プロローグ ~闇に潜む者~
お待ちしていた方がいらっしゃるかはわかりませんが、お待たせ致しました。
永らく時間がかかってしまいましたが、ちょこちょこと書き進めて、ようやく完成間近ということで、4章投稿させていただきます。
一日1話ずつ、夜7時に投稿していく予定です。
お楽しみいただければ幸いです。
「……目が覚めたかね」
そんな淡々とした声が聞こえ、ミックは目を開いた。ぼやけた視界が徐々にクリアになっていく。
(ここはどこだろう……俺はいったい……)
はっきりとしない記憶を辿りながら、ミックは辺りを見回す。
そこは真っ白な部屋だった。壁は目の前の一面を除いて真っ白な材質で作られている。床や天井も同様だ。天井の魔導灯から降り注ぐ光が眩しく反射している。
広さは縦横に十メートルほど。天井が近いので、高さは二メートルほどだろうか。自分はその中央に立っている。
ミックの前方に壁は無く、ガラスで遮られた向こう側にもう一つ部屋があるようだ。こちら側と違い、ガラスの向こう側は暗くてよく見えない。ただ白衣を着た男が一人、こちらを観察するように見ているだけだ。
その男は、医者というよりは科学者のような印象だろうか。痩せて不健康そうな顔色。だがこちらを見つめる瞳には、まるでとびきりのオモチャを見るような興奮の色が見える。おそらく先程の言葉は、目の前の男が放ったもので間違いないだろう。
男はミックが反応を返さないことに落胆したのか、残念そうに首を横に振った。
「やれやれ、また失敗か……動物との合成では自我を保つ成功例もあるのだが……それに人間をベースにしたいのに、これでは魔物と変わらない……やはり人間の肉体では魔物の力には敵わぬのか……しかし、肉体への浸食には個人差もある……ならばその差を生み出している要素は……」
ブツブツと意味の分からないことを喋り出す白衣の男。どうやら自分の思考の世界へ入ってしまったらしい。
「……ここは、どこだ? 俺はいったい……」
訳の分からない状況に困惑しつつも、ミックが口を開く。口を動かす感覚と、自分の声に違和感があったが、それを気にしている余裕はなかった。
なぜならミックが口を開いた途端、自分の世界に浸っていたはずの白衣の男がバンッと音が鳴る勢いでガラス面に張り付いたのだ。ギラギラとした目で、ミックの顔を真っ直ぐに凝視している。
「なんと! まさか人間としての自我を保っているとは!」
それを聞いた男の顔に笑みが浮かぶ。興奮した様子でガラス面に両手を突き、顔を近づける。
「君! 自分の名前はわかるかね!?」
「……あんたは?」
ガラス越しに話しかけてくる男を訝しそうに見つめながら、ミックが問い返す。
質問に質問で返された男だったが、それを気にした様子は無い。むしろ自分と会話が成立していることが酷く嬉しいらしく、嬉々とした表情でミック疑問に答えていく。
「ああ、すまないね。興奮のあまり礼儀を欠いてしまった。私はワドル。しがないただの魔科学者だ」
「……ミック。五級の冒険者だ」
「素晴らしい! 知性だけでなく、記憶も保持しているとは! そう確かに君はミックだ! 間違いない!」
名前を明かしただけで異常なほど喜びを表すワドルという名の男。興奮した様子でガラスに額を擦りつけ、爛々と輝かせた瞳でミックを凝視している。
(何だこいつ……)
生理的な嫌悪感を覚えて、ミックがわずかに後ずさる。初対面の男に熱い視線を向けられれば当然の反応だろう。おまけにこちらが名乗る前からミックの情報を得ていたらしい。わざわざ質問したのは確認のためだったのだろう。
まるで自分が実験の被験者にでもなったような感じだ。相手が魔科学者ということもあって、その感覚は顕著だ。そんな依頼を受けた覚えはないのに。
そんなミックの反応を気にした様子も無く、ワドルが捲し立てるように質問をぶつけてくる。
「体の調子はどうだね? 身体は動かせるかい? 思考に何かおかしな点は? 昔のことはどれだけ思い出せる? 食欲は? 何か食べたいものは? 狼だしやっぱり肉がいいかね? 暴れたいとか叫びたいとかそういった衝動は感じないかい?」
「いきなり何なんだ、あんたは! そんなことよりここはいったいどこだ!?」
矢継ぎ早に問いを畳みかけてくるワドルに、不快感を露わにするミック。あまり話を続けたい相手ではないが、今の状況がわからない以上、無視するわけにもいかない。
「ああ、ここは私の研究室だよ。そうか、まずは現状を認識してもらうのが先だね。興奮のあまり、色々と先走ってしまった。私の悪い癖だ。だが許してほしい。何せこの研究を始めて、初めて人間としての知性や記憶を維持した実験体だ。『新たな知の発見』という甘美な雫を前に、魔科学者がその知識欲を抑えることなどできるはずもないだろう?」
ミックの問いに答えながらも、自分の世界に入り込んだように陶酔した表情を浮かべるワドル。その狂的な姿は、見る者に否応なく恐怖と嫌悪の感情を植え付ける。
「あんた、いったい何を言って…………………………え?」
寒気を感じたようにミックは自分の腕を掴み……その感触に違和感を覚えて、その腕を見下ろした。
「な、なんだよ、これ……」
最初は服の感触かと思った。いつも自分が着ている服にはない肌触りだったが、そう考えるのが自然だったから。
だが視線の先にある自分の腕は、服など着ていなかった。いや、そもそもミックには、それが自分の腕だとは思えなかった。
――何故ならその腕は、びっしりと灰色の体毛に覆われていたから。
自分の毛の色は、父親譲りの藍色だ。こんなくすんだ灰色ではない。
それ以前に、これが人間の腕か?
これではまるで――獣の腕じゃないか!
「なんだよこれ? なんで……俺の腕……」
いや、腕だけではない。さらに視線を落とせば、足も同じように灰色の毛に覆われている。お腹の部分は短く白い毛が生えている。まるでイヌ科の動物のように……
一度現状を認識してしまえば、あとは引出しの中身を逆さにぶちまけるように、次から次へと疑問が頭の中を埋め尽くしていった。
自分の意思で動く獣のような腕は何なのか?
普通の“人間”である自分の手に、どうして獣のように鋭い爪が生えているのか? 所々には何故か大きな鱗まで付いている。そして足下に見える巨大なトカゲのしっぽは何だ?
そもそも身長が百七十センチも無い自分が、なぜ目の前の男を遥か上から見下ろしている?
呼吸をする口が、やたらと大きく感じるのは何故だ?
目の前の男は、自分を実験体と呼んだ……それはいったい何の実験だ?
わからないわからないワカラナイワカラナイ……
極度の混乱と恐怖、焦燥により、荒くなる呼吸。頭の中は何色もの絵の具をぶちまけたようにぐちゃぐちゃだ。目に映る現実に、思考が追い付かない。あまりの精神的な負荷に心が悲鳴を上げ、意識が闇に落ちそうになる。
そんな混乱の極致にいるミックの耳に、場違いなほどに楽しそうな声が聞こえてくる。
「なかなかに立派な身体だろう? 合成する魔物は吟味したからね。君の身体に馴染ませるにも苦労したが、結果は良好のようだ。動かしていて何か違和感はないかね?」
……理解できない。
目の前の男が何を言っているのか理解できない。
だが自分がこんな身体になった原因が、目の前で心底楽しそうな笑みを浮かべる男にあることだけは理解した。
闇に沈んでしまいそうな意識が、ギリギリのところで浮上する。
「なんだよ!? お前はなんなんだよ!? 俺に何を……俺に何をしたぁっ!?」
爆音のような音を踏み鳴らして、ミックが床を蹴った。ミックの身体能力ではあり得ない程の速度が出ていることにも気づかず、一直線にワドルに向かって飛びかかる。
だが二人を隔てるガラスは通常の強度ではなく、ミックの突進を受けてもヒビ一つ入ることはなかった。
「なんだよこれ!? ふざっけんなよっ! 出せよ! 俺をここから出せええええっ!」
巨大になった獣のような手を、透明な壁目掛けて何度も叩きつける。その度に、ガラスが軋んで悲鳴を上げるが、ぶち破ることはできそうにない。
ガラス一枚隔てた目の前でミックが暴れているというのに、ワドルは怯えたそぶりは無い。それどころか、ガラスに顔を近づけて、ミックの身体を興味深そうに観察し始めた。
「ふむ……動きに問題は無さそうだね。目覚めてすぐだというのに、しっかりと動かせている。まぁ極度の興奮状態だし、無意識に動かせているだけかもしれないが、もしかしたら元々の魔物の記憶が身体に残っているかもしれないな」
自分を見ているのに、“ミック”を見ていない。ただ観察対象として、興味を抱いているだけ。
そんなワドルの態度に、さらなる怒りを覚えてガラスへ拳を振るい続ける。
「訳わかんねぇよ! なんなんだよお前は!? 俺は! 俺……は……オレ…………」
そこでふと、視界にあるものが見えた。
いや、それは最初からそこに映っていた。ただミックが気付かなかっただけ。気付こうとしなかっただけ。
ガラスの向こう側は真っ暗だ。こっちの部屋と違って壁は黒いし、明かりも付いていない。
まるで明るい部屋の中から、夜の闇を見つめるように。
そしてガラスはまるで鏡のようにこちらの状況を反射している。
その鏡の世界の中に――
――ガラスに向かって拳を振り下ろす、巨大な人狼の魔獣の姿が映っていた。
「……ぁ…………あ……ああ……………………」
後ずさるミック。ガラスに映る人狼も後ずさった。
両手で顔を触る。人間の顔にはない凹凸。巨大な牙。顔全体を覆う、固い体毛。
ガラスの中の人狼も同じように顔を撫でまわしている。
人狼と目が合った。恐怖と困惑で埋め尽くされた瞳。凶悪な狼の顔に、酷く弱々しい表情の魔獣。恐ろしい魔物の姿。
ソレガイマノジブンノスガタデ――
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
目の前の虚像の人狼が、獣のような悲鳴を上げた。
もちろん悲鳴を上げたのはミック自身だったのだが、そのことに気付くことも無いまま、今度こそミックの意識は闇の底へと落ちていった。
「おや、眠ってしまうのかね? もう少し色々と話がしたかったのだが……まぁそれは次の機会に取っておこうか。他の実験体の様子も観察する必要があるしね」
意識が闇に呑まれる直前、男の楽しそうな声が聞こえた。
それはまるで、人間の魂を弄ぶ悪魔のような声だった。
「くっそっ……こんな時間まで仕事させられるとか、ホント勘弁してほしいですよ……」
本日何度目かわからない相棒の愚痴にため息を吐きながら、ディーターは手に持った魔導灯の灯りを頼りに暗闇の中を進む。
「しかも都市の端っこの灯台へ行けだなんて、ホント勘弁してほしいよなぁ」
「もうわかったから、これ以上ごちゃごちゃ言うな。こっちまで気が滅入る」
なおも続く愚痴にいい加減うんざりしてきたディーターが、肩越しに後ろを振り返って苦言を呈する。確かに自分も同じ仕事を押し付けられた身なので、気持ちはわからないでもない。が、わからないでもないからこそ、これ以上余計なことでこっちの不愉快指数を上げるのは、それこそ勘弁してほしいというものである。
「だいたい、そんな風にグダグダやってると、余計に帰るのが遅くなるぞ」
「まぁそれもそうなんですけどね……でも文句言わずにはいられないというか……」
ディーターに叱られた相棒――職場の後輩にあたる――が拗ねたようにそっぽを向いて口を尖らせている。ちょっと子供っぽい、後輩のいつもの癖なのだ。
「仕方ないだろう。灯台はこの町に無くてはならないものだ。あれが無ければ遠出をする漁師達は遠い海を彷徨うことになる。観光客向けのクルーズ船も船を出せなくなる。そうなれば世界最大の観光都市の名に傷が付くことになるんだぞ」
「それはわかってますよぉ。だからこそこうして疲れた体に鞭打って、残業に精を出してるんじゃないですか」
出してるのは精じゃなくて口だろうとは思ったが、後輩のやる気を削ぐだけなので止めておいた。
「それにディーターさんだって、ホントは早く帰りたかったんじゃないですか? 確か今日はお子さんの誕生日だって言ってましたよね?」
「……まぁな」
帽子の下から覗くディーターの目が、苦々し気に細められる。
後輩の指摘は、残念ながら事実だ。今日はディーターの一人息子、ディーノの八歳の誕生日だった。本来なら、真っ直ぐに家に帰って、妻と一緒に息子の誕生日会をする予定だったのだが……部長直々にお願いをされてしまえば、古株とはいえ一職員に過ぎないディーターに、断るという選択肢はなかった。
作業用のツナギの内ポケットの感触を確かめる。そこには誕生日の一か月前から何度もおねだりされ続けた、息子へのプレゼントが入っていた。
家に置いておくと息子に見つかってしまう可能性もあったので、買った日から職場に置いておいたものだ。この仕事が終われば真っ直ぐに家に帰り、一刻も早く息子に会いたかったので、こうして仕事場にも持ってきている。部長達も帰宅しているので、報告は明日でも構わない。もちろん万が一にもプレゼントが汚れないよう、厳重に袋にしまっている。
今、ディーターの家では、夕食の準備を終えた妻と息子が、父の帰りを待っていることだろう。息子が待っているのはプレゼントの方かもしれないが……いや、その考えは悲しくなるのでやめよう。
「だから早くこんな仕事終わらせて息子に会いたいんだよ。あいつが寝る前に渡さないと、明日からしばらく口きいてもらえなくなるじゃないか」
「家族を持つと大変ですねぇ。独り身の俺には羨ましい限りですが」
「そう思うならさっさと歩け。じゃないとお前がサボってたって、部長に報告するぞ」
「ちょっ、それは勘弁してほしいです!」
ディーターの脅しを聞いた後輩が、慌てて歩く速度を上げてディーターに並ぶ。灯台の立つ岬までの道は、二人が歩くのに十分な幅がある。とはいえ慌てて落ちてしまったら海へ真っ逆さま。間違いなく命は無い。
後輩に気を付けるよう注意を促して、ディーター達は手に持った魔導灯の灯りを頼りに進む。
そうして辿り着いた灯台は、子どもが万が一にも入り込まないように厳重に柵に囲まれている。柵や灯台の扉にはもちろんカギが掛かっていて、関係者以外は中に入ることはできない。
もちろん市の職員であるディーター達はカギを持っているので、普通に中へと入っていく。
「ああ、原因はこれか」
灯台に使われる魔導具を一つ一つ点検をしていくと、不調の原因と思われる個所を発見した。
「何があったんですか?」
「天辺の巨大魔導灯に魔力を供給するための魔力回路の線が外れてる。だから灯台の魔力が切れかけて、光が弱くなってしまったんだろう」
灯台の天辺には、遠くの海まで光が届くくらいの大きな魔導灯が設置されている。その魔力は、灯台内部にある魔力炉から供給しているのだが、その供給のための線が外れてしまえば、魔導灯自体に残る魔力だけで発光することになる。そうなればいずれは魔力も尽きて、灯台は光を失ってしまう。
ちなみに魔力炉とは、魔術により大気中のマナを効率よく魔石へ循環させるための装置である。魔石自体は劣化するし、循環の効率も百パーセントではないが、この装置のお陰で大規模な魔導具を動かすこともできるようになったし、この灯台も定期的なメンテナンスだけで長期間稼働が可能となった。魔空船の動力部にも使われている。
「治せそうです?」
「ああ、おそらくな。完全に壊れてるなら魔導具の専門家じゃないと無理だが、ただ線が外れてるだけなら……よし、動いた」
魔力炉の接続部に線を差し込んだディーターが、笑みをこぼす。どうやら故障はしていないらしく、回路を元に戻したら正常に動作するのが確認できた。線も千切れていないし、魔石に残った魔力もしばらく保ちそうなので、これでしばらくは問題ないだろう。
「しかし、どうして外れたんでしょうね?」
「さぁな……前に取り換えた奴の留め方が甘かったのかもしれん」
ディーターを見上げる後輩が、不思議そうに首を傾げる。その疑問はディーターの頭にも浮かんだものだ。
というのも、回路の接続部への固定はしっかりとしているので、外部から強い引っ張られでもしない限り、まず外れることは無い。灯台の内部は密閉されているので、自然に外れるとも考えにくい。三カ月に一度の点検は行っているが、それ以外に人の出入りなどないこの場所で、線が外れるほどの衝撃が与えられることなどないはずなのだ。
前回の点検はディーターの担当ではなかったが、予定通りであれば二カ月程前に行われている。その時から外れていたのなら、苦情はもっと前から届けられていただろう。留め金に問題は無いのは確認したし、あと考えられる可能性としては、今ディーターが口にしたものくらいしか思いつかなかった。
「まぁ理由を考えるのはあとにしよう。残りもさっさと調べて、とっとと引き上げよう」
「そうですね。さっさと終わらせて帰りましょう!」
原因がわかった安堵からか、少し表情が明るくなった後輩に苦笑いを浮かべながら、ディーターが後ろを振り返る。帰れる目途が立って嬉しいのはディーターも同じだ。
「やれやれ、何とか息子が起きてる間には帰れそう……ん?」
作業で疲れた肩を揉みながら立ち上がったディーターの視線の先に、何かが見えた。
それは歩道部分と壁の繋ぎ目のあたり。そこから光が見えたような気がしたのだ。明りも少ない夜だからこそ気付けた、わずかな光だったが。
「どうしたんですか?」
怪訝そうな顔で梯子から降りたディーターを見て不安そうに尋ねてくる後輩。何か問題でもあったのかと思ったのだろう。
そんな後輩に事情を説明しながらしゃがみ込んだディーターは、光が漏れ出ていた箇所に魔導灯を近づける。一見すると何も無い壁と床に見えるが、よく見てみると石材に切れ目が見える。明りを近づけたうえで目を凝らして初めてわかるものだ。普通に通るだけでは絶対に気付かないだろう。
慎重にディーターが手を這わせてみると、壁の一部分――ちょうど床に接している箇所が、奥へと押された。
すると床部分が壁に向かってスライドし、地下へと続く階段が姿を現した。
「これは……」
「何でこんなものが……」
二人揃って驚愕と困惑を露わにする。灯台を管理する市の職員である二人が知らない隠し通路。もちろん役所にある灯台の設計図にも記載はない。二人が動揺するのも無理のないことだろう。
「どうします?」
予想外の事態に困惑しながらも、先輩であるディーターに指示を仰ぐ後輩。その顔には恐怖の色も浮かんでおり、口には出さないが明らかに中に入るのを拒んでいる。
まぁそれも当然だろう。こんな人目の付かないところに隠されていたのだ。怪しい目的のために作られたと考えるのが自然だ。普通の神経ならば、まず近づきたいとは思わない。
そしてそれはディーターも同様だ。見つけてしまったことを後悔しても遅いが、これ以上の深入りは危険だ。
もっともその判断は、すでに遅すぎたのだが……
「すぐに戻ろう。俺達だけで調査するような代物じゃない」
込み上げてくる不安と焦燥に急かされるように、その隠し通路に背を向け歩き出した二人に――
「それは困るんデスね~」
聞き覚えの無い間延びした男の声が聞こえた。
いつの間にそこにいたのか。ディーターが後ろを振り返ると、たった今発見した抜け穴のすぐ傍に一人の男が立っていた。ボロボロの黒い外套で体をすっぽりと覆い、右手に巨大な黒塗りの鎌を持っている。まるでおとぎ話に出てくる死神のような男だ。
身長は百六十に届かないくらい。暗くてわかりにくいが、髪色はおそらく黒に近い灰色。顔は白塗りされており、左右の目元に黒いハートと星のマークが。唇には暗い色のルージュが塗られている。まるでサーカスのピエロのような姿だ。
「お仕事中に上の方で人の気配がしたので、念のために来てみたんデスけどね~……どうやら正解だったみたいデスね~」
「だ、誰だ!?」
「誰でもいいじゃないデスか~。どうせ知ったところで意味はないんデスし~」
奇怪な口調で一方的に話を続ける謎の男。語尾に必ず首を左右に傾けるのが、変な人形みたいで気味が悪い。
「この入り口を見られましたし~、このまま帰すわけにはいかないんデスよ~。殺す方が楽なんデスけどね~。せっかくなのであなた達にも実験体になってもらうのが良いと思うんデスよね~」
『殺す』という言葉。戦闘の心得など無いディーターでさえ感じる圧倒的な威圧感。そして命など容易く刈り取るであろう大鎌。それら全てが、自分達が間違いなく死地にいることを否が応でも実感させる。
隣にいる後輩も、顔に濃い恐怖の色を浮かべ、足を震わせている。腰を抜かしていないのは奇跡に近いだろう。
ディーターは無意識に、ツナギの胸ポケットに手を当てる。それは息子へ送るプレゼントに触れることで精神を落ち着かせるための、いわば心を守るための防衛本能に従った行動だったのだろう。
だがそれが相手からすれば、何らかの武器でも取り出すような仕草に見えたのだろう。
「ダメデスね~」
そんな短い言葉と同時に、手に衝撃が。骨が折れたような痛みと共に、右手が大きく弾かれた。
「ノンノン、抵抗はダメデスね~。大人しくしてれば命は助けてあげるんデスから~、感謝して欲しいデスね~」
ズキズキと痛みを訴える右手を抑えながら黒衣の男へ視線を向ける。どうやらディーターが認識できない速度で鎌を振るい、彼の手を弾いたらしい。手が斬り落とされていないので、柄の先で殴られただけなのだろう。威力も抑えられていたらしく、手は痛むが骨は折れてはいないようだ。
「ふむ? 武器かと思いましたが違ったようデスね~。紛らわしいデスね~」
黒衣の男がディーターの胸元を凝視しながら何度も首を傾ける。どうやら殴られた拍子にツナギのボタンが弾け飛んだらしい。ツナギの内側がめくれ、プレゼントが落ちかかっている。
慌ててプレゼントを元に戻そうとするディーターだったが……残念ながらそれは不可能だった。
「さすがに二人も運ぶのは面倒デスね~。なのでここは彼にお任せするのデスね~」
そんな男の言葉が聞こえた直後、灯台内に大きな水音が響いた。
直後、件の抜け穴の奥から飛び出してきたのは、天井にまで届きそうなほどの水の柱だった。
「うわっ、わああああああああああああああああああああああああああっ!」
水の柱はまるで意思を持っているかのように広がり、悲鳴を上げるディーターと後輩の頭上で巨大な人の手のような形になると、二人の身体をまとめて掴むように呑み込んでいく。
「殺したらダメデスよ~。ちゃんと生きたまま連れて行くのデスね~」
ディーター達が水に呑まれるのを、薄ら笑いを浮かべて見ているピエロ姿の男。そんな光景を最後にディーター達は水の手によって、隠されていた通路の奥へと引きずり込まれていった。
あと残ったのは、まるで最初から誰もいなかったかのような静寂の闇……
そして届くことの無かった父の愛情の欠片だけが、悲しげにポツンと取り残されていたのだった。