少し長めのプロローグ
君には、可能性がある。あなたには、神秘性を感じる。
この言葉を信じ、この言葉に騙された人間はきっと、星の数ほど居るのだろう。
そんな〝ワタシ〟は前者もしくは後者、あるいは両方の名の下に、この世に生を受けた。
生みの親さえ知らず、気付いた時には、ワタシはただそこにいた。
別に、苦しくも、悲しくも、寂しくも、怖くもなんとも無かった。
後にワタシは、人間の世界でいう〝神様〟という種族で呼称されていることを知った。
でも彼らとの違いといえば、人智を超えた特別な力と、肉体を持っていること。
ただ、それだけ。
俗世に降りたワタシは、「学校」という共同体に興味を持った。
そこに住まう人間達は夢や希望、すなわち、可能性や神秘性に満ちた存在で溢れていた。
ワタシはそこで人間としての風習を学び、多くの人望を集め、確固たる一つの地位に就いた。
ここでいきなりだが、ワタシ自身にまつわるエピソードを一つ、紹介させてもらう。
円錐型の容器を二つ、一方を上向き、他方を下向きにして、その先端同士を繋ぎ合わせた境目を通り抜け、さらさらとした粒子が垂直に落ちていく道具といえば、砂時計である。
例えば『人の持つ記憶』を、砂時計の中の砂粒一つ一つとしよう。
砂時計をひっくり返せば、砂粒が重力によって、上から下へと流れ落ちていくことは容易に想像できよう。砂粒が全て反対側に流れ落ちれば容器を一八〇度回転させ、重力に再びその身を委ねさせれば、淀みなく、延々と落下し続ける。
ではいったい、誰がこの砂時計を動かしているのか―――それはワタシであり、ワタシだけにしかできない。ワタシが何者であるかさえ、誰にも解る日が来なくともだ。
それでもワタシがこの世に存在する限り、『人の持つ記憶の全て』はこの砂時計と共に、色褪せることなく保たれ続ける。
しかし、ワタシが砂時計を動かし続けていると、ある異常に気が付いた。
砂時計の回転と重力の連動によって、秩序だった動きをしていたはずの砂粒の中に一つ、赤茶色の大きな球体が混じっていたのである。その球体は砂時計の穴を抜けることなく、片方の円錐の中でカラカラと音を立てていた。
それはまるで、その球体が何かワタシに向かって、呼びかけているかのように。
早く、ここから出してほしい。ワタシには、そう聞こえた。
だからワタシは「それ」を出してやった―――この巨大にして、窮屈な容れ物から。砂時計から抜け出すことができた「それ」は瞬く間に人の姿をとり、ワタシにこう話しかけた。
《 初めまして、私はあなたの『妹』。あなたを破滅から救う、唯一の存在 》
《 私、まだ名前が無いの……だからお願い、あなたが私に、名前を付けて欲しい 》
ワタシは、彼女を『エティア』と名付けた。
《 エティア……ね? ありがとう、いい名前を貰ったわ 》
幼き裸体を淡く赤い光で包むエティアは、次に両手を自らの胸の中へと突っ込み、
《 よし、あなたの〝力〟が色濃く残ってる今のうちに……っと! 》
暫くしてから引き抜くと両手には白く光る小さな発光体が出現、それらを彼女が宙へ放ると、瞬く間に二種類の人型のシルエットを形成し、ワタシの目の前に、少年と少女が現れたのだ。
《 この肉体、この魂、いつ何時も『御主人』と共に 》
漆黒の長衣を纏った少年が、エティアに片膝を突く。
《 『ご主人』の健やかなる御成長を、この私と共に 》
薄絹の白衣を纏った少女が、エティアに片膝を突く。
《 それじゃお前達、これから私が作る住処に移って貰うわよ 》
二人は頭を垂れ、再び白き球体となって、彼女の両手に吸い込まれていった。
《 それじゃまたいつか、どこかで会いましょう 》
彼女の肉体は細かな粒子となり、突風に運ばれる砂塵の如く、目の前から忽然と消失した。
これが、今からほんの一年前の話。
これより後に続くのは彼女と、とある地球人の兄妹と、不思議な力『スパイラ』を持つ『ベリタス人』の織りなす、地球と『ポス・ベリタス』を巡る物語の、始まりの一端。
そんなワタシは、物語の始まりと終わりを提供するに過ぎない、ただの〝神様〟。
あるいは、傍観者。
あるいは、裁定者。
暗い、冷たい。
見えない、聞こえない。
解からない、覚えがない。
何処だここは?
自分の部屋か、世界の果てか?
誰か、誰でもいいから、教えてくれ!
そう思ったのも刹那か永遠か、突如頭の中で強烈な電流が迸ったかのような、激痛。
しかしその苦しみは、後の安堵のための苦しみだったのだ。
今はもう、苦しくない、あっという間に視覚も、聴覚も取り戻した。
視覚より得た情報からは、曙前の如き仄暗さ。周囲を不細工な岩々で囲まれた、赤茶けた荒野。聴覚からは、ただ耳元を冷たく執拗に撫でる、乾いた空気の流れ。
「さみっ!」
辺りはすこぶる寒かった。長袖の恰好とはいえ着ているシャツの生地は薄いので、体感温度は氷点下並みといったところだろうか。両手の感覚は、既にほとんど消えている。ポケットにはいつもの携帯電話と、あと何かもう一つあった気がするが……神経が遮断されたも同然の両手では確かめようがない。
体内の熱を逃がすまいと体育座りの如く体を縮こませながらも、両目だけはしきりにうろちょろさせる。しかし、目ぼしい物は何も無い。
「うううぅ……んっ?」
そこでふと地べたに視線を落とすと、何か短いメッセージが書いてある。
幸運なことに、日本語の次に馴染みの深い、英語だった。
『You have no choice―――Go to Bigalo.』
(お前に選択の余地はない。『ビガロ』へ向かえ……?)
聞き慣れぬ地名だ。英語で「超巨大都市」を表す『bigalopolis』が由来なのだろうか。
そもそも、こんな荒れ果てた地に、都市なんかあるのか? いや、問題はそんなチンケなことじゃない。自分のいる場所が特定できる、何かを見つけなくては。
ここで地べたのメッセージを、もう一度見直してみる。すると右横には矢印が一つ―――ビガロのある方角でも指し示しているのだろうか。矢印の示す先には、最近運動不足の自分にでも何とか登れそうな岩場があった。
距離にして約四〇メートル、推定標高は十五メートル。早速そこに向かって登ってみた。
「いよっ、ほっ、はっ……っと」
思った以上にスイスイいける。寒さでかじかんていた両手も、いつしか生暖かい感覚を取り戻していた。次にどの場所に手を置くべきかが、手に取るように分かる。
体感時間で四分程だろうか、岩場の天辺に両手を掛け、腕全体へと神経を行き渡らせ、重力に負けじと身体全体を頂上へと引き揚げる。
頂上に辿り着いたはいいが、次にするべき予定が未定であった。
そこで、とりあえずしばらく寝転がり、息を整えることにした。
「はあっ、はあ……ふひゅーっ!」
よし、息遣いも元通りになった。その弾みで体を半身起こした途端、前触れ一切なしに、
「うわっ⁉」
暗闇が、白く爆発した。
眼前から強烈な閃光が我が身に襲いかかり、咄嗟に両腕で両目を庇ったがすでに遅かった。閃光は閉じ切っていない眼球に鋭く突き刺さり、過剰な量の光が虹彩の調節機能を麻痺させ、自分は暫くの間立ち上がることもままならなかった。
ようやく視界に暗がりが戻ってきた時、状況は一変していた。眼下には、高層建築物が闇夜に抗うが如く、極彩色の光を発しながら群生している、京都の平城京を彷彿とさせる方形の大都市が広がっていたのだった。これはすごい。東京の都心に集約した建築技術でも、こんなに絢爛豪華な空間を構築するのは、建設国債をいくら注ぎこんでも困難だろう。
しかし今、自分の眼前に展開する幾つもの摩天楼と彩光の大パノラマの一方で、後ろを振り返れば一寸先は―――闇。いったいこの世界はどうなっているんだ。
まさかこれが、『ビガロ』なのか。
『ビガロ』と思しき大都市の光景に対し、我が身を支える両足が竦むほどの恐怖そっくりの感激があった訳だが、じっとしていては身も心も凍ってしまう。岩場を下り降りて早速、入口の一角と思しき、象牙色をした雑居ビルの群れへと侵入してみた。
いざ来て見ると、華々しい都市の景観とは裏腹に路地はえらく静かだ。人影一つ見当たらない。片足を前に出す度に靴底と路面が接し合い、打音と摩擦音になって返ってくる。
ビガロの路地は、曲りくねった箇所が一つも無かった。
強いて言えば、岩場で俯瞰した時に真っ先に目に飛び込んだ、都市中央に聳え立つ、円柱を縦にバックリ二等分したような墨染めの摩天楼(断面には分離した建物同士を繋ぐパイプ型の通路が上下に等間隔で並んでいる)の周囲に、その円周にそって環状の道路が敷かれているくらいか。
ここでふと目に入った、周囲より一段大きな建物の看板に目をやると、文字が書いてある。
その看板は漆黒の長方形状で、眩い金色に彫刻された文字が、堂々と輝いていた。
『ポス・ベリタス第七魔粒子研究所』―――なんと、日本語ではないか。
やはりここは日本なのか? だとすれば、『ポス・ベリタス』は企業名か?
いや待て、その後の『魔粒子』とは何だ? 「素粒子」なら非常に馴染み深い単語なのだが。
ああだめだ、ついつい余計な探りが入って、解決すべき問題から遠ざかってしまっている。
ここでいつもの習慣として、深呼吸を一つ。気持ちを一旦改めた。
が、それも束の間。
研究所の入口と思しきガラス張りの大きな扉が自動で開き、中から人が二人、現れた。自分は思わず、建物の陰に身を隠してやり過ごす。
「ポス・ベリタス第七魔粒子研究所魔粒子機器開発室長就任おめでとさん、シラード君! いやぁもう、俺も鼻が高いってもんよ!」
「その肩書きは余計だ。そもそもよくそんな長い肩書きをすらすらと言えるもんだな、ポス・ベリタス第七魔粒子研究所魔粒子機器開発副室長兼魔粒子機器販売会社代表取締役のエミオさんよ」
「はっはっは! 俺と張り合ってるのか? 相変わらずお前は面白いよなあ、これでこそ毎日退屈しなくて済むってもんだ」
『シラード』と呼ばれたその者は、ショートウルフの金髪とシャープフレームのメガネをかけた痩身の白人男。一方の『エミオ』と呼ばれた者は、角刈りカットの筋肉質でがっちりした浅黒い肌の男。二人に共通している事柄は第一に、科学者のトレードマークともいえる白衣を着用していること。第二に、日本語を喋っていることだ。
後者は自分との唯一の共通点とは言え、彼らに見つかる事への恐怖には抗えないので、今は大人しく息を潜め、この場に留まることを選択した。
同時に、不動の自分の背後で何かの衣擦れの音と、靴を鳴らす足音がしたのを察知した。
しかし後ろを振り返っても、そこには誰もいなかった。
先ほどの二人は第七魔粒子研究所を後にして、ふと立ち止まる。
「……なあ、なんか嗅ぎ慣れない匂い、しないか?」
シラードにそう言われ、エミオは平たい鼻をひくつかせる。
「んー、何も匂わんぞ? そうだっ、そういう時は……これさー♪」
エミオはそう言って懐から、一辺が十センチメートル程のサイコロ状の物体を取り出した。
その〝サイコロ〟は黒光りしていて、面と面の隙間から鋭く、赤い光を覗かせていた。
「お前、またそんなくだらん玩具を……研究所の予算の事も少しは考えろよな」
「まあまあ、そんな固いコト言わずに、黙って見てろってぇ」
エミオが掌の上の〝サイコロ〟に、もう一方の手を被せる。
すると、およそ一秒後に〝サイコロ〟が青く光り輝き出し―――
「おはようございマス、マスター。ご用件は何でございマスか?」
「うお、しゃべった⁉ しゃべったぞ、コイツ!」
「ははは、そういえばお前にはまだ見せてなかったっけな。これが俺の『スパイラ』、人呼んで『エニスク』さ。一度いじったことのある機械に、言語能力と命令処理能力を付加することが出来る……それじゃ、この近くに不審者がいたら、迷わず警報してくれ」
「了解しまシタ、マスター。是非とも我が能力にご期待くだサイ」
〝サイコロ〟は甲高いダミ声で了承し、彼の掌の上から一メートル程浮くと、救急車の警報ランプの如く、二束の青い光をグルグルと回転させ始めた。
シラードとエミオの二人もサイコロに続き、彼らのいる周辺を隅々まで探索し始めた。
しかし懸命になっても、人ひとり見つからない。
だが二人がしばらく歩き回っていると、エミオの左足が地面に落ちている何かに当たった。
「ん、これはケータイ? 見たことない機種だなあ」
「もしかしたら、不審者のモノじゃないか? それにしちゃあ、俺たちが使ってるのと大した違いはなさそうだが……どれ、見せてみろ」
二人は落ちていた携帯電話の物色を始め出した。それが自分の所有物だと気付いたのは、二人の行動を目の当りにしてから十数秒後の事だった。
―――でもどうしてだ? 激しく動き回った訳でもないのに、どうして俺のケータイがあんな場所に落ちているんだ?
自分の手足は、結論を出す前にもう、動いていた。
ところが最初の一歩を踏み出した途端、
「警報警報! 半径十五ヤード以内に、不審者の熱源反応アリ!」
あの〝サイコロ〟に、変化が起こった。
先程まで青かった光が黄色に変色、次に、消防車のサイレンのような警報音を発したのだ。
その直後、魔粒子研究所を中心として、周囲の建物が一斉に灯りを消し去った。
自分は即座に状況を理解、暗闇の中を右も左も分からぬままその場から一目散に、ビルの谷間を吹き抜ける突風の如く駆け出した。辺りは真っ暗闇、最後に目を覚ました時と状況は同じだ。しかし今は、あの時と同じように悠長に事を考えている時間はない。
(とにかく走れ、走るんだっ! 恐れなんて、汗と一緒に拭い去るんだっ!)
激しく手足を動かしているうちに気分は高揚し、恐怖は脳内麻薬で掻き消されていった。
だが暗闇は侵入者に対して、情け容赦などしてくれなかった。
走っている最中の自分の手足は、遥か上空の見えざる手から垂れ落ちる糸に繋がれたマリオネットの如く、神経が手先足先の末端まで通わずに、誰かに操られていくようだった。
逃げたい方向に逃げようとしても手足に縫い付けられた糸の一本一本に引き寄せられ、元の居場所に連れ戻されていく―――それに合わせ、スタミナも徐々に尽きていく。
そして呆気なく、走力はゼロとなった。
両手を膝につき、肩で息をした状態から呼吸を整えていると、次第に両目には光が戻り、ぼやけた視界の先にはあの、『第七魔粒子研究所』の看板が映っていた。
どういうことだ、暗がりの中で、一体何が起きていたのだ?
その疑問は、自ら答えを探す暇無く解決された―――例の二人に見つかることで。
「おいっす、一人マラソンご苦労さん。それから後ろの二人も、ご苦労さんっ」
走り疲れて脾臓がひどく痛み出している状態から、その場から顔だけを後ろへ向けると、警察官らしき衣服に身を包んだ、二十歳前後の若い女二人が、立っていた。
「これくらい、お安い御用ですっ」
自分から見て右側に立っている女は、コバルトブルーのショートボブをしている。
「何のこれしき、朝飯前ですっ」
自分から見て左側に立っている女は、ダークレッドのポニーテールをしている。
「それじゃまた、何か困ったときに頼むよ。えーとぉ……」
「シニストですっ!」
コバルトブルーが答え、敬礼する。
「ジュストですっ!」
ダークレッドが後続し、敬礼する。
二人は返事をするなり、光届かぬ路地裏の闇夜へと、消えていった。
「ダメだ~! いつまで経ってもあの子らの名前を覚えられないし、間違えちまう!」
エミオがその大きな両手で、自身に喝を入れるように、頬をバシバシと叩く。
「お前、アイツらに脳の中でも弄られてんじゃないのか?」
シラードは横目がちにエミオを見、極端で大雑把な突っ込みを入れる。
「……ま、それはともかく、だ」
シラードは自分の方に視線を変えながら、続ける。
「姿形はどう見ても人間だが……こいつホントに、俺たちと同じ『ベリタス』の人間か?」
嗚呼、やはりここは地球ではないのだな。どう足掻こうが救いは無い、いよいよ我が人生も終わりが見えてきたのか、もはや悲観的な考えしか頭に浮かばなかった。
そんな彼らの眼には、自分の眼差しが怯えているように映ったのか。
それとも、絶望の色に染まって見えたのか。
声を上げぬまま、敵意を剥き出しにしているように受け取られたのか。
やはり、命乞いを求めているように認知されたのか。
頭の中を思考に次ぐ思考で埋め尽くし、自身を落ち着かせようとするうちに、彼らの確認作業は始まり、進んでいった。
「あいつが『ベリタス』の人間かどうかは、アレをする以外に無いだろ? ……どれ、少しばかり額を見せてくれよ」
(額? この惑星の人間は、額に何か証明する物でもあるのか。マイクロチップの類か?)
エミオとか言うやつはそう言いながら、無抵抗のまま立ち尽くしている自分の額に手をかざしてきた。すると彼の掌が突如、山吹色に輝きだした。思わず後ろに仰け反って、そのごつごつした手を払いのけようとしたが、その必要は無かった。
なぜかその山吹色の光は、眩しさを感じなかった。むしろ直視すらできた。自分の所属する研究室の教授だったら、目を真ん丸にして喰らいついていたことだろう。
エミオは目を細めながら、俺の額に視線を熱く焼き付けていく。彼の掌から光が消えるまで、体感時間で六秒程。確認作業は終了したようだ。
「うーん……何もなし、と。はいっ、異星人確定だな」
暑苦しい外見とは裏腹に、事実をありのまま、冷静に受け入れるエミオ。
「なっ、馬鹿な⁉ マスティカはまだ、ベリタスから地球への一方通行しか出来ない筈だそ!」
澄ました外見とは裏腹に、事実を突っぱねて、頑なに否定するシラード。
「どうなっているも何も、現に目の前で起きていることは紛れもない事実だよ、シラード。もう覆せやしないさ……さて。今から君は、我らが第七研究所の『ゲスト』だ。丁重に扱うことを保証するよ……では、一緒に付いて来てくれたまえ」
もうすでに何も反抗する気が起こらなかった俺は黙って二人の後についていき、『ゲスト』として『ポス・ベリタス第七魔粒子研究所』へと歓迎されることになった。
この時、俺は再び背後で人気を感じ、その気配は何故か、研究所内へと向かっていった。さらにその正体不明の違和感は、研究所の照光が弱まる出入口で、僅かな綻びを見せた。出現から消失まで一秒と経たなかったが、我が瞼の裏にはその像が、しっかりと焼き付いたていた。
(女の、子?)
彼らに『ゲスト』として招待された『ポス・ベリタス第七魔粒子研究所』は、なんと地下にあった。研究所の直上に建設されている高層ビルは、ここの研究員用のマンションなのか。ビルの標高は、六本木ヒルズと同じくらいに思えた。
だがそれよりも度胆を抜かれたのは言うまでもなく、研究所内部のデザインだ。言葉だけで上手く伝えられる自身がないのだが、自分なりに実況してみるとこうだ。
まず研究所の入り口をくぐると真っ先に目に入るのは、漆黒の極太な円柱だ。その円柱はロビー中央の床から天井を貫いて金属光沢を放ち、その無機質な輝きは研究所外部の色彩豊かなライトアップと比べれば、非常に対照的だ。例えるならば、原子炉の燃料棒に入っている燃料ペレットを形状そのままに何百倍にも拡大し、ニスを塗りたくったようなものである。そのペレットの表面には幾つものエレベーターらしき扉が等間隔でずらりと並んでいる。
この手の建築方法は日本の高層ビルにも採用されていたような、いなかったような。
「なっ、なっ? スゲーだろ~?」
「うるっさい、あんまりはしゃぐな! ……暑苦しいったらありゃしない」
ここまで来たらもう、どうにでもなれ。
そう割り切った自分は思い切って二人に、躊躇していた身の上話を切り出した。
すると意外や意外、二人は興味津々に自分の話を、しかも親身になって聞いてくれたのである。おかげで二人とは、割とすぐに打ち解けることが出来た。
ついでに、ドロップアイテムの携帯電話も返してもらった。
彼らに連れて来られた自分はエレベーターの一つに乗せられ、下の階へ動き出す時の、あの内臓がふわりとする感覚と共に、建物の下へ下へと等速度で落下していった。
下降が終了したエレベーターを降りるとすぐ、ドーム状の空間の壁面におびただしい数のドアが、ドームの上部から下部にかけて何重もの層を作り、円周上に並んで待ち構えていた。それは見事なシンメトリーの造りであった。視線を元に戻すと、エミオ達と同様の白衣を着た人間が、そこかしこに存在していた。ここの研究所の研究員で間違いないだろう。
そして、研究員と見られる大多数の人間が、動力不明の謎の円盤に乗って目的地のドアまでひとっ飛びで移動していた。この惑星の科学技術はおそらく、現在の二十一世紀の地球が会得し得るそれらの最終形態の一つと言っても過言ではない、と内心思ってしまったほどである。
しかし酔いしれている場合ではなかった。何やら前方で、怪しげな寸劇が展開している。
白髪だらけの老人が、程よく伸びたあごひげを撫でながら皺ばかりの両目を細め、若さ溢れる女性研究員に言い寄る、ドラマでは良く登場するシチュエーションだ。
自分にとってはこんな光景、リアルで目撃するのは初めてだった。
「しょ、所長……話って何ですかぁ?」
緑のおかっぱが似合う若い女が困った顔をして、老人と対面する。
「君がこの前提出してくれた、魔粒子の人体への作用についての論文なんだがー、あれはとっ~ても興味深い! 何せまだまだ発展途上の分野だからね~ぇ、うーん」
老人は女の半径三十センチ程の周囲を、腕を後ろに組みつつノソノソと歩き回りつつ、皺くちゃの皮膚で囲まれた眼球の奥から疼く、欲望の光をぎらつかせていた。
「そっ、そうですか。ご興味を持たれたのなら、なっ、何よりです……」
女の顔には見るでもなく、『誰か助けて』というSOSサインが、浮かび上がっていた。
「ぬーふっふっ……君は確か、ナウラ君ン所の新米君なのだろ~ぅ? どうだい? 彼女となんかより、このワタシと一緒に「共同」で、研究をやってみないかね? も~ちろん、研究予算は私の方で工面してあげるからさ~ぁ?」
などど言いながら、老人のしわがれた片手は女の下半身へと伸びていった。
「……! しょ、所長⁉」
「怖がらなくても大丈夫だよ~ぉ? 研究が成功すれば、君専用のポストも用意してあげるからね~ぇ、ひょおーっひょっひょっ」
(おいいいッ! 何やってんだあのジジイっ! そしてアンタも何故抵抗しないッ!)
目の前で繰り広げられている光景こそ、パワハラとセクハラを綯い交ぜにした、婦女のプライベートエリアに土足で踏み入る一人の、いや、一匹の老獣の醜悪な蛮行そのものであった。
エミオとシラードの二人も当の目的を忘れ、眼前の犯行現場に目を釘付けにしていた。
「や、やめて、くだ、さ……」
と、その時!
「―――所長、こんなところで一体、何をなさっているのですか?」
研究所の暗がりから現れたのは、一人の女性だった。
三〇代前半くらいで、マリンブルーの瞳に、腰まで届く浅紫色の綺麗なストレート、紺色のドレススーツに白衣を纏った、線の細い女性だ。
「お、おやっ、噂をすれば君は……ナウラ君ではないか!」
「私のかわいい教え子を口説くなんて……所長もまだまだお若いのですね」
老人から「ナウラ」と呼ばれたその女性は、パンプスのカツンカツンという軽快な足音と共に、すらりと伸びた長い脚を軽く交差させながら老人の元へと一直線に近づいていく。
「いやいやぁ、勘違いされてもらっては困るなーぁ。私はこの娘と共同研究をしたくて話を持ち掛けて来たわけであってだね~ぇ」
そう口にする老人の視線は明後日の方向を向いている。何とも男性脳らしい嘘の付き方だ。
「なるほど ……では、その手は何です?」
ナウラが老人の左手を指差す。その手は未だ、若い女のスカートの裾をつまんでいた。
「ほよっ⁉ こ、これはだねぇ、んあ~……そうっ、この娘のスカートの端がほつれていたから、これ以上酷くならんようにそーっと抑えていてあげたのだよぉ! いやぁ勘違いも甚だしいぞー、ナウラくぅん?」
老人はあくまでも罪を認めまいと、文字通りにそこから引き下がろうとしない。
ナウラは老人の度し難さに呆れ返ったように、額を押さえて微かな溜め息を一つ。
「……分かりました。なら、このようにすれば離れてくださいますよね?」
続けて、老人にもう一歩近寄り、彼の額に細くしなやかな人差し指を近づける。
「んうっ?」
すると次の瞬間―――ブオンッ、という短く鋭い音と共に、その人差し指の先から原理不明の突風が吹き起こった。それを至近距離でまともに食らった老人は、
「ひょわ~っ! かかっ、カツラがぁ~~~っ!」
と叫びながら、風に舞い飛ぶかつらを必死になって追いかけていった。その隙に若い女性研究員はナウラに両手を合わせ、頭を下げて礼を示し、トテトテと別のドアから逃げていった。暫くすると、かつらを被りなおした老人が、ナウラの元へ戻って来て、
「なっ何をするんだねナウラ君! 研究所内での『スパイラ』の使用は厳禁であろうがっ!」
頭に湯気を立ち昇らせながら、ナウラに剣呑みを食らわした。
「あら所長、ご存じないのですか? これはれっきとした正当防衛ですよ?」
ナウラはしかし全く臆せず、腰に両手を当て、自信満々に反論する。
「目撃者が私だけで幸運でしたね。もし私の同僚か他の研究員だったら、おそらくは……」
彼女は右掌を上に向けて前方へゆっくり伸ばしていくと、すかさず勢いよく握り締め、
(バシュン!)
という爆裂音と共に、彼女の目の前で小規模の爆風が巻き起こり、被り直された老人のかつらを半分ほど、後退させた。
「――――――カツラだけじゃ、済まなくなりますよ?」
ナウラは右手を握りしめたまま、生暖かい笑顔を老人に贈って、そう締めた。
「ひゃ、ひゃい……」
老人は先の爆風により腰を抜かしたまま、彼女の「優しき忠告」に怯えきり、失神した。
そして、ナウラは事も無げに左腕の腕時計をチラ、と見て、
「おっといけない、もうこんな時間。第一研究所に急いで戻らなくっちゃ!」
と言いながら、自分たちのいる方向へ早足で向かってきた。その際、
「あら、二人とも。貴方達も見ていたの」
と、先程と変わらぬ優雅さで二人に話しかけ、二人も右手を掲げて返事をした。
さらに、二人の後ろで隠れるようにしていた自分に対しては、右目でパチリと茶目っ気のあるウインクでアピールをし、扉の向こうへ去って行った。それを受けた自分もその際、
(俺……別に、年上は守備範囲じゃないんだけどなあ)
などと、誰も望んでやしない感想を、心の中で呟いていたのだった。
「……ほぉほぉー、君が噂の異星人か。なるほど、確かに外見だけじゃ我らが同胞に見えなくもないな……名前くらいは、あるのだろう?」
アンティークの家具でも鑑賞するような目つきで、先程の一件から伸びていた老人は、エミオとシラード両人の助けを借りて何とか身を起こし、今はこの通りピンピンとしていた。
件のやり取りを目にしていた自分は、眼前の老人がもはや全く普通の年寄りにしか映っていなかった。それでも名前を聞かれた自分は、素直に本名を口にする。
「天崎……会人です」
ふむふむ、という呟きでも聞こえてきそうな表情で、老人は話を展開させる。
「アマサキ・アイト君、だね? 「苗字」まで名乗るということは、君は間違いなく地球から来た人間なんだろうねぇ……っと、申し遅れた! 私の名前はイムレフという。君の居るここは『ポス・ベリタス魔粒子研究所』といってなぁ、私はこの第七研究所の所長をやっている。我々研究員はポス・ベリタスの大気中に溢れる『魔粒子』の謎を隅から隅まで解明しようと、日夜奮闘しているのだよ。そもそも魔粒子というのはだね~ぇ、このポス・ベリタスを繁栄させ得るであろう素晴らしきポテンシャルを秘めていてな、あーそれでいてぇ……」
―――はぁ、ホントにどこにでもいる面倒な爺さんだな。「えらい」人のスピーチはこういうのばかりだから、頭が痛くなる。
今自分に魔粒子の何たるやを学者よろしくまくし立てているイムレフという老人は、なかなか話を切り上げてくれない。将来、研究者志望の自分としてはこういう未知の事物に対する興味が湧かないでもないのだが、今は脳内に次々と舞い込んでくる情報の処理に絶えず追われまくっているのが現状だ。イムレフの傍に並んで立っていたシラードは踵を上げずに、右足の爪先を貧乏ゆすりの如く、何度も床にコツコツと打ち付けていた。
流石に、もとい、良い加減に彼のイライラを音として感知したイムレフはようやく酔いから醒めたのか、ウオッホンと大げさな咳払いをした後、再び自分と向き合る。
「えぇ~取り乱してすまんねぇ。君は私達ベリタス人にとっての大ぃ事な、大ぃ事なお客様、『ゲスト』なんだ、ポス・ベリタスまで遠路はるばるやって来た君を、のっけから苦しませるつもりは毛頭ないから安心したまえよ~ぉ?」
言う老人の両目はおぞましく煌めき、年季の入った両手の指は、不快に蠢いていた。
(毛頭って……アンタが言っても、説得力の欠片なんて毛程もねぇだろがよ)
なるほど、ベリタス人という人種は、そのあまりにも強すぎる知的好奇心のせいで、本来人間に備わっているはずの倫理観が、根本的に欠如してしまっているのか。
特にこの、イムレフとかいう奴はそれが一番分かりやすい。反面、シラードとエミオの二人は、その内面はまだまだ分からないが、少なくともこの老いぼれよりはマシだろう。
それにひきかえこの老人は―――やっぱりダメだ。これがいわゆる〝マッド・サイエンティスト〟という人種なのか。こんな間近で見られるとはもはや光栄だ。きっと間もない内に、自分はこの老人の記念すべき『地球産モルモット被験体第一号』となるのだから。
と思いきや、そんな悲壮感を募らせる必要もなかった。
「所長、彼はまだこのポス・ベリタスに迷い込んで幾何もありません。ここは少し、彼の意見を尊重してもよろしいのでは?」
口を開いたのは、先程から閉口気味のシラードだった。
「私も右に同じです。異論はありません」
シラードの後に、エミオが続く。
「む~ぅ、ワタシとしては彼を目の届く場所に置いといて、ドぉキドキ、ワぁクワクしていたいのだがねぇ……ダメかい?」
(おいおい、俺は仮にも『ゲスト』なんですけど?)
そんなことを、心の中で呟かざるを得なかった。とにかく、若い二人の助言で何とか命拾いすることが出来そうだ。自分はこの好機を逃すまいと、不眠不休の頭で、あれやこれやと画策し始めた。
この研究所を抜け出すために時間を稼いで、なおかつできる限りの情報を集めるにはどうしたらいいか―――そうだ、とても簡単な方法があった!
「ゴホン……ええと、イムレフ所長。失礼ながら彼らの助言に則りまして、私自身から要望が一つあるのですがね、それがぁ―――ごにょごにょ」
イムレフに耳打ちしたその要望は、あっさり通ってしまった。
「随分とシンプルな提案だったよなあ、思わず拍子抜けしちまったよ」
「シンプルとは失礼だな。これでも頭を捻り回して考えた、ベストアンサーだったんだぞ?」
今、研究所内のとある通路を歩いているのは、ベリタス人のエミオとシラード、地球人である自分の三人である。イムレフの実験台の予定であった自分は、いかにして猶予を得たのか。
それについてはシラードが再度、言及してきた。
「俺もびっくりしたよ。なんせ『異星人代表として魔粒子のサンプルを持ち帰りたい』だもんな。無茶だと思ったのに、なんであの所長はオーケーなんか出したのやら……でもあの爺さんは粘着質だからな、自分の身くらいはしっかり守っておくに越したことはないぞ?」
「そんなこと、百も千も承知だよ。まずは『ゲスト』としての立場を利用するとして、研究所の色んな施設やら研究内容やらを見学させてもらうことにするよ、いいだろ?」
返答してきたのは、エミオだった。
「いいですとも、いいですとも! 所長の許可が降りてたってそうでなくたって、アイトならいつだって大歓迎さ。さあさあ、お客様一名ご案内~♪」
「おいおい……ほどほどにしてくれよ?」
威勢のいいエミオに対して、シラードは、そこはかとなく不安げな様子であった。
「―――ここが俺の研究室さ。どうだい? 面白そうな機械がたくさんあるだろう? これ、ぜーんぶ俺一人で開発したんだぜ~?」
「あぁ、こりゃあすげえや……何からコメントしたらいいのか、さっぱりだよ」
勝手に案内役を仕切ってから終始ハイテンションの状態が続くエミオは、いよいよ彼自身の研究室を自分に紹介することになった。
その内部を一言でいうと―――家電量販店であった。室内はスパコンのような巨大な鉄の箱から、豆つぶほどの大きさしかない謎の機械までが、所狭しと置かれていた。
エミオは自分に発明品を次から次へと、通販番組の実演者のごとく披露して見せた。
印象に残った物を挙げれば、ガラス質の物体に入れられた砂状の物体と金属の枠が同調して光る球体、直径およそ一メートルの円盤の上に物を置くとパッと消えて、離れたところにあったもう一つの円盤からパッと現れる転送装置。さらに、残量が少なくなると勝手に電力が供給される、永久機関のようなカプセル状の錠剤程度の大きさしかない電池等々。
これ程までに常識を超えた機械製品が作り出せるのも、『魔粒子』に因るところが大きいからなのか。そもそも魔粒子とは一体何なのか、いよいよ興味が湧いてきた。先程イムレフに告げた、希望通りの行動をしてみたくもなってきた。が―――
「はいはいそこまでー。こんなところにゲストを長居させるわけにもいかんだろう?」
シラードが、それを制止させた。
「え、もう終わりか? まだまだ見せたい発明品がたっくさんあるってのにさぁ」
「文句は聞き入れん、次行くぞ!」
シラードは啖呵を切ってスタスタと、軽快な足音と共に研究室を出ていった。
「いやはや悪いねえ、あいつ昔っから気が短い上に気難しいやつでね。許してやって?」
「まあ、別にワザとじゃないだろうし、自分もまったく気にしてないよ」
「おぉそうか、それなら安心したよ。んじゃ次、行ってみようか~♪」
改めて思ったが、この二人は恐ろしく正反対なキャラだな。むしろ真逆の性格だからこそ上手く噛み合うのかもしれないが。確か、日本の某刑事ドラマでも彼らと同じくらい性格が正反対のコンビが主役の作品があったような気がするが―――まぁ、いいとしよう。
「おい二人とも、いつまでゴタゴタやってんだ? 置いてくぞ!」
エミオの言う通り、シラードは確かに、催促の言葉に事欠かない男であった。
「悪い、今すぐそっちに行く!」
自分は潔く返事をし、彼の要望に応えるべく足跡を追って行った。
「ようこそ、我が研究室へ。エミオの所と比べればかなり殺風景に見えるだろうが、居心地はいいと思うぞ?」
続いて俺は同階の、エミオの研究室と正反対の(円卓を挟んでちょうど向こう側にあるような)位置にあるシラードの研究室の内部へとお邪魔することになった。
彼の言う通り、研究室内は非常にスッキリとして落ち着いていた。
床面は清潔感抜群の白一色で、壁沿いには監視カメラのモニターのような液晶画面と何らかの機械の入力装置が疎らにあるだけで、最も注目すべきなのも、研究室の中央にある謎の巨大なフラフープ状の機械が屹立しているくらいしかない程だった。
良く言えば整理整頓されている、悪く言えば無機質で味気が無い、と評価すべきか。
「うん。さっきとは打って変わって、開放感が半端ないよ」
しかし自分はあくまでニュートラルな意見を、シラードに返してやった。
「しっかし変わり映えしないもんだなぁ……少しは俺のトコみたく、着飾ったらどうよ?」
エミオが愚痴のように、シラードに向かって意見する。
「お前のは参考にならん。あれは下手すりゃゴミ屋敷だろ」
やれやれという具合に、エミオはシラードの減らず口に両肩を竦め、溜め息をつく。
一方の自分は例の、研究室中央の巨大な装置について、いよいよシラードに尋ねる。
「なぁシラード、あの輪っかみたいな機械は一体、何に使うんだ?」
而してシラードの両目は細まり、嬉々とした表情が、彼の細作りな面に表れる。
「やはり気になるかぁ? ならゲストとしてのお前に、特別に見せてやろう」
そして徐に、手近にあった操作パネルのスイッチをピッポッパ、と手際良く押していく。
直後、開けた研究室の中央の台座に設置されていた直径五メートル程の、巨大なフラフープ状の装置が作動し、輪の内側が、白い光の渦を巻き始めた。
「こ、これは⁉」
「ふふん、驚かずにはいられまい。こいつはな、俺が魔粒子物理学の知識を総動員して作り上げた、空間指向性物質転送装置、通称『マスティカ』の試作一号機さ」
満面のしたり顔で、シラードは説明する。
マスティカは彼の横で、外耳までもを震わせる高密度の重低音を響かせていた。
(ん? この音、この渦巻きの模様、どこかで……)
そしてどうしてか、自分は目の前の光景に、激烈な既視感を覚えた。
《 これが……『ポス・ベリタス』への入口…… 》
《 ああ。その先に待つのは夢でも幻でもない、神秘なるもう一つの現実だ 》
誰かと出会い、導かれ、その先へ進むことを決めた、ごく最近の出来事。
じわりじわりと、その記憶の輪郭が、頭の奥深くで蘇っていく。
「そう、だ……俺は『マスティカ』を見たことが……ある」
「っ何だと⁉」
シラードの表情は一変、眼鏡の奥の得意げな目つきが、カッと見開いた。
「……ということはお前、この試作機の実験台とコンタクトしたってことか⁉」
同時に何かを閃いたらしい彼は、身も蓋もない言い方で聞いてくる。
「実験台ってのは知らないけど、確かに〝そいつ〟には出逢った。じゃなきゃ、俺は今こうして、未知との遭遇を経験できていないワケだからな」
記憶と勘を頼りに、シラードへ返答する。
割と神経質で心配性な俺は、ここでふとした疑念に駆られた。
彼の言う〝実験台〟とは、正規の手順を踏んだ、公的に選ばれし者なのかどうかを。
「じゃあ、俺が出逢った実験台ってのは……ここの研究員だったのか?」
まさかとは思いつつ、当然の答えを期待して彼へ質問したのだが、
「いや、市民の中から抽選で選ばれた一般人だ。年は確か……十七か十八だったかな? 今からざっと一年前にビガロの住民登録を済ませたばかりっていう、不思議な奴だったよ」
期待は、あっさり裏切られた。
シラードは特別な感情を抱く訳でもなく、相も変わらぬ淡々としたしゃべり方で、俺に冷酷すぎる事実を告げた。その事実を聞いて自分の中で驚愕が生まれ、やがて疑心を経て苛立ちへと変化していった。
「……何だ、それ」
反射的に口から出た言葉は、静寂の中で不意に大声を出す時よりも周囲の空気を激しく、より長い間震わせていた。だがそれは、目の前のベリタス人には届かない。
「何って……俺、可笑しなことでも言ったか?」
しれっとした態度で、シラードはその涼しげな形相を崩さない。
答え次第では地球上の全ての火山が爆発し兼ねない質問に、彼はまるで噴火を予期していたかのように遥か上空の航空機からそれらを見下ろし、何食わぬ表情を浮かべていたのだ。
一地球人として、許しがたい事実を聞き入れた一人の人間として、俺は激昂した。
血の滲む程に拳を握りしめ、爪牙を剥き出しにした猛獣の如く、咆えた。
「この恥知らずがっ! お前も結局は、あのジジイと一緒かよッ⁉」
地球の天変地異は、シラードを乗せた航空機に容赦なく襲いかかった。
「な、何なんだよ。落ち着け、落ち着けってば!」
シラードは慌てふためき、航空機内で落ち着きを取り戻そうと試みた。
だがそんな彼の言葉はもはや、俺の耳には届かなかった。
爆発的噴火による火山弾が機体を無惨にへこませ、噴火口から放出されたおびただしい量の火山ガス、それに火山灰が機体全体をどす黒く包み込み、メインエンジンをあっという間に故障させ、その長大で力強い双翼を、もぎ取ったのだ。
「黙れっ、お前らの常識が、俺達地球人とかけ離れてるってことはよ~く分かった! 今すぐその実験台をここに連れ戻すんだっ! さもないと……こうだっ!」
俺はマスティカ試作機の操作パネルへと駆け寄り、拳を振り上げ、怒りに任せ、そのパネルを叩き壊した。近くにいたエミオが咄嗟に、暴動の鎮圧に向かう。
「アイト、よせ! そんな事したって、実験台は戻って来ないんだっ‼」
「はなせぇっ、放せよぉ!」
シラードは想定外の事態の対処に慣れていないのか、茫然としたままその場で突っ立っているだけだった。そこに、エミオからの喝が入る。
「シラード、何をボサッとしてんだっ! 早く制御パネルに向かえっ」
「わ、分かった! 今すぐにむか―――」
シラードがエミオに返事をし、一歩、足を踏み出した瞬間の出来事だった。
《 グゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ 》
マスティカが突如、地鳴りを起こすほどの強大な音の塊を発し、直後、光の渦の中から輝く巨大な右腕が現れたのだ。筋肉質の光の右腕は、引き絞られた弓の弦から勢いよく放たれた矢の如く俺を目がけて一直線に飛んでいき、背後から自分を押さえつけていたエミオをつまみ上げて投げ飛ばし、次に自分の身体を、容易く掴み上げた。
「ごっ、がああっ」
剛腕の締め上げる力は凄まじく、肋骨ごと肺を潰される勢いだった。
「どう、なってんだ……こんなもの、プログラムに組んだ覚えはないぞっ!」
怒涛の如く押し寄せる名もなき恐怖に、打ちひしがれるシラード。
「ぬうっ……アイト! アイトォ―――っ!」
右腕に投げ飛ばされ、その肉体に激痛を負いながらも友の名を叫び、眼前で繰り広げられている事実を必死に、真摯に受け止めようとするエミオ。
その時の自分は、もはや頭が尋常ではないくらいにイカれていたのかもしれない。理性も体の自由も奪われた自分に許された行動は、声帯をぶち壊すほどの大声で叫ぶことだけだった。
しかしその悲鳴も、彼らには届かなかったらしい。視線だけを自分の顔に向けながら、複雑な表情を浮かべて見送ることしか、彼らにはできなかったから。
(俺の冒険はまだ始まったばかりだってのに、こんなにもあっさり何の目的も果たせず『あの世』往き……なぁ神様よ、ここは神秘と可能性に満ちた星なんだろ? だったら少しくらい、俺を『ゲスト』として活躍させてから、顔出せってんだよっ)
悔しかった。神の見えざる手は今、こうして無知な人間共にも視える形でこの世の事象に介入しているのだ。俺は沈黙の空間の中で、二人と目が合ったのを最後に、光の渦へと呑み込まれていった。渦の中は光で視界が、初めてビガロを目の当りにした時のように真っ白く埋め尽くされるのかと思ったが、真逆だった。
真っ黒で、何も視えなかった。
ドラマやアニメで主人公が死を悟った時にやって来る走馬灯も、現れやしなかった。
人が、いや、総ての生きとし生ける物が行きつく先とは、やはり〝無〟だったのか。
これこそが、完全なる〝死〟。
五体の崩壊。
思考の停廃。
嗚呼、こうなることも全て運命だったんなら、俺の恨みつらみで満たした毒杯を、いっぺん神に仰がせてから逝きたかったよ――――――
「…………ちゃん! …………お兄ちゃん! …………おーいってばぁ! …………聞こえるぅ? …………あっ! 目が開いたよぉ、ラニっ!」
「ほんとだね、エルっ! ママっ、おっきなお兄ちゃんが目をさましたよぉ!」
―――あれ、おかしいな、まだ意識がある。死んだんじゃ無かったのか。
どうやら我が人生は、幕が降りるにはまだ早かったらしい。新たな人生の幕開けは意外に早く、それも再び同じ惑星―――ポス・ベリタス―――で始まった。先ほどと少し違う点といえば、目を覚ました場所がどこかの民家だったということだ。
開いたばかりの視界には、興味有り気にしげしげと自分の顔を見つめる二人の子供、それから母親らしき女性が、一人映っていた。これ以降の話は、再び自分が眠りから覚めた時に再開するとしよう。あんな非現実的な体験をさせられてはさすがに身が持たない。だから今は、ゆっくり英気を養うことにする。
神を毒殺しようなどという陳腐な発想は、やっぱりヤメだ。
自分はきっと、必要だから生かされている。
因果はずっと、終わりがあるから応報される。