第1章 ライフステーション
人間が死ななくなった世界。
「死ななくなった」と言っては語弊があるかもしれない。
「死ななくなった」ではなく「生まれ変われるようになった」と言ったほうが適切だろう。
この世界では人生を赤ん坊から再スタートできる。まとまったお金さえ用意できれば人生を赤ん坊からやり直せるのだ。
不治の病に侵された人間・事故で即死した人間・天寿を全うした人間でも赤ん坊から再スタートできる世界。
人間が死ななくなったかわりに、新しい墓が造られることはほとんどなくなった。一時期あんなに見かけた葬儀社も、今では生まれ変わった人間の面倒をみる保育施設になっている。
人生再スタートの方法はこうだ。
各地に役所の数ほど建設されたライフステーションに行く。そしてお金をライフステーションの受付に渡すだけである。審査も制限も無い。金額は正直なところピンからキリまであり、再スタートした後の人生設計により変わってくる。何不自由ない生活を送りたければ、それなりの金額を渡せばいいのだ。養育費をイメージすれば分かりやすいかもしれない。そして「十月十日」経てば二世代目のスタートだ。
一世代目の肉体は、二世代目の新たな肉体を作る際に使われ、一世代目と二世代目の人間が同時に出くわすことはあり得ない。
受付の際には、以前の記憶を残すか消すかを選択できる。また、記憶を残す場合、どのタイミングで記憶を引き継ぐかを設定できる。赤ん坊の時から記憶を持つこともできるし、一般的に物心つく頃と言われるタイミングで記憶を植え付けてもいい。
やり直した人間には肉体生成時に識別用の印を付けられる。この印は、公にはどんなものなのか発表されておらず、見かけにはわからない。だが、ライフステーションでは、何世代目かを確認できる端末があるそうだ。
一度やり直した人間は2G、二世代目などと呼ばれている。
やり直していない人間は0Gだのゼロ回目と言ったりもする。
今は2040年。ライフステーションが国を挙げて各地に建設され、稼働を始めたのが2020年だった。
八畳ほどの部屋の真ん中に、布団を敷いてうつ伏せで眠っている男がいる。この男は二十歳になるフリーター。レストランの厨房でアルバイトをしている。名前は昭和昭。
「……ら! ……昭! もう朝だぞ。今日アルバイトは無いのか?」
子どもの声がする。少し声変わりが始まっているような声質だ。
「昭! 朝ご飯を用意しているから冷めないうちに食べなさい」
パタパタと歩幅の狭いスリッパの音が遠ざかっていく。子どもの声だが少し命令口調だ。
昭と呼ばれた青年は、体をゆっくりと仰向けにし、少し湿った布団から体を起こす。面倒くさいので着替えはせず、パジャマを着たままキッチンへ行くことにした。
「おはよう親父」
「おお! 起きたのか。朝ご飯用意できてるぞ」
キッチンのテーブルには、オレンジジュースと目玉焼き、トーストが用意されていた。昭は手前の椅子に座り、子どもの方へ目を向ける。子どもはキッチンのシンクで洗い物をしているようだ。足元には二段のアルミでできた脚立がある。
「ありがとう。今日はバイト休みだから家でゆっくりしようかな」
オレンジジュースを一口飲み、トーストを手に取って口に運ぶ。さっくりとした歯ごたえとバターの芳ばしい香りを感じる。
眼前の子どもが脚立を折りたたみ、少し大きなエプロンを外しながら、高さのある椅子に「よいしょ」と腰掛ける。
この子どもは昭の父親だ。今から十年前に交通事故に遭い、ライフステーションで赤ん坊から再スタートした。家族は現在、父親と母親、そして昭の三人で一緒に暮らしている。母の名前は京五十四歳、父は平十歳だ。
ライフステーションでは、再スタートの代金に保険が使える。
事故に遭った場合、加害者に過失があれば、ライフステーションのやり直し金額は加害者が全額負担。その後の人生も、何不自由のない生活が送れるほどの慰謝料が貰えることもある。
ライフステーションが稼働を始めてから、そういった保険が多く出回った。そして全国民にライフステーションカードが配られた。これは所持者の死亡時に、再スタートの意思表示、そして再スタートする際の希望内容を記入・確認できるものだ。
この時にやり直しを希望しない場合は、記憶を消された状態で赤ん坊から再スタートとなる。現在の国に属する多くの機関では、こういった人間を進んで雇っている。
父は記憶を残した状態で、引き続き昭和家で暮らしたいとカードに記していた。
家庭によっては、親子の関係を繰り返しやり直したいと希望しているところもあるようだ。人間が再スタートするようになり、新しい赤ん坊が生まれる数も減った。祖父祖母が赤ん坊になるサイクルが生まれたためであろう。
昭の父親がおもむろにテレビのリモコンに手を伸ばす。一瞬後にモニターに映像が映し出された。スーツを着た子どもたち、数人は中年の男女がステージを囲んだ木の机に座っている。一瞬学校のクラス会かと思ったが、国会中継の様子だった。
内容は全然耳に入ってこない。甲高い声の男の子が難しい言葉を並べて話している。
ライフステーションができる前はあんなに反対していた政治家も、今では高校生ぐらいだろうか。若返った体で日々楽しく過ごしているようだ。記憶を残す選択をした場合、学歴や職歴、もちろん財産も引き継ぐことができる。
「体の調子はどう?」
昭は子どもの姿をした父に体調を尋ねる。昭の父親は、十八歳から働くように会社と契約を交わしていた。
再スタート後、本人の希望次第で学校に行くこともできる。子どものうちから仕事をすることも可能だが、昭の父は家でのんびり過ごす方を選んだ。
「だいぶ良くなったよ。咳も出なくなったしな。今夜は母さんと銭湯に行けそうだ」
「そうか、元気になったみたいだな変態親父」
「変態親父と言うんじゃない。確かにお前と一緒に銭湯に行ったとき、母さんと女風呂に行く私を、汚物を見るような目で見ていたことは重々承知している。だが、父さんは別にこの体に甘んじて私欲を満たしているのではないという事だけは否定しておく。そもそもだな、男という生き物は元来・・・」
昭はこの変態親父の息子であることを残念に思いつつ、ご馳走様と小声で言いキッチンを後にした。
昭は自室に戻り布団を畳んだ。今日は特に予定は無いのだが、家にいても夜までダラダラと過ごしてしまいそうなので、切れかけていた目薬を買いに行こうかと考えた。
着古したジーンズに足を通し、パーカーを羽織る。いつもの持ち出しセット―小銭入れにマネークリップをポケットに放り込み、腕時計を着けて部屋から出る。
昭の父親は洗い物を終え、掃除機をかけていた。洗面所から洗濯機の働く音が聞こえる。
「ちょっと買物に行ってくるよ。親父は欲しいものとかあるか?」
「そうか! それじゃあトイレットペーパーと洗濯用の洗剤を買ってきてもらおうかな。いつも使ってる洗剤だぞ」
「分かったよ、液体がカプセルみたいなのに入ってるピンクのやつだろ」
「頼むよ! 気を付けてな!」
昭は、玄関でうっすらと黄ばんだ白いスニーカーを履き家から出る。昭の父親は、再スタートしてからは、ごく稀に昭のレストランに顔を出すくらいで、ほとんど引きこもり状態だった。家の中が一番安全とも言っていたような気もする。
買物の内容を考慮すると、ドラッグストアに行けば一通り揃いそうだったが、昭は明日もバイトが休みだったことを思い出し、暇をつぶせるものが欲しくなった。
「本屋にでも行くか」
季節は春。遠くに白んだ山を眺めつつ生ぬるい風を肌に感じながら、商店街のほうに足を運んだ。
自動ドアが開き、昭の好きな本屋特有の香りが鼻先をかすめる。
「いらっしゃいませ」
物静かな印象の店員の声を右耳に感じながら音楽雑誌の棚に歩を進める。
ギターを抱えた二十歳くらいの男が表紙の雑誌を手に取る。昭の好きなバンドがまた新しいアルバムを発表したようだ。
ライフステーションが稼働したとき多くの有名人がライフステーションに駆け込んだ。必死に若作りをしていたアイドルも、体が動かなくなったアーティストも、現世では使い切れないほどのお金を蓄えている富豪まで、多くの人間が人生を再スタートさせた。好きなバンドが長く音楽を作ってくれるのは嬉しいが、ベテランが再スタートしてしまったため、新人がデビューするのがとても難しくなった。いろいろな業界でベテランが居座っていて以前より回転率が悪くなっているようだ。
「昭?」
昭が音楽雑誌をぺらぺらとめくっていると女の子の声が聞こえた。
女の子と言っても本当に女の子の声だった。女性はいつまでたっても女の子だとかいう迷信があるそうだが、この時の声は本当に女の子どものそれだった。
「やっぱり昭だ!」
昭は視線をそのまま右に向ける。何も見えない。右に向けた視線をゆっくりと下に下ろしていく。すると、利発そうな女の子が目に入った。
「なんだ、2G馨か」
彼女の名前は明治馨。昭が十五歳の時に再スタートした。彼女も昭の父親同様、事故による再スタートだった。彼女とは物心がつく前から知っていて、いわゆる幼馴染といわれるものだ。好きな飲物は熱くないぬるめのココア、好きな食べ物はほうれん草を使ったキッシュ。得意科目は理科と家庭科、数学は致命的にダメだった。
「ちょっと! その呼び方やめてよ!」
「悪かったよ2G馨」
「いい加減にしないとこのお兄ちゃんがいじめるって大声で叫ぶよ!」
「それは勘弁してください馨さん」
明治馨は現在五歳。彼女と昭は幼い頃からよく一緒に遊んでいた。ライフステーションができてから新しく生まれる子どもが少なくなったこともあり、一世代同士ということもあってかほとんどの時間を共有していた。昭は憶えていないのだが、何を血迷ったか将来を約束したこともあったそうだ。彼女は昭にその話をしてよくからかった。
雨が降るたびに寒くなっていく季節、十五回目の誕生日の朝に、彼女はライフステーションに運ばれていった。そして彼女は現在五歳。
昭はおぼろげな記憶の中にある五歳の時の彼女を思い出す。そっくりそのまま一緒だった。タイムマシンで連れてきたのかと思うほど同じである。声も容姿も、そして昭への想いでさえも明治馨そのものだった。
「今日は買物?」
馨が昭に尋ねる。
「そうだよ。明日もバイトが休みだから暇つぶしに本でも買おうと思って」
「そっか! よかったら明日遊ぼうよ! 久しぶりに昭と動物園に行きたい!」
馨は現在五歳。動物が好きで昭と一緒によく動物園に行っていた。
「いいよ。何時から行こうか?」
「うーん、それじゃあ九時に私の家まで迎えに来てよ! もちろんチャイルドシートの付いた自転車でね!」
チャイルドシートというか、自転車の後ろに乗れる人間の年齢は、法律で六歳未満と決められている。
馨は現在五歳。堂々と自転車の後ろ、それも乗り心地抜群のチャイルドシートに乗ることができる。もちろん、昭の家には乗り心地抜群のヘッドレスト付きチャイルドシートを装備した自転車がある。昭の父親が五歳まで乗っていたのだ。昭が十五歳、父親が五歳、あの時のチャイルドシートに収まった父親の輝く笑顔は、今でも昭の目に焼き付いている。
そして、現在五歳の馨は、このチャイルドシートに収まることを秘かに楽しみにしているようだ。
昭はレジで千円札をマネークリップから外してトレーに乗せる。
慣れればポケットの中で千円だけマネークリップから外すこともできる。
昭の視線の下から、小さな手に掴まれた一冊のコミックスがレジの台に置かれた。昭はしぶしぶ小銭入れから五百円玉を取り出す。
お釣りをもらって自動ドアから外に出る。左耳におとなしそうな女性店員の声を感じつつ、ぬるい風を頬に感じた。
「今のは出世払いだからツケといてね」
ちゃっかりした声を聞きながら昭は「分かったよ」と承諾する。
紙袋から先ほどのコミックスを馨に渡しながら「今から帰り?」と尋ねる。
「そうだけど、昭はどっか行くの?」
「ちょっとドラッグストアに…」
「私も行く!」
昭が言い終わる前に嬉々とした声で答えられ、本を抱えていない方の手を小さな手が握ってきた。
自動ドアが開き独特のツンとした匂いが鼻につく。
「いらっしゃいませー」
気の強そうな女性の声が聞こえる。
「馨は何か買うのか?」
「うーんとねー……グミ! イチゴ味のグミが欲しい!」
「特にこの店に用は無いんだな。それじゃあ僕は自分のを探すから馨はグミを探してこい」
馨は小走りに食料品が目に付く棚に向かっていく。
昭も目的のものを探しに店内をうろつくとする。
馨からイチゴ味のグミとチョコレート、ポテトチップスを受取レジへと向かう。やはりグミだけでは済まなかったようだ。
「ありがとうございましたー」
店員の声を背中に感じつつ自動ドアから外に出る。
「ありがとうね!」
馨が嬉しそうに昭を見る。
「家まで送るよ」
馨の家は近所だった、徒歩五分といったところか。
馨が二世代目になってから昭と馨は疎遠になってしまっていた。現在見た目に年齢差があるのはもちろんだが、二世代目という違いが気になっていたのかもしれない。家族に二世代目がいる昭にとっては、抵抗は少ない問題ではあるが、以前のような感情は持てなくなっていた。持てなくなったと言うよりは消えてしまったと言った方がこの気持ちには当てはまりそうだった。
昭と馨は一軒の家の前まで来て止まった。そこは昭には見慣れた馨の家だった。昭は馨にお菓子を渡しながら「また明日」と小さく言った。
馨は現在五歳。昭の父親と同じで、十八歳までは家でのんびり過ごす方を選択した。
明日は馨と動物園に行く。お菓子を胸に抱え、無邪気な笑顔で手を振る彼女に笑顔を返しながら、昭は自分の帰る方向へ体を向けた。