瑞兆(三十と一夜の短篇第22回)
天平勝寳九歳三月戊辰(二十)。天皇寝殿承塵之裏天下太平四字自生焉。
庚午(廿二)。勅召親王及羣臣令見瑞字。
『続日本紀』より
母は皇太子のきさきとなると決まってから、男児を儲けよと期待されてきた。
娘は男だったら良かったのにと言われ続けてきた。娘が十になった年の秋、母は弟を生んだ。父は伯母から譲られ既に帝の位にあった。帝の第一皇子の誕生に国を挙げての祝いとなった。娘は弟ができた喜びよりも、自分の存在が無視されている寂しさを自覚した。しかし、これでもう母は男児を生め、自分は男の子だったら良かったのにと、無言の責めを受けずに済むと、鎖から解かれる思いがした。
しかし、弟は次の年の秋にあっけなく亡くなった。
同じ年に母とは別のきさきに男子が生まれた。
――母が違おうとも父の皇子に違いない。その子が無事に育つのなら、その子が跡継ぎで良かろう。
性別であれこれ言われるのが真っ平な娘の気持ちとしてはそうなのだが、また幼くして異母弟が亡くなるかも知れない心配があり、父はともかく、母や母の実家の者たちはその皇子を皇儲と認めたくないようだった。母は人臣で初めて帝の皇后となったから、何としてでも自らが帝の母にもなりたいと願っていたのであろう。しかし、もう子を生すのが難しい年齢に母は差しかかっていて、伯父たちが自らの娘を新しいきさきとして、父の後宮に入内させてきた。
だが、どのきさきも父の男児を授からなかった。
娘は女性初の皇太子に立てられた。より一層強く己を律し、矜持高く、それで自身の心を鎧うようにして護ってきた。
唯一人の異母弟も体が弱く、なんとか十を過ぎて安心したが、今度は疫病や政治で混乱があった。異母弟は父が妻を得た年齢になったが、政情の不安定と本人の虚弱さからきさき選びよりも、健康を気遣ってやらねばならなかった。そして、十七歳になったばかりで異母弟は病で亡くなった。
やがて、父は娘に位を譲った。娘は独身の女帝。その次に皇位を襲う者が決定されなかった。娘は父と母の後見あっての帝であった。
天平勝宝八歳(七五六)五月二日、聖武太上天皇が崩御した。聖武太上天皇は道祖王を娘・孝謙女帝の皇太子にせよと詔を残した。道祖王は天武天皇と藤原五百重娘の間に生まれた新田部親王の息子である。
聖武太上天皇の母は藤原氏出身で、自身の皇后で、女帝の母である光明子も藤原氏出身であることから、藤原氏の輔弼を期待した人選であったのだろう。
この決定に喜んだ者、憤った者、困惑した者、それぞれがいた。
年が明けて、喪中であったが、三月二十日に孝謙女帝の寝殿の埃除けの帳に埃が寄って、「天下太平」の文字が自ずと現れた。
瑞字であると、女帝は皆にこれを見せた。
だが、この年はめでたいばかりでは済まなかった。正月六日に伯父の一人である橘諸兄が聖武太上天皇の後を追うように亡くなっていた。橘諸兄は五世王から母の姓を受け継いで、臣籍降下した元皇族だった。
三月二十九日、諒闇中にも関わらず、道祖王の行跡が芳しからずと廃太子を決定した。月が改まって四月四日、女帝と群臣は早速誰を皇嗣とするか、諮ることとなった。
群臣たちはそれぞれの考える皇族を候補に挙げた。しかし、藤原南家の二男仲麻呂は誰も候補に挙げなかった。
「子を知るのに父を若くはなく、臣下を知るに君主に若くはございません。御上の択ぶ方を奉るのみです」
そう言われてしまえば誰も発言できなくなる。孝謙女帝は候補に挙がった皇親たちの欠点を次々に述べ、最後にこう言った。
「舎人親王の子、大炊王は若いが、過ちや悪い所を聞かない。朕はこの者を太子としたいが、諸卿の意は如何に」
廟堂の者たちは、勅命に従いますとしか、答えられなかった。
大炊王は道祖王と同じく、天武天皇の孫である。舎人親王の子であるが、有力な皇族や藤原氏の血を引いていなかった。だが大炊王は、藤原仲麻呂の若死にした長男真従の未亡人粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の邸宅に住んでいた。
つまり皇太子選定の集まりは茶番だった。
この茶番の脚本を作ったのは光明皇太后と藤原仲麻呂であり、孝謙女帝はそれに合わせて台詞を口にしたに過ぎなかった。女帝は女帝なりに、父のほかのきさき所生の異母姉妹たちの夫やその子どもたちはと意見があったが、姉妹の夫たちの性格が良くないと父上のお目がねに誤りがあったではないかと母からきっぱりと否定された。
「三月二十日に朕の住処の帳に『天下太平』の字が現れたのは、朕が仏法僧の三宝と天地の諸神に政の善悪を示すよう願った徴である」
そして大赦や昇進、民の負担の一部軽減の勅命が続けられた。
茶番に納得しない群臣たちが不満を抱いて、密談を繰り返しているらしいことから、仲麻呂を通じて、女帝は六月に、勝手な集会や、法に規定された以上の馬数を飼育してはならず、武器も所有してはならない、武官以外の者が武器を携行してはならない、洛中で二十騎以上の集団で行動してはならないと勅を出した。
不満を持つ群臣の急先鋒が、橘諸兄の嫡男で従弟の奈良麻呂であるのを女帝は知っていた。そして、従兄である仲麻呂と自分を、奈良麻呂が嫌っているのも知っていた。しかし、女帝は、理想を追い続け、濁りを嫌う奈良麻呂の青臭さが好もしかった。博識で、不善を為す小人を徹底して憎み、己の身を清く置こうとする真直ぐな性格から、もっと皇統に近い血筋であれば良かったのにと、巡り合わせが恨めしかった。
だから、奈良麻呂とその一党をでき得る限り庇い、騒乱を未然に防ごうと努力したし、そこは母の皇太后も同調してくれた。だが、仲麻呂は許さなかった。皇太后から駅鈴と御璽を奪い、女帝や皇太子を廃そうとするだけでなく、自身の殺害まで計画していた輩を捕らえ、主だった者たちが何もかも話したのにも拘らず、杖で打ち続けて死なせた。
自分を廃そうとする者たちの名を愚か者の意の言葉に改めさせて、罰として辱めを与えてやろうとした女帝は統治者としてまだまだ甘かったのだろうか。
都の騒乱とそれに伴う賞罰で、七月は終わった。女帝の乳母の一人だった故山田三井比賣嶋も奈良麻呂の謀り事に加担していたと知り、女帝は秋に取り残された燕のように疲弊し、このまま果てるのではないのかと、涙が零れた。数々の栄誉を授けられてきた乳母は、帝の「御母」として誇りを感じこそすれ、養い君の女帝を気の毒がっても疎んじてもいなかったはずだ。
立場が違えば、見方も考え方も違うと判っていたが、奈良麻呂は女帝に価値を認めていなかった。所詮皇太后と仲麻呂の傀儡で、そのまま大炊王へと傀儡の帝が移り変わるだけと、憎んでいたか?
――朕は何の為に生きているのか。
誰にも答えられない問であった。
帝として、徳が薄いのかと、嘆きと瞋りがあった。瞋りは心を毒し、虚ろにする。
八月になって、駿河国から、蚕が産卵したが、その卵が喜ばしい字の形を成していると報せが入ってきた。卵の連なる形は、「五月八日 開下帝釋標知天皇命百年息」と読めた。
女帝は母を難詰した。
「母上、いえ、皇太后、朕は知っています。
氷高の大伯母(元正天皇)が帝位にあった時、藤原麻呂の伯父は美濃介でした。大伯母が美濃国に御幸なさり、素晴らしい水の湧く泉をご覧になられた。その水で手や体を洗えば、肌は滑らかになり、痛みが消え、飲めば病が治り、白髪も黒くなると、霊亀から養老と改元なさいました。その後麻呂の伯父が京大夫を勤めていた頃都で白い亀が見付かり、献じられました。翌年の正月に養老から神亀に改元され、二月に大伯母は父に位を譲られました。
父の死後に二回も瑞兆が示されました。朕の治世に不満を抱く者たちが罰を受け、廟堂から去りました。
一度目は……、一度目は朕の為に成されたと信じました」
女帝は母を睨み付けたが、母は穏やかさを崩さなかった。
「今年の五月八日は父の一周忌の悔過の最終日でした」
母は何もかも判っているでしょうと言いたげだった。
「御上、母は老いました。私は国の父である御上の父上を支え、御上を支え、国の母として精一杯努めてまいりました。
御上は立派に国の親としてのお務めを果たして参られました。御上のお子である民たちの平安の為、お定めになった皇太子に御位をお譲りなられてもよろしいかと存じます」
帝の妻、帝の母になった皇太后はそれで満足なのだろう。独身の女帝に、その血統の存続は有り得ない。皇太后が見込んだ仲麻呂が擁する大炊王を帝に据えて、新しい皇統の流れを見届ければ、皇太后は満足なのだ。後は、世の中を見守りながら、娘と共に勤行に励もうと、希望を抱いている。女帝の人生はこの女性の思うまま動かされてきた。母には敵わない。
「何もかもすぐにとはいきませんね」
「そうですね」
肩を落とし応える自分の声が別人のもののように、女帝には響いた。
八月十八日、孝謙女帝は天平勝宝九歳から天平宝字元年と為すと詔を出した。同時に租庸調、雑徭などの税の軽減を命じている。
翌年の春、大和守より、「大和の神山に奇妙な藤が生えており、その根元に虫が喰い、文字の形を彫り出しました。『王大則幷天下人此内任大平臣守昊命』とあります」と報せがきた。君主ばかりか、それを補佐する臣下までも褒め称える瑞字であり、これは仲麻呂とその施策を正当化しようとしているのは明らかだった。
七月に皇太后が本当に病になり、長期間寝込んで女帝の心を騒がせた。
天平宝字二年八月一日、孝謙女帝は大炊王に譲位した。退位の理由には「日々の重責に耐え難いこと、子として母への孝養を尽くしたいこと」を述べた。本当の所は言えなかった。
大炊王は年が明けると、自分の父である故舎人親王に天皇の号を追贈すると詔した。その詔の中で、大炊王は光明太皇太后から吾が子と呼ばれ、聖武太上天皇の皇太子と定められて、帝の位に就いたと述べた。
女帝は――、いや、孝謙太上天皇は、抗議の声を上げたかったが、耐えた。
――聖武天皇の皇太子は私、大炊王は私の皇太子だったではないか。何故母は大炊王などを吾が子と呼び、父の皇太子であるのと認めるのか。大炊王は仲麻呂夫妻を父母と思い優遇したいと口にするのか。それならば、ならば、私が帝位に就かずとも良かったではないか。早々に天武天皇の孫王の中から皇嗣を立てておれば、無駄な争いをせずに済んだ。何の為に父が心を砕き、政争で命を落とした者たちがいる?
孝謙太上天皇は翳でかんばせを隠し続けた。
――はじめから女の私を帝位に就ける無理があったのに、何故?
母には感謝し、孝行したい気持ちがあるには違いない。皇女と生まれたからには心の欲するままの言動を取れぬのが、上に立つ者の役割だとも知っている。だが、あまりにも犠牲が多すぎはしなかったか。
母と信頼してきた臣下が選んだ帝が世を治め、血統を繋いでいくのを黙って見守り、信仰と孝養を尽くしていくのが、余生。羽を傷めて飛べず、仲間を見送る渡り鳥の身、凍えながら全てをただ眺めやるのみ。
かつて遣唐使を見送る為に難波津へ御幸した。どこまでも青く広い水面を滑るように、遣唐使船は進んでいった。海難の不安もあるけれど、広い世界に旅立つ羨ましさ。未知の世界を見る悦び。海鳥と一緒に船を追い掛けたかった。
従兄弟の藤原清河は戻ってこないが、学問の師であった吉備真備は帰ってきた。仲麻呂たちの任官の所為で遠方に赴任しているが、いずれ会えるだろうか。
母は仏弟子の勤行に励む一方で、己の立場から選択できなかった人生を愚痴のように繰り返すようになった。
「父上のほかのきさき、広刀自さんは私と同様に息子を亡くしたけれども、娘たち二人は結婚して、孫がいるわ。皇后にならなければ、私も孫の顔を見られたかしら」
自分は不惑を過ぎた娘であり、太上天皇の身分で今更結婚も出産もない。
――帝の母の立場を手放さなければ仲麻呂とともにまだまだ実行できることがあったのに、皇后にならずにいたらあなたの生き方も変わっていたかしら、あなたの弟が可愛い盛りに死にさえしなければ……、いいえあなたが男の子であったなら……。
朝廷に君臨した女性はただの母親、媼になった。本来「令旨」しか出せない皇太后の身で「詔」を出して臣下を平伏させた、あれほど強い意志を持って娘の上に立っていた母はどこにもいない。
娘は普通の女性の心情を得ようとしても得られなかった。凍り付いた心から毒が抜けなかった。
娘は母の死後、心の氷を融かす春を迎えたように、自らの翼での羽ばたきを試みた。臣下とその臣下が擁する帝を退け、再び帝の地位に返り咲いた。今度は自身が見付けた信頼できる臣下が側にいた。自分が強いられてきた生き方そのままに、清らかさと己を律する強さを求める御代であった。
厳しさはともすれば、人の心を判らなくさせる。仏教への信仰に傾きすぎる批判があったが、女帝は耳を閉ざした。
女帝は皇嗣を定めずに崩御した。臣下たちの審議で次の帝が決められ、新しい皇統が始まった。女帝の寵臣たちは黙して廟堂を去っていった。
新帝の即位の儀式の詔で、女帝の死後に白い亀が肥後国から献じられた旨が述べられ、元号が宝亀と改められた。
参考文献
『国史大系 続日本紀 前篇』 吉川弘文館
『続日本紀 全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『藤原仲麻呂』 木本好信 ミネルヴァ書房
『孝謙・称徳天皇』 勝浦令子 ミネルヴァ書房