雲を飛ばす芭蕉扇
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
ううむ、ここのところ曇り空が続いて、嫌な感じなのだ……。過ごしやすいんだけど、どうも湿気にあふれているような……肌にまでカビが生えてきそう。
こう、晴れほど爽やかじゃないし、雨ほどじめじめしていない天気っていうのは、一番、人の気持ちをやきもきさせると思わないかい?
空は空なりに、優柔不断な心が現れている。ちょっと前までの僕は、そんな風に考えていた。ところが、曇りというものにも特別な意味合いがあるという昔話を仕入れてね。少し考えを改めるようになったんだ。
何事にも意味は存在するんじゃないか、と考えさせられたこの話。こーちゃんの刺激になるといいのだけどね。
むかしむかし、小競り合いがひしめいていたこの辺りが、ひとつの大名家の手によって統一されて、治められるようになっていた頃。
やはり、今日のような曇り空が多かった。易者たちの記録によると、360日のうち、実に280日は午前、午後のいずれかが曇り。さらにそのうちの200日近くが、一日中、曇りだった年もあるのだという。
曇りの判断基準は今と変わらず、空全体に占める雲の割合が9割以上かつ、雨が降っていない状態とされていた。
たいていの場所では、一年に占める晴れの日の割合は、6割前後という統計が出ている。このことを考えると、いかにこの地域が異常であったか、お分かりいただけるだろう。ただ、気温に関しては晴れの日に比べて、さほど下がらない。むしろ暑く感じる者さえいたというくらいだったという。
今は良くても、日照時間を確保しなくては、作物の出来など暮らしに影響が出てくるかもしれない。そう考えた大名家の家臣たちは、たびたび有識者を募ってはこの異常な気象に関しての対策を練ったのだという。
その対策会議の初期の段階で、ひとつのばかげた案が出た。
「立ち込める雲を晴らす。ならば、それにふさわしい巨大な扇を作って、みんなであおげば良いのではないか」
案を出したのは、その会議で一番年少の者だった。つい十日ほど前に元服を果たしたばかりで、まだひげも生えていないほどの若さ。「様々な者から意見を聞かねばならぬ。それには年寄りも若輩も関係がない」という領主の判断で、参加を許されていたのだった。
彼は道教の説話に出てくる「芭蕉扇」を例に出して、力説する。この扇、ひとあおぎすればたちまちのうちに烈風を巻き起こし、あらゆるものを吹き飛ばす。空の雲も、それでどければいいではないか、と。
もちろん、様々な反論はあった。
いかに伝説の道具を用意するのか。もし手に入ったとしても、ふたあおぎで乱雲を呼び、みっつあおげば豪雨を呼ぶ。そのようなものの存在が許されるわけがなかろう。ともろもろの正論をぶつけられて、すっかり縮こまる若人。
しかし殿様を含め、頭ごなしに否定しない者は、「武勲を立てるなりして、自分の財力のみで行うのであれば、許可する」と伝えたんだ。馬鹿げた発想の、馬鹿げた試み。やるなら自分でどうぞ、というわけだ。
ムチを食らいまくった後の、ほんのわずかなアメ。感情的になりがちな若者には大いに効果があったようで、むくむくやる気を出したという。
それから10年あまりの間。政務に軍事に精を出して、大名家の戦略に貢献していく若者。やがて家族を持ち、仲人を勤めてくれた大名家の有力家臣に仕える陪臣になった。
それなりの家屋敷を持てるようになると、彼はいよいよ、かねてよりの願い。雲を晴らす「芭蕉扇」の作成に取り掛かったという。
「時間はかかっても構わぬ。相手は天の雲。並大抵のものでは、どかせまい。じっくり取り組め」
彼が提示した案は、本当にひとあおぎできれば、という構造の、ほぼ使い捨ての巨大な扇。その構造はあおぐ面はもちろんのこと、骨や要にあたる部分すら、植物の「芭蕉」を用いる。かつ、雲を相手にするということで、数百人で持ち上げてあおぐ、突拍子もない大きさを求めたという。
風流とも酔狂とも取れるこの計画。実際に作業に臨む者のほとんどは、自分たちが神器に連なり得るものを作っているという自覚はない。ただ日々の生活の糧が手に入るのならばと、数ある仕事のひとつに過ぎないものとして、淡々とこなしていたとのこと。
年間で獲れる芭蕉の葉には限りがあり、作業は大いに難航した。だが、幸いにも彼がいる城は長く敵に攻められず、平穏にことを進めることができたらしい。
曇りの日は依然として多かったが、暖かさをともない続けていたのも、昔から変わっていなかった。そこまで急がなくてもいい、ということもあって、最終的に扇ができあがったのは、製作開始からおよそ20年の月日が流れてからだったという。
曇りの対策会議から30年。当時は若さにあふれていた彼も、すでにクマのような豊かな髭を蓄え、身体もかつてより一回り大きくなった、貫禄を感じさせる将の一人となっていた。
これまで大過なく過ごしてこられたのは、戦国の世にあって珍しいことであったし、危惧されていた気候の寒冷化も訪れなかった。今回の芭蕉扇作りに関しても、「武士に二言はない」ということを示すための、意地と誇り、気概の表れ。
曲がりなりにも、形にはなった。あとは実行すれば、自分の意地を貫くことができる。
持ち手の部分に100人。扇面をその数倍の人数で支える必要のある、最初で最後の芭蕉扇実験は、めったに見られない祭りとして、参加者と見学者も大いに集まった。
天気は曇天。当初の目的に沿った日が選ばれた。
実験場所は周囲に被害が及ばないように、だだっ広い野原が選ばれ、見学者は、風などが吹いた時など、扇が傾いて倒れた時に巻き添えを食わないように、かなり距離を空けながら、周囲を取り巻いている。
準備が整うと、合図であるほら貝が鳴らされ、扇があおがれ始めた。
最初は持ち手と扇面を支える者たちの力技だが、持ち上げつつ勢いがついたら、あとは慣性と引力に身を任せてあおぐ計画だった。
曇り空を大きく撫でるように、半円を描いて動いた芭蕉扇は、持ち手たちが倒れ込むように体重をかけることで、見事にひとあおぎに成功した。地面に落下した時の衝撃で、骨が何本か飛び、扇面も半分近く穴が開く。
思っていたよりも風は出なかった。だが、成すと言ったことを成したことに意味がある。周囲から拍手が送られ、あとは退散するのみ……のはずだった。
あおぎ終わってから、しばらくたち。破損して飛び散った扇の部分を集め終えるかという時、周囲の人間がざわめき出した。
各々が空を見ると、雲一面だったその場所に、青い切れ目が入っていたんだ。じょじょに広がっていくその切れ目から、大きな太陽がのぞいたが、すぐにおかしいものが横切った。
ゆったりと構える太陽。その下を、豆粒ほどの大きさの光がさっと横切った。
雲から雲へ、切れ目の上を通る、わずかな時間だったが、あの光はまさに太陽と同じもの。
人々が困惑する中、その豆粒ほどの太陽は二つ三つと、流星のような速さで、視界を左から右へと横切っていく。心なしか通る瞬間のみ、空気も体内も、一瞬だけ沸き立つような暑さを覚えた者が、たくさんいたという。
切れ目が閉じ切ったのは、今の時間に直しておよそ二分後の話だった。横切った太陽の真下にいた人々は、身体の熱が引かず、何日も家で休むことになる。
曇りでも、この地域が暖かい理由を人々は察した。その日は天の太陽と、その子供たちが遊び回る日なのだ。子供とはいえ、太陽がいくつもあるのでは暑くなるのも当然。
地上を守るため、そして自分たちの遊ぶ姿を隠すために、あんなにも曇り空が多かったのだろう、と。
芭蕉扇は、彼自身の手で燃やされて、もはや残っていない。やがて江戸時代に入ると、異様なまでの曇り日の多さはなりを潜め、他の地域とさほど変わらない頻度に落ち着いたという。
実験を知る者は、あの小さい太陽たちがしっかり育ち、一人で仕事をこなせるようになったのだろう、と話していたそうだよ。