアコンがついているのを僕は知っていた。このうだるような暑さの中、快適な家の中からわざわざ出てこなくてもいいのに。
と同時に、家の中がそんなに快適じゃないのかなとも思う。
父親とはあまりうまくいっていないようだし、祖父母の話は聞いたことすらない。いくらエアコンがついていて涼しかったとしても、逃げ出したいくらい居心地の悪い家。果たしてどんな空気が漂っているのか、僕には想像できない。
「不憫なやつ」
「……? なんか言った?」
「なんでもないよ」
僕の返答が気に入らなかったのか、美奈は眉を顰め、形の良い唇を尖らせていた。
本当に、整った顔をしている。液体みたいに滑らかな髪が風と泳ぐ様は、息を止めて見つめてしまうくらいに美しかった。
まだ嫌な噂が流れていなかった頃、美奈は人気者だった。都会から来たあか抜けた見た目の女の子。それを変に鼻にかけることのないさっぱりとした性格をしているから、男女問わず皆に好かれていた。別の学年の男子がわざわざ顔を見るために教室に来たこともあったくらいだ。
それが今では、腫れ物に触るみたいな扱いになった。誰も積極的に話しかけない、遠巻きにひそひそと噂をする。一挙一動を監視され、少しでも変なことをすれば、そこに尾が付き鰭が付き、瞬く間に学校中に広がっていく。
当初は憧れの的だったおしゃれな服装も、今では揶揄される要素の一つだ。
『この街であんな服着て、どういうつもりなんだろうね。目立ちたいんでしょ、きっと。ていうか、似合ってないよね』
うるさいな。どんな服を着ようが個人の自由だし、目立ちたがるような性格でもないだろ。何より、美奈の選ぶ服は本当にセンスが良くて、彼女に良く似合っていて……ほれぼれする。
こんな閉鎖的な街でなければ、彼女はクラスの中心にいたんだろうなと思う。
「夏休みって暇だねー」
「宿題とか、色々あるだろ」
「もうほとんど終わっちゃったよ」
「まじか。今度数学のやつ見せて」
「えー、どうしよっかなー」
「頼むよ……。知ってるだろ、僕の成績。まともにやったんじゃ絶対終わんない」
「んー」
じゃぁ見せるんじゃなくて、教えてあげるならいいよ。と彼女は笑って言った。
それだと写すより時間かかるんだけど……と思ったけれど、美奈の言わんとするところも分かったので、承諾した。
会う場所、どこにしようかな。家に呼んだら、母さんはいい顔しないだろうし、かといって美奈の家は絶対に無理。図書館も人が多いし、人の目を気にしながらやるのも鬱陶しいしな……。
『西城さんのとこの娘さんとは関わらない方がいいよ。お前、なんで西城なんかと昼飯一緒に食ってんの? あんた、美奈さんと仲良いんだって? こういう事言いたくないけど……あんまり関わり持たないで欲しいなぁ』
あぁ、もう……うるさいな。ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるさいんだよ。
誰と関わろうが僕の勝手だろ? お前らだって最初は美奈のこと好きだったじゃないか。それが寄ってたかって、手のひら返して、はみ出るのが怖いから、みんなして同じ方向向いて同じこと言って……気持ち悪いんだよ。
「美奈」
「ん、なに?」
「やっぱり川、入りなよ」
数拍置いて、美奈は言った。
「だめ、お洋服汚したら、お父さん怒るから。買ってくれてるの、お父さんだし」
「……あ、そ」
そういう返答がくるのは分かっていたはずなのに、僕は無性にいらついた。
あぁ分かってる。分かってるさ。
いくら仲が良くたって、美奈と僕の間には、この川の流れみたいな隔たりがあるんだ。
同じ空間を共有していたって、僕は川に飛び込めるけど、美奈は川辺から動けない。
耳元で流れるせせらぎの音が、急に大きくなった気がした。
「――は、―――――なの?」
美奈の声が、聞こえなくなる。
昔、さらさらざーざーとなるこの音の正体が知りたくて、調べたことがある。川の水が川底にある岩や石に当たったり、こすれたりするのが原因らしい。
これも同じだなと思った。
色んなものに当たった雑音が、僕らの間に横たわる。
仲良くするな、距離を置け、お前のためを思って言ってるんだ。
分かったみたいな顔をして、知ったような口ぶりで、白々しく言い放たれた言葉の数々が、僕らに当たってそこら中に雑音として散らばっていく。
彼女のことが見えなくなる。
彼女の言葉が聞こえなくなる。
「ねぇ――――、て―――――の?」
じわじわと鳴く蝉の声が一層激しさを増した。
じゃらじゃらと川の流れに巻き上げられる小石が、こすれ合う音が耳に痛い。
うるさい、うるさい……うるさいんだ。
「美奈」
僕は立ち上がって、美奈の方へと歩み寄った。
水をたっぷり吸った服が少し重たい。
「どうしたの?」
ふわりと、日焼け止めクリームのにおいがした。
白い肌を保つために、しっかりとケアをしてるんだろう。あぁ、違うなぁなんて思った。
違うのは嫌だなぁと、思った。
「好きだよ」
「……ん?」
「好き、だ……よ」
「……んん?」
「……」
「……」
「……って言ったら、どう……する……?」
うわぁぁああああああああああ!
かっこ悪いかっこ悪いかっこ悪い!
どうする? じゃないだろ! なんで判断を向こうに丸投げしてるんだよ! 言えよ! 言い切れよ! 僕のチキン野郎!
いたたまれなくなった僕は、きょとんとした顔の美奈の近くにこれ以上とどまっていることができなくて、バシャバシャと水を蹴って歩き出した。
「ちょ、ちょっと! どこ行くの!」
「も、潜ってくる!」
恥ずかしい、恥ずかしすぎる。
僕はどうかしてたんだ。じゃないとあんなこと、何の脈絡もなく言えたりするもんか。
今更になって早くなりだした鼓動がうるさくて、火照り出した体が鬱陶しくて、僕は水深が深くなっている下流の方へ飛び込んだ。
水の中は、静かだった。
ぽこぽこと立ち上る気泡の音。川が流れ込んでくる音。小石がからりと転がる音。
ささやかな音以外聞こえない、雑音のない静かな空間。とても心地よかった。
水の中にゆったりと沈みながら、僕は自分の中の雑念も消してしまおうと思った。明日からどうしようとか、返事はもらえるだろうかとか、なんで今言ったんだとか、そういう邪念を、今だけは。
どぼんと、何か大きなものが水の中に入った音がした。
薄目をあけると、沢山の花が揺蕩っていた。
これは……ひまわり? どうしてこんなところに……。
ひまわり……花……花柄。
花柄のワンピース。
そこまで考え付いた時、僕は地面を蹴って水中に顔を出した。
「美奈⁈」
「げほっ……げほっ……」
「お前、何して――」
「私も、言う!」
「は?」
服を着たまま水に入ることに慣れていないのか、すぐに沈みそうになる美奈の体を抱きとめる。
けほけほと水を吐き出しながら、美奈は言った。
「私も、言うよ!」
「だから、何を――」
「好きだよって! 私も好きだよって、言う!」
「……っ!」
それが僕の不細工な告白への応えだと気づくのに、少しだけ時間を要した。
どうする? と聞かれたから、私も好きって言う。なんて馬鹿正直で、ひねりのない……気持ちがいいくらい、素直な返答。
だけど僕は頭の整理がつかなくて、思ってもないことをぺらぺらと口にした。
「え、あ、は、はい? 何、言ってんだよ。僕のこと好きだなんて、そんなはず、ないだろ……勘違いだよ。いきなり僕が告白したから、びっくしりただけ、だろ? っていうか、そもそも僕たちが付き合ったら、周りにどんな目で見られるか――」
周りの目も、視線も、そんなのどうでもいい。関係ない。
そう思ってはいても、僕の口は無意味な雑音をぽんぽんと吐き出した。
あぁ、本当に僕ってかっこ悪――
「ごちゃごちゃ、うるさい!」
音が消えた。
夏の音も、僕の声も。
全てすべて、冷たい水に吸い取られた。
水中に押し込まれた僕の体は、すっかり冷え切ってしまっていて、夏だというのに温もりを求めていた。
密着した美奈の体の、ほんのりとしたぬくもりを。
背中に回されたほっそりとした腕。ワンピースからのぞく、白い太腿。柔らかい体。気泡が交わる唇。
その温もりだけを感じていた。
静かな静かな、水の中で。