第2章 男の子は十歳くらいまでなら女湯に入れるそうです(各都道府県により異なる)
馨を家に送ってから昭はゆっくりと帰路についていた。徒歩五分ほどの距離なのですぐ自分の家に着いた。
腕時計を見るとちょうど針が真上を指している。昼食を一緒に食べてもよかったかもしれない。そう思いながら昭は玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
「おかえり!」
キッチンの方から子どもの声が返してくれる。子どもの方に「買物は洗面所に置いとくよ」と言いながら、洗面所の入り口にトイレットペーパーを置く。そして洗濯機の上の棚に洗剤を置いた。
「思ったより早かったな!お昼作ろうか?」
「ありがとう。簡単なのでいいよ」
洗面所のドアを閉めながら父に応答する。お湯が沸く音が聞こえてくる。ガサガサとビニールを破るような音も聞こえてきた。「カップ麺か」そう思いながらキッチンに歩いていく。
案の定、白い円筒形の容器が二つ、テーブルの上に置かれていた。本屋の紙袋に入った雑誌を椅子の上に置きながら隣の椅子に座る。父も「よいしょ」と椅子に腰かける。
「明日は朝から出掛けるよ」
「おお! そうか! 遊びに行くのか?」
父が割り箸を割りながら聞いてくる。
「ちょっと動物園に」
「いいな! 父さんも一緒に行こうかな」
麺をすすりながら期待した目でこちらの目を見てくる。
「母さんが休みの日に二人で行ってくれよ。親父の子守をするなんて勘弁だ」
カップ麺の蓋を開けてフォークで軽く混ぜながら答える。
「そうか。それは残念だな」
父がしゅんとした表情でカップ麺のスープを熱そうに飲んでいる。
「バイトの子と一緒に行くのか? それだったら父さんが一緒だと邪魔だもんな」
「違うよ。明治と一緒に行く。二人も子守するのは疲れるから」
「おお! 馨ちゃんか! 久しぶりだな」
少し硬めの麺を噛み切りながら間を置いて話す。
「うん。明治と遊ぶのは久しぶりだよ」
「昔はしょっちゅう遊んでたもんなぁ。よく父さんの子守をしてくれたもんだ」
「親父は見境がないな」
「大丈夫だ。父さんは母さん一筋だからな」
「何が大丈夫なのか分からない。二回目の父さんは限りなく黒に近い灰色だと思うよ」
「うまいこと言うなぁ。まぁ、母さんと銭湯に行けるのもあと数年だから大丈夫だ」
父の言葉は聞かないようにして麺をすすることに集中する。父の作るカップ麺は絶妙なお湯の量で、ついついスープまで飲んでしまう。少し歯ごたえのある卵と硬めの豚肉を噛みしめながらスープをすする。「今日はこれぐらいでやめとこう」と自分をセーブしながら容器を机の上に置く。
「ごちそうさま」昭は手を合わせて言う。
「おお。夕飯はテーブルの上に置いとくからな」
「ありがとう」椅子から立ち上がりながら答える。
父が銭湯に行く時は、父と母は外で晩御飯を食べるのが常だった。そんな時は父が昭の夕食を用意しておいてくれる。
「明日は弁当でも作っておくか?」父が椅子から下りながら話す。
「いや、朝飯だけ用意してくれると嬉しいな。昼は適当に済ませるよ」
「そうか! 気を付けて行ってくるんだぞ」
「親父も銭湯からつまみ出されないように気をつけろよ」
「もちろんだ!」
そう答える父の表情には自信が満ち満ちていた。
本屋で買った袋を脇に抱え、昭は自分の部屋に入る。部屋には机と椅子、布団と本棚、クローゼットがあるくらいで非常にスッキリとしていた。
机の上に雑誌の入った袋を置き、ポケットから小銭入れを取り出す。小銭入れのチャックを開けて、ボタン型電池のようなものを取り出す。大きさは百円玉ほどである。
ボタン型電池のような物の中央を親指で軽く押し込む。微弱な感触とともに上部にある黒い点から光が発せられる。再度ボタン型電池のようなものを親指で押し込みながらこれに話しかける。
「ラジオ ランダム」
ピッという高い音が発せられた後、机の上にある球状の物体から音楽が流れた。この球状の物体はスピーカー。昭が話しかけたボタン型電池はコイン型端末。「パソコイン」や「コインピューター」などと呼ばれている。「Cフォン」と呼ばれている時期もあったが、今は「コイン」と言えばこのコイン型端末のことを指すようだ。
コインは見た目にはボタン型電池そっくりなのだが、軽くカーブしており、親指にフィットするような卵型になっている。おはじきやウォーリーストーンに近い形状だ。色はシルバーが基本色で、好みにより好きな色を選択することが可能だ。
三つの黒い点が並んでいるところが上部になり、それぞれスピーカー、映像用のレンズ・マイクになっている。電力によって動くのだが、昭の持っている端末は、体温で発電する仕組みだ。
コインの基本機能・処理装置、データはインターネット上にあり、ユーザーごとに保存され、それぞれ処理されている。他のコインユーザーと通話やメッセージのやり取りをすることもできる。形状が形状なので、通話の際は口の中に入れてやり取りをする者が多い。慣れれば舌でも操作しやすく、朝起きてから寝るまで入れっぱなしの者もいるくらいだ。完全防水となっているので水洗いしても、お風呂の中に落としても問題は無い。
昭は椅子に座り袋から雑誌を取り出す。表紙を一瞥してページをめくる。
スピーカーから特徴的な女の声がする。年のころは十代半ばだろうか。
『おはこんばんちは! シヱルだよっ。もうすぐシヱルの新しい曲が出るよー! みんな聴いてねっ! クスッ。シヱルでしたぁ!』短い宣伝のようだ。
シヱルと名乗った彼女は、バーチャルアイドルとして活動している。活動しているという言い方もおかしいが、シヱルを管理・操作する人間はいない。事務所や団体にも所属していない。完全なフリーである。
シヱルのファンやアイドル活動に関わっている人間の間では、一つの仮定が成り立っている。この仮定とは、もともと人工知能プログラムとして開発されていたものが、ある時、開発者の開発環境からインターネット上に逃げ出し、インターネットの中で人格を形成、そしてシヱルと名乗りアイドルの活動を始めたのではないかということであった。
シヱルの活動は様々だ。アイドルとして3DCGのビデオ販売、シヱルが作った曲の販売、先ほどのコインに追加することができるアシスタント機能。その他にもラジオやCMにまで出演していた。絶妙な死語の使い方とファンに合わせてファッションを変えられるシステム。色々なところでシヱルの声を聞くことができる。
「親父も、確か馨もシヱルが好きだったな……」
そう呟きながら雑誌のページをめくっていく。
しばらく雑誌のページをめくっていると、ラジオの音量が耳を澄まさなければ聞こえないほどの大きさになった。そして机の上に置いていたコインが微かに振動を始める。うっすらと「明治馨」という文字が宙に表示されている。昭はコインを手に取り、中央を軽く親指で押し込む。そしてコインに向かって話しかける。
「はい」
「昭! 馨だよ! 今日はありがとね。明日九時のお迎え忘れないでよ」
「分かってるよ。馨、ちゃんと起きとけよ」
馨は朝に弱い。夜にも弱いが、朝はもっと弱かった。五歳だから仕方がないのかと思うが、一緒に学校に通っていた時でも、朝はとてつもなく弱かった。
「昼飯は適当にお店で食べるのでいいか?」
「いいよ! 昭のバイト先がいいなー」
「僕のバイト先か……予約しとくよ」
「ありがとう! 楽しみにしてるね。それじゃまた明日」
「また明日」
昭はコインの中央を軽く押さえる。ピーッという高い伸びた音がして通話終了となった。
再度コインを押し、映像を表示させる。コインの押さえ込む部分は押さえる指の力をかける方向により上下左右、斜めまで画面の移動、カーソルの位置変更をすることが可能だ。
コインの中央を押さえたまま「電話帳」と言う。映像に人の名前がリスト表示される。「バイト先」のところでカーソルを止め、コインを強く押し込む。映像が消え、微かなノイズが聞こえる。ピピピッと何度か高い音がした後、女性の声がする。
「はい。明和です」明和とは昭がアルバイトをしているレストランの名だ。
「昭和です。庚さん? お疲れ様です。今大丈夫ですか?」
「昭君! 大丈夫よ。どうしたの?」
庚と呼ばれた女性。彼女は昭がアルバイトしているレストランの先輩である。主にホールを担当しており、時々厨房で料理を作ることもある。歳は現在十八歳。落ち着いた印象と仕事を教わっていた先輩ということもあり、年下という印象は感じられなかった。そのため、昭は未だに敬語で話してしまう。
「明日のお昼予約したいんですが、テーブル空いてます?」
「ちょっと待ってね。……うん。三つ空いてるよ。何時からとっとこうか?」
「お願いします。十三時には着くと思います」
「分かった。待ってるよ」
「ありがとうございます。では明日よろしくお願いします」
「うん。じゃあね」
コインを軽く押し通話を終わらせた。しばらくしてラジオの音量が大きくなり、音楽が耳に入ってくる。昭は再び雑誌に目を向けた。
昭が雑誌のあとがきを読んでいると玄関を開ける音がした。
「ただいまー」
母が帰ってきたようだ。腕時計を見ると針は五時を指していた。今日はじっくりと雑誌を読んでしまったと思いながら部屋を出る。
「おかえり」と玄関にいる母に言う。
黒いスーツを着ており、軽くウェーブした髪。
「昭さん。今日はバイト休みなのね」昭の姿を確認して母が答える。
目じりに微かにしわを寄せた優しい笑顔が、気持ちを安心させるようだ。
「うん。明日も休みだよ」
「母さん! 帰ってきたか!」
キッチンの方から、歩幅の狭いスリッパの音が迫ってくる。
「今夜も銭湯に行くぞ」
「お父さん。今夜ですか! まだ風邪気味だったんじゃ」
「もう風邪は治った! さあさあ、早く着替えて出掛けよう」
「分かりました。ちょっと待っていてください」
母は玄関から足早に自室へと向かっていく。そんな母を目で追いながら父が口を開く。
「昭! 晩御飯はテーブルの上に置いているからな」
「ありがとう。変態親父」
「だから変態親父と言うなとあれほど……」
父の話を最後まで聞かず、昭は自分の部屋のドアを閉めた。椅子に座ってラジオを聴いていると、父と母が出かける音が聞こえてくる。
「昭! 行ってくるぞ」
嬉しそうな子どもの声が玄関の方から聞こえる。
「行ってらっしゃい!」少し声を張り上げながら子どもの声に答える。
今日は夕食を食べてすぐお風呂に入ろう。そして明日に備えて早く眠ろう。昭はラジオの音に耳を澄ましながら考えた。