それぞれの戦場
「始まったみたいニャ」
浮遊島の外周部。バレアス軍に見つからないように周囲を警戒しながら進むファリンが、遠くに響き始めた戦の音を拾って小さく呟いた。
その呟きを聞いたティアは遠くを見るように目を細め、歩みを進めたまま島の中心部の方へ顔を向ける。
バレアス軍の放った炎によって壁のこちら側の森は全焼している。外周部であるここは森の外だが、地面の草まで炎が広がったのだろう。辺り一面は黒と灰の荒野と化している。森側は、炭と化した樹木や所々から未だ立ち上る煙によって視界良好とはいえないが、それでも森があった時よりは遠くまで見通せる。だがさすがに数キロ離れた戦場までは確認する事は出来なかった。
猫の獣人で、普通の人間より聴覚の発達したファリンよりも反応が遅れたが、ティアの耳にも大勢の人間が上げる怒号や魔法の爆発音が届いた。空色の瞳に心配の色が浮かぶ。
「二人とも、無茶してないといいけど……」
そんな心配の気持ちが、可憐な唇からポツリと小さく零れた。
信頼と心配。一見相反する感情だが、決して併存しないとは限らない。数百人規模の大軍勢を、ビースト達からの支援があるとはいえたった二人で食い止めなければならない。信頼の方が勝ってはいるが、一抹の不安は拭いきれるものではなかった。
そんなティアの独り言をしっかりとその猫耳で捉えていたファリンが、ティアを振り返って笑みを浮かべる。
「だいじょ~ぶニャ! リオン達なら、敵が百万人いたって一捻りニャ!」
「さすがにそれは無理だと思うわ……」
力強く拳を握って力説するファリンに、苦笑いでツッコミを入れるティア。さすがに百万は冗談だろうし、ティアを励ますためというのもあるだろうが、それでもファリンからは二人への絶対の信頼が感じられる。
もちろんファリンにも彼らを心配する気持ちが無いわけではないだろう。だが黒の翼のメンバーの中でも最年少のファリンにとって、年上のメンバーは家族であると同時に、憧憬の対象でもあった。普段は扱いが雑なジェイグに対してもそれは同様だ。特に強く優しく皆を導くリオンのことは、絶対のヒーローのように感じているのだろう。
自分を励まそうとする妹の微笑ましい姿に、ティアも相好を崩す。隠密作戦中なので自重するが、そうでなければ抱きしめるか頭を撫でるかしているだろう。
「ありがとう、ファリン。もう大丈夫。私達は私達の役割に集中しましょう」
すぐに気持ちを切り替えると、二人は身を隠しながら目的地を目指す。
現在、二人はリオンの立てたガンマ作戦を成功させるため、敵の魔空船が停泊しているキャンプ地を目指している。敵に発見されるのを避けるためにかなり遠回りかつ慎重に進んでいるが、あと一時間程で予定通り目的地に到着できるだろう。
リオンが作戦前に言っていた通り、今回の作戦の――いや、この戦いの行く末は自分達の手にかかっていると言っても過言ではない。リオン達と無事に再開するためにも、先を急ぐ必要がある。
敵に見つかれば作戦は失敗となるため、細心の注意を払いつつティアとファリンは敵のキャンプ地を目指す。
そして一時間後、予定通りバレアスのキャンプ地に到着。
ここまで来れば敵兵と遭遇するリスクはグンと上がる。リオン達との戦っているとはいえ、さすがにキャンプ地の見張りまで出撃させるようなことはしていない。
森が無くなっているため、身を隠す場所が少ないのも発見されるリスクを上げている。黒の外套とフードをまとい、炭化した樹々に身を潜めながら接近をしているが、それも森を抜けるまでの間だけだ。森だった場所の終端から先は、視界を遮るものは敵のテントや魔空船の船体くらいしかない。
(それでもリオン達のお陰で、見張りは随分と減ってるみたいだけどね……)
リオンが敵将と交渉に行く前後の状況は、ファリンから詳しく報告を受けている。見張りだけでなく、待機中の兵もやはり相当少ない。一応、視線で確認を取ってみるも、やはり狙い通りこちらの防備はかなり薄くなっているらしい。
だからといって、この遮蔽物の少ない状況で敵地に潜入するのは容易ではないが。
現在が夜であればファリンの闇魔法が使えるのだが、今は昼を少し過ぎた頃。この状況で闇魔法はかえって目立つだけだ。
それならば……
(まずは情報収集ね。 周囲の状況、それと“狙う”相手を選びましょう)
(了解ニャ!)
まだ敵とは距離があるが、念のため小声でやり取りを交わし、ティアがキャンプの様子を観察する。
即席のキャンプ地には、あちこちに簡易テントが設けられている。それが遮蔽物となって奥の様子は見通せない。とりあえず見える範囲では、最も近いテントの傍に見張りが二人。焚き火を囲んで雑談をしている。多少の警戒はしているようだが、後方待機の時間が長いからか、単純に練度の問題か、かなり気が抜けている。上手く不意を突ければ、周りに気付かれることなく無力化できそうだ。
(あの二人なら問題無さそうね……ファリン、行けそう?)
(もうちょっと待って欲しいニャ)
ティアが確認を取るが、ファリンは表情を見張りの二人から微動だに動かさずに待ったをかけた。金色の瞳は瞬きを忘れたようにジッと前方を見つめている。水色の髪からピョコンと覗く猫耳は、逆に少しの音も逃さないようにピクピクと小刻みに動いている。
ファリンは黒の翼のメンバーの中で最も観察眼と洞察力に優れている。ジェイグのように人間の筋肉の細かい動きを見極めるなどはできない。だが人の声、話し方、歩き方、癖など日常の何気ない動きを把握し、相手の行動や感情を正確に見抜くことができた。対象の二人とはまだ距離が離れているが、獣人の聴覚を魔法で強化したファリンであれば問題ない。
(コピー完了。いつでも行けるニャ)
十分ほど観察を続けていると、ファリンがグッと親指を立てた。
それを確認したティアは小さく頷くと、表情を引き締めて敵を見据える。
(なら行くわよ。音にだけは注意して)
(了解ニャ)
短いやり取りだけを交わして、二人は同時に物陰から立ち上がった。そのまま物音をたてないように注意を払いつつ、見張りの兵士達のいる場所を迂回するように走り出す。
敵との間に視界を遮るものは何もない。森の跡地を完全に抜けたので、木々の残骸も無く平原が続くだけだ。まだ三十メートルほどの距離があるとはいえ、女性としては平均的な身長を持つ二人の姿が見えないはずがない。
しかし、前方に座る見張りの二人は、ティア達の接近に気付くことなく談笑を続けている。いくら気が抜けて注意力が散漫になっているとはいえ、この明るさで、ここまで接近されて気付かないというのはおかしい。
ならば当然、それにはタネが存在する。魔法というタネが。
『不可視』
リオンの発案の下、光属性に適性を持つティアが試行錯誤の末に実現させた高等魔法技術である。
自分や仲間の周りの光を魔法で操り、自身の姿を隠す。リオンはコーガクメーサイだとかステルスモードとかいう言葉を使っていたが、結局今の名称に落ち着いたらしい。
まぁ口では簡単に言えるが、光属性持ちだからといって簡単に使える技術ではない。光の制御には微細なコントロールを可能にする技量と、かなりの集中力を要する。それも動きながらであればなおさらだ。わずかでも制御を狂わせれば、ティア達のいる場所に陽炎のような歪みが発生し、すぐに気づかれてしまうだろう。
また魔力――自己魔力、自然魔力ともに消費が激しい。魔法を維持するのは数分が限界だろう。今回のように潜入に使う場合、そちらにも集中力が必要となる。気配を殺すのはあくまで個人の技量次第なのだから。
それでもティアの力量ならば、この程度の距離を詰めるのに失敗などしない。特に敵は注意が散漫になっている。標的となる二人以外の接近にはファリンが注意を払ってくれているので、ティアは魔法の制御に集中できるというのもあった。
そうして三十秒ほどで敵の背後を取り、速やかに敵を気絶させる。そのまま二人を抱えて一度キャンプを離れ、今度はそのうちの一人に起動状態のテレパスを付けて――博識なティアもさすがにバレアスの言葉はわからない――叩き起こす。目を覚ましてすぐは色々と騒いでいたが、キャンプまで声は届かないし、身動きは封じられ、おまけに敵二人に武器を向けられているという状況を理解してからは大人しくなった。
そしてそこからは尋問タイムだ。魔空船の内部の様子、目的地の場所、見張りの交代時間などの情報を吐かせていく。
(尋問とか苦手なんだけどね……)
他の四人と違って、ティアは脅しや尋問の類は苦手としていた。戦いの場では覚悟を決めているが、抵抗のできない人間を痛めつけるのは、治療院で働いていた身としては色々と辛いものがある。迫力という点でも自分はそういう事には向いていないと思っていた。
まぁ“迫力”という点に対しては、ティアによく怒られる筆頭のミリルやファリンからツッコミが入りそうだが……
とはいえ、まだ成人してもいないファリンにそんなことをさせる気にはならないため、自分でやるしかないのだが。
そうして全ての情報を吐かせた後は再び気絶させ、見つかりにくい場所に隠しておく。
「じゃあファリン、お願い」
「まっかせるニャ~」
ティアが指示を出すとファリンが二人の体に魔術陣を刻印した札を貼り付け、“魔術”を使う。すると二人の体が淡い光に包まれ、次の瞬間には先程拉致したバレアス兵の姿へと変身していた。
「相変わらずファリンの変身魔術は凄いわね。数分見ただけでここまでそっくりになるなんて」
「ふふ、そうだろうそうだろう……ニャ」
ティアの可憐な声で男のバレアス兵がファリンを称賛すると、もう一人のバレアス兵に変身したファリンが大きく胸を張る。こっちは声まで完璧に模倣しており、改めてその観察眼と変身技術には舌を巻かざるを得ない。
そしてそれが今回の作戦の最大のネックになる。
二人はこれから本格的に敵地へ潜入をすることになる。敵の姿を完璧に真似た二人だが、言葉が通じない以上、潜入の難易度は決して低くはない。大勢の前で声を掛けられれば終わりだ。相手が少数であれば、不意を突いて沈黙させることは可能だろうが、それは最終手段。ティアの不可視を潜入の間、ずっと維持するのは現実的ではない。変身はしているが、できるだけ敵に見つからないよう注意して目的の場所を目指す必要がある。
(目的地に着いてからも色々大変ではあるけど……でも失敗はできない。何としても成功させなきゃ)
主力のいない今ならば、たとえ敵に見つかったとしても逃げ切ることは可能だろう。
だがそうなれば作戦は破綻する。
リオンはこの作戦が失敗すれば、家族の身を守るためにこの島の守りから手を引く。リオンが引き際の判断を誤ることは絶対に無いので、リオンとジェイグの身の安全については問題ないはずだ。
だがそれは、この島の住人達がバレアスに蹂躙されるのを見過ごすということ。
ティアもこの半月ほどの間で、ビースト達とは浅からぬ付き合いをしてきた。地上の料理を教えたり、弓矢の使い方を指南したり、女性陣が集まって恋バナで盛り上がったり――ティアとリオンの話はビースト達にも特に評判が良かった。
そんな彼らを――友人達を見捨てる……それを受け入れるのは難しい。最終的にはそれを選択する覚悟はできているが、それでも可能な限り最後まで抗いたい。
「待っててね、皆!」
胸の前で拳を握りしめ、ムンッと可愛らしく気合いを入れるティア。
もっとも見知らぬ男のバレアス兵がティアの声で可憐なポーズを決める光景は、それを見ていたファリンの顔を盛大に引き攣らせるのだった。
リオン達がバレアス軍との戦闘を始めて既に一時間が経とうとしていた。
最初はこちらの実力を侮っていた敵の隙を突き、勢いに乗って攻勢を強めていたリオン達だったが、一度態勢を立て直されてからはその勢いも抑えられていた。
二人の息の合った連携によって、こちらの被害はせいぜいがかすり傷程度。敵側に与えた損害は死者、戦闘不能者合わせて百を少し超えるくらいだろうか。たった二人で挙げた戦果としては破格だが、そのペースも今ではかなり落ちている。敵の残りを考えると喜んでなどいられない。倒した敵はあくまでただの尖兵に過ぎず、主力の部隊がまだまだ後に控えているはずなのだから。
二人とも格下相手の一時間程度の戦いで体力が尽きるほど、やわな鍛え方はしていない。派手に暴れ回ってはいるが、二人の目的はあくまで“陽動”と“時間稼ぎ”だ。さらには敵が背後の壁の方へ攻め込まないように立ち回る必要もあり、深くは攻め込まず、一定の距離を保ったまま戦いを続けている。
だが膠着状態とまではいかずとも、停滞と呼べる程度には戦況は固まってしまっている。
(ビースト達の方も、いつまで保つか……)
油断なく敵の動きを観察しながら、リオンが壁の方へわずかに意識を向ける。
今のところ、壁の方に大きな被害は無い。リオン達の立ち回りも合って、そっちに戦力を割くのが難しいのだろう。時折少数の部隊が壁へ向かうが、それを狙ってビースト達が魔導具や弓による攻撃を行い、敵を近づけさせなかった。
だが楽観もできない。
壁はジェイグが数日かけて建造したものだが、所詮は土魔法で強引に作っただけの張りぼてだ。魔法の使えないビースト達には不可能だが、バレアス兵ならば突破は容易だろう。
さらにビーストでも使える魔力無しで発動するタイプの魔導具は、その分威力も小さい。矢もそろそろ尽きる頃だ。迎撃は続いているが、敵陣への攻撃は止んでしまっていた。
(ここは一度、こっちも魔導具を投下して、無理やりでも流れを持ってくるべきか)
戦況の停滞を嫌ったリオンが切り札の一つを切るべきかと思考する。
だが――
「――っ!」
リオンが次の一手を切るよりも早く、敵陣の奥から四つの影が飛び出してきた。
それらの影は瞬く間にこちらとの距離を詰めると、背中を預け合うように構えていた二人へ一斉に攻撃を仕掛けてきた。
「ちぃっ!」
「おっとぉ!」
四方向から繰り出される鋭く重い刃。
リオンがそのうち二つを刀で弾いて反らす。さらなる追撃を防ぐため、リオンは返す刀で反撃に出るが、リオンを相手にしていた二人は危険を察してすぐさま距離を取る。
一方、ジェイグは両手に構えた大剣で残りの二つを受け止めた。そのまま受け止めた剣を力任せに押し返す。わずかに体を浮かせて弾かれた二人の敵は、空中で体勢を立て直し、残りの二人と合流を果たした。
リオンとジェイグも、一度態勢を立て直すべきだと判断し、大きく後方に跳んで距離を取る。
武器を向け合ったまま互いの出方を探るように退治する二人と四人。リオンは敵の動きを警戒しつつも、その姿を観察する。
(こいつらは……)
四人の武器防具は明らかに他の兵よりも上等だ。おそらくミスリルと魔鉄の合金製の剣に、揃いの意匠を凝らした白銀色の鎧兜。動きも俊敏であり、放たれた殺気も他とは格が違う。バレアス兵の中でも精鋭と呼べるレベルの者達だろう。
「ようやく骨のあるやつが出てきたみてぇだな」
ジェイグが肩に愛剣を担いで口の端を釣り上げる。無手ならば両の手を打ち合わせていただろう好戦的な笑みだ。
一方のリオンは淡々とした表情は変わらずだが、その内心は複雑だった。目の前に姿を見せた敵は、これまで相対していた連中や総大将であるマクレアの実力を考えれば、バレアス軍の主力と見ていいだろう。自身の立てた作戦を鑑みれば、敵の精鋭部隊がこちらに集中するのは望ましい。
だが現在の停滞した状況を考えれば、敵の戦力が増したことは素直に喜べない。せめてこちらがもう少し敵戦力を減らすか、何かしらの対策を打ってから出てきて欲しかったところだ。
さらには白銀の騎士達が現れてから、敵軍の動きにも変化があった。リオン達を包囲し、間断なく襲い掛かってきていたバレアス軍が、騎士達の邪魔をしないように陣形を広げていく。しかも壁への向かおうとしていた連中も含めて、全兵士の敵意がこちらへと向けられていた。
おそらく敵は壁側の矢の残量や戦力を正しく理解しているのだろう。壁の向こうから魔力の反応が無いのは、ある程度の実力があれば察知できる。リオンとジェイグを仕留めれば、ビースト達の制圧は容易い。そう判断し、全戦力をこちらに向けたうえで、主力を出撃させたのだろう。
さらに敵陣営の後方を見れば、先程よりも敵の数が倍近く膨れ上がっている。リオン達の抵抗が予想以上だったので戦力を増やしたのか、それともこれ以上時間をかけたくなかったのか。
(まったく、どちらにしても嫌なタイミングを狙ってくる奴だ……)
頭に浮かぶ敵将の嫌味な笑い顔に内心で唾を吐くリオン。焼き討ちを選択する早さといいこの作戦変更といい、応援が到着されれば負けだとは理解しているのだろう。だからこそ焼き討ちという非情な手段を初手に選び、こちらが肉体的にも精神的にも疲れが見え始める頃を狙って一気に勝負をかけに来たというわけだ。
(一度壁まで下がるか?)
リオンとジェイグの安全だけを考えるならば、壁まで後退すべきだろう。敵に包囲された現状よりは、背後を気にしなくていい分戦いやすくはなる。壁の防衛も、すぐに破られるほど脆弱ではないはずだ。
それでもビースト達に多少の被害は及ぶ可能性は高まるが……
(いや、それも仕方ない、か……)
リオンは自分が全てを守れると考えるほど自分の力を過信してはいない。
それは一国を相手に恩師の仇を討てるほど強くなり、二級冒険者となりギルドから二つ名を与えられた今でも変わることはない。
ビースト達を守るために始まった戦いだが、元々はリオン達に彼らを守る義理はない。冒険者としても、一人の人間としても、できる限りは彼らの力にはなりたいとは思う。が、それはあくまで“できる限り”の範囲内での話だ。家族を犠牲にするリスクが高いとなれば、話は別となる。
それに自分達が敵に討ち取られれば、ビースト達の敗北は確定する。後退することでビースト達に被害が及ぶかもしれないが、全員が奴隷に落ちるよりはマシだろう。
それに、愛する家族を守るためなら――
(……いざという時、撤退が容易になる)
リオンはそれ以外の全てを切り捨てることに躊躇いは無い。
敵の動きをけん制するように殺気を放ちながらも、わずか数秒の思考でそう結論したリオンは、それを相棒に伝えるべく口を開く――
「――俺はまだ退かねぇぞ」
だが、そんなリオンの思考を正確に読み取っていたのか、一歩前に歩み出たジェイグがリオンと逆の方針を口にした。
ジェイグのそれは自身の身を危険に晒す選択だ。
容易く許容できる話ではない。
リオンの温度を失った赤い瞳が、ジェイグの背中を鋭く射抜く。
「……どういうつもりだ?」
仲間に向けたとは思えない程、リオンの口から出た声は重く冷え切っていた。リオンがここまで怒りの感情を表に出すことは少ない。自分達に向けられたわけでもないのに、周りを囲む敵兵達が思わず後ずさる。
「……“チビ達”と約束してんだよ」
「…………」
リオンの問いかけには答えずにそう切り出すジェイグに、リオンは眉をわずかに持上げたものの、無言で先を促す。
「あいつらの村だけじゃねぇ……戦いに出る親父さん達も全員守るって、生きて連れ帰るって約束してんだよ。だからよ、ここで後ろに下がるわけにゃあいかねぇだろ?」
大剣を担いだまま肩を竦めてみせるジェイグ。冗談を言うような口ぶりと態度だが、大きな背中からは熱い闘志と強い覚悟が溢れている。
「……その約束は、家族との誓いよりも大事なのか?」
黒の翼の六人以外の全てを失ったあの日……全てを奪った連中への復讐をと誓ったあの夜に、リオン達はもう一つの誓いを立てている。
――六人全員で生き残る。たとえ他の何を犠牲にしても……
その誓いは、復讐を果たした今であっても、決して変わることはない。たとえ危険な旅の中であっても……いや、危険があるとわかっているからこそ、その誓いは守られなければならない。他の家族だけでなく、自分の命も粗末にすること、諦めることは絶対に許さない。冒険者パーティーとしての細かいルールなどを決めていない黒の翼において、それは唯一絶対の掟だ。
その掟を、誓いを破るのか? と責めるような視線を向けるリオンに、しかしジェイグは首を横に振ってそれを否定する。
「……本当に危ねぇと思ったら、そん時は従うよ。でも今はまだ戦える。気力も体力もまだ限界じゃねぇ。だからよ、やれるところまでやらせてくれねぇかな?」
肩越しに振り返り、申し訳なさそうに笑うジェイグ。
ジェイグとて、自分達の身の安全を優先するなら、リオンの言う通りにする方が良いということはわかっている。リオンが本当は犠牲など出したくないことも、それでも仲間の身を案じて決断しようとしたことも。
それでも頭の奥から聞こえる声が、手に残る温もりが、自分を見つめる純粋な瞳が、ジェイグを前へと押すのだ。
「頼む、相棒」
そうして、どこかすがるような色と確かな決意を宿して、ジェイグがリオンを真っ直ぐに見つめる。
表情を変えないまま、そんなジェイグの眼を見つめ返すリオン。
戦場のど真ん中で、戦とは別の意味で張り詰めた空気が二人の間を流れる。隙だらけのようで一分の隙も無く、そのうえリオンの放つ殺気と怒気に圧されて敵も迂闊に動けない。まるでそこだけ時間と空間が切り取られたような二人の間の空気は――
「……やっぱりこうなったか」
表情を緩めたリオンのため息と共に跡形もなく霧散した。
「リオン?」
あっさりと怒りを引っ込めたリオンに、ジェイグが眉根を寄せる。
そんな相棒の姿に苦笑すると、会話の間に溜めていた魔力を使って魔法を発現。戦闘の再開を宣言するように、空中に無数の氷の矢を浮かべる。
「何年の付き合いだと思ってるんだ。お前がそう言いだすことくらいわかってたさ」
「はぁっ!? ちょ、じゃ、じゃあ何で!?」
ジェイグがビースト達のために、ギリギリまで後退を渋ることはわかっていたと告げるリオンに、ジェイグが目を剥いて大声を上げる。
「譲歩は一度までってことだ」
「何を……」
隣に歩み出たリオンが表情を引き締め、驚くジェイグを横目にそう告げる。
同時に氷の矢を射出した。四方八方に拡散して飛ぶ氷塊に、こちらの隙を窺っていた敵兵達が対応に追われる。
「本当にギリギリの場面でごねられると困るからな。一度こっちが譲歩しておけば、さすがに二度目は言い出せないだろう」
淡々と、先程の問答の理由を語るリオン。そこでようやくジェイグの顔にも理解の色が浮かんだ。
自分やミリルなどと違い、ジェイグは家族を優先しつつも他者を切り捨てることをすぐに割り切れる人間ではない。それが情の移った相手であればなおさらだ。リオンが選択すれば最終的には従うだろうが、それでもギリギリまで迷い、別の道を探そうとするだろう。
だが本当にギリギリの場面で、今のような問答をしている余裕があるとは限らない。
だからこそまだ余裕がある状況で、一度譲歩し、ジェイグの願いを聞き入れた。いわばジェイグはリオンに借りを作ったようなものだ。無理を言ったという負い目もある。そして次は無いと告げた。これでジェイグはビースト達を見捨てることになっても、次のリオンの指示を受け入れざるを得ない。そうなるようにリオンが仕向けた。
そうすることで、いざという時のリスクを減らせるように。
そうすることで、いざという時にジェイグが少しでも罪悪感を覚えないように――
「……ズリィぜ、相棒」
そんなリオンの冷酷さと優しさを、ジェイグが拗ねたように苦笑して非難する。
いつものように肩を竦めたリオンが、その瞳にわずかな憂いを宿してジェイグへ顔を向ける。
「それに、お前のことだ。あの子達に、“あいつら”の姿を重ねてるんだろ?」
「! …………やっぱわかるか?」
「当たり前だろ? そんなのお前があの子達を“チビ達”なんて呼んでる時点ですぐに気づいたさ」
リオンの指摘に、一瞬だけ目を見開いた後、降参だとでも言うように悲し気な苦笑いを浮かべるジェイグ。この場に他の仲間がいれば、二人同様に悲痛な表情を浮かべただろう。
ジェイグがかつて“チビ達”という呼称で呼んだ“あいつら”とは、黒の翼全員の妹、弟達。五年前の夜に、リリシア先生と一緒に殺され、炎に包まれた黒フクロウの家の子供達の事だ。ティア以外のメンバーは、年の離れた妹弟達をまとめて“チビ達”と呼んで可愛がっていた。
「とにかく、あの子達を悲しませるのが嫌なら、まずはこいつらをどうにかしろ。もう次は無い。これで次も迷うなら、その時は気絶させてでも連れて行く」
ジェイグの不満や感傷を冷たく切り捨てて、リオンは刀を鞘に納めて構えを取る。
そんなリオンの言葉を、ジェイグはハッと笑って切り捨てる。
「オメェにばっか背負わせてたまるかよ」
もしもジェイグがまだ迷いを見せれば、リオンは躊躇いなくそれを実行するだろう。そうなればビースト達を見捨てた責任を、全てリオンが背負うことになってしまう。
五年前の炎の夜のように……
そんな重荷をまたリオン一人に背負わせる。そんなこと許せるはずがない。
「まぁ、そんな心配は無用だぜ。ここはぜってぇ守り抜く! オメェにもあいつらを切り捨てさせたりしねぇ!」
また一つ戦う理由が増えたと意気込んだジェイグが、大剣片手に突進を仕掛けた。
リオン達が退くのか攻めるのか。どちらを選択しても対処できるようこちらの様子を伺っていた白銀の騎士達は、ジェイグの突進を迎え撃つべく構えを取る。ジェイグの力は脅威だが、四人がかりでならばいくらでも料理できる。そう判断したのだろう。
四人の注意がジェイグに集中する。
だがその瞬間を狙いすましたかのように、漆黒の影が雷光のような速度で前を走るジェイグを追い抜いた。
エメネアの将軍シューミットを打倒した突進技、『刹那』を使ったリオンだ。
風魔法による反動で驚異的な加速をし、その速度を維持したまま騎士の一人に抜刀術を叩きこんだ。
完全に虚を突かれながらも、騎士が剣を盾にできたのは敵の練度の高さゆえだろう。
しかし胴を丸太のように斬られるのは回避したものの、攻撃を受けた騎士はバードレオの突進を食らったように吹き飛んだ。盾にした剣は半ばから切断され、鎧にも切れ目が入っているが、斬った感触的に肉までは届いていないだろう。味方に受け止められたため、吹き飛んだダメージもそれほどでも無さそうだ。少し経てば戦線に復帰してくるだろう。
それでもリオンの攻撃速度と威力、さらには仲間の一人が弾き飛ばされた衝撃に、残された白銀の騎士達の間に動揺が走る。
そしてそれは迫るもう一人の敵の存在を、一瞬とはいえ確かに忘れさせた。
「オラァッ!」
「っ!?」
自身の背丈を超えるほどの長さの大剣を振り下ろすジェイグ。
ギリギリでジェイグの接近に気付いた騎士が剣を頭上に掲げて受け止めた。だが無理な体勢で防いだため、ジェイグの剣が肩口に触れそうな距離まで押し込まれている。
そのまま押し切ろうとジェイグが剣を握る手に力を込め……その直前で横合いから別の騎士が攻撃を仕掛けてきたため、ジェイグは攻撃を中断して敵から距離を取る。
「へっ! やっぱさっきまでの奴らとはちげぇな。簡単にはやられてくれねぇ――っ!?」
こちらの連携による奇襲をもってしても敵にダメージを与えられなくなった。
そのことにジェイグが苦虫を噛み潰したように、表情を顰め――直後、弾かれたようにその顔を上へ向けた。
敵陣営から複数の魔法が、敵の頭上を飛び越えて上空から降ってきたのだ。その軌道ゆえ、ジェイグの反応が一瞬遅れてしまった。
それらは開戦時に放たれたものとは異なり、量よりも質を重視したらしい。数は十にも満たないが、威力は先程とは比べ物にならない。またタイミングや着弾位置をズラすことで、回避も難しくなっている。
「やらせるか!」
だが自身が相手をすべき敵を弾き飛ばし周囲の状況を探る余裕のあったリオンは、ジェイグよりも早くその攻撃に気付いていた。
ジェイグと魔法の射線上に跳び上がると、空中で刀を縦横無尽に振う。巨大な岩槍を一刀両断にし、氷塊は弾いて炎弾と相殺。高速で迫る紫電は自身の水魔法で軌道を反らし、唸る風刃は剣閃を合せることで切り払った。
「ちぃっ!」
だがいくらリオンでも、これだけの高威力の魔法全てを無傷で切り抜けるのは困難だ。着弾位置のズレたものは見逃し、自分達の脅威となるものだけを選定することでどうにか直撃は回避したが、魔法の余波までは防げず、身体のあちこちに軽い裂傷や火傷を負ってしまった。
そこへ地上から騎士の一人が追撃を仕掛けてくる。
それはリオンの迎撃の隙を狙ったもの。しかも空中で動きが制限されているため、確実に仕留められると踏んだのだろう。
だがリオンを相手にその判断は、間違いと言わざるを得ない。
「甘いな」
天脚で宙空を踊るように移動したリオンは、跳び上がってきた敵の背後へ回り込むと、白銀の騎士の背中を鎧ごと斬り裂いた。
「悪いが、空は俺の領域だ」
何もない空中に立つリオンが、肩越しにこちらへ驚愕の視線を向ける騎士を見下ろし、口元を吊り上げてそう宣言する。
バカな、とでも言うように口をパクパクと開閉させながら、白銀の騎士の一人は真っ直ぐに地上へと墜ちて行った。
(さて、一人は倒したが……)
空中に立ち、戦場を俯瞰する。
ジェイグを守るため多少の傷を負ったリオンだが、戦闘に支障をきたすほどではない。
それは地上にいるジェイグも把握しているのだろう。単にリオンを信頼しているだけかもしれないが、白銀の騎士二人を相手に戦い、優勢を保っている。
(俺がふっ飛ばした奴も復活するか……)
視界の端で、リオンの“刹那”で得物を失った騎士が、仲間から剣を受取って戻ってこようとしている。奴が仲間と合流すれば、さすがのジェイグも不利になるだろう。そうなる前に、リオンがそれを阻む必要がある。
(だが、またさっきにみたいな横槍が入れば、追い詰められるのは時間の問題だな)
マナの消費の問題で、さっきのような魔法攻撃を連発される心配はない。
だが先程までとは違い、敵の最前列に位置する連中は精鋭揃いだ。四騎士全員が前に出ている間は、四人の連携を乱さぬよう援護に徹しているが、一人が欠けた今、奴らも前に出てくるだろう。そうなれば質を高めた数の猛攻に晒されることになる。
そして魔法で牽制しても、大したダメージにはならないだろう。わずかに敵の攻撃の時間を遅らせるだけだ。時間稼ぎとしても効果は薄い。
ならば、どうするか?
その答えは、リオンの渋い表情が物語っていた。
「……仕方ない、うちのじゃじゃ馬姫に助けてもらうとするか」
そういって空いた左手でベルトのポーチから取り出したのは、銀色に光る円筒形の物体。前世にあったコーヒーのスチール缶のような大きさのそれを、指の間に挟むようにして二つ握っている。
ミリル特製&リオン用魔導兵器『荒れ狂う氷刃』
ミリル特製はいつものことだが、リオン用とはどういうことか。
通常、魔導具というのは何らかの属性の魔石を用いて作られる。魔石というのはその属性に変質したマナが結晶化したものだ。魔石を砕けば、内包されたマナがその属性に合わせた事象を引き起こし、魔力を通せば使用者の適性属性に関わらず、内包されたマナの属性魔法を発動できる。魔術陣を施せば、発動する魔法の形を変更することも可能だ。
例えば魔空船は様々な魔石を利用して動いている。動力部は火や風や雷の魔石を燃料としている。魔導灯は光の魔石を用い、料理用コンロは火の魔石を。重量削減のため、船内で使用する水は水の魔石から生成している。現在、仲間内で魔空船を操縦できるのはミリルだけだが、方法さえ覚えれば操縦自体は誰でも可能だ。
そのように誰でも利用できる魔導具だが、使用者の適性が全く無関係という訳ではない。
使用者の適性と同じ属性の魔石は、魔力の運用効率が高くなるのだ。発動に必要な魔力量は少なく、他の属性持ちよりも威力が向上する。使用者からしても、普通に魔法を使うよりも“少ない”魔力で“高威力”の魔法を“短時間”で放てるうえ、マナは魔石で補うので自然に存在するマナを消費することもない。自身の魔法を重ねることで相乗効果も見込めるだろう。
リオンの適性属性は、『水』と『風』。ミリルの事前の説明と物騒なその名前からして、リオンとの相性は最良なのだろう。敵への効果については心配はいらない。敵の主力が前に出てきている今ならば、間違いなく敵に大ダメージを与えることはできるはずだ。
もっとも、普段の彼女の暴れっぷりを見ているリオンからすれば、一抹の不安を感じずにはいられないが……
(本当に大丈夫なんだろうな……味方まで巻き添えにしたらシャレにならないぞ……)
敵へ与えるダメージについては心配していない。
だが威力の“高さ”については、別の意味で心配が伴うのがミリルの魔導具の怖さだ。
まぁ使用方法に注意が必要なのは、兵器であれば当然の事なのだが。
「おっと!」
空中でそんな考え事をしていたリオンを狙って、弓と魔法による攻撃が放たれた。圧縮した空気を足場にして跳んだリオンは魔法を全て回避し、矢は風魔法で射線を逸らす。
何とか無傷で切り抜けているが、度重なる天脚と風の防壁の使用で空中のマナは枯渇寸前だ。このままずっと同じ方法は使えない。マナが切れれば空中での移動もできず、恰好の的となってしまうだろう。
「使わせてもらうぞ、ミリル!」
起動の魔術陣に魔力を通し、中空を跳び回りながらも、敵の攻撃のわずかな隙間を狙って『荒れ狂う氷刃』を投擲した。
二つの魔導具は矢の雨の間を一直線に飛んで行く。
そして敵陣の中空へ到達し――
――炸裂。
圧縮加工された高純度の風と水の魔石が、リオンの膨大な魔力を吸って膨張。溢れ出したマナが魔術陣によって形を作り――。
――戦場に小さな嵐が生まれた。
吹き荒ぶ暴風は無数の氷刃を内包しており、それらが嵐の内側に呑み込まれた連中の全身を切りつけていく。地表を転がる石ころや、敵の手を離れた武器までも巻き込み、嵐の外へと弾丸のように弾き飛ばす。
さらには空気中の水蒸気を氷刃へと変えるほどの冷気が猛威を振るう。極寒のブリザードは、暴風の外にいた敵の体温と体力を奪っていった。
それはもはや天災とも思えるほどの凶悪さ。巻き込まれた敵兵にとっては悪夢のような光景だろう。
「………………(パクパクパク)」
「正直、ここまでとは……喜べばいいのか、呆れればいいのか、判断に苦しむな」
地上に降り立ち、ジェイグの傍までやってきたリオン。魔導具のあまりの威力に言葉を失っている相棒に愚痴を溢す。
やがて吹雪が収まると、そこには凄惨と表現すべき状況が広がっていた。
暴風の爆心地にいた兵士は、冷気によって凍り付いた身体を氷塊と石礫によってズタボロにされている。渦巻く風に巻き上げられた死体や千切れた体の一部が、未だに戦場に降り注いでいる。嵐の外にいた連中も被害は免れず、死傷者は百に届くかもしれない。
ジェイグと対峙していた白銀の騎士達も、こちらへの警戒は維持しつつも、『荒れ狂う氷刃』が巻き起こした惨状に驚愕の眼を向けていた。
「リオン、俺、決めたぜ」
「……何を?」
「俺、この戦いが終わったら、ミリルに魔道具作りをやめさせる!」
「……勝っても負けても死ぬような発言は止めておけよ」
決然とした表情で死亡フラグのようなセリフを吐くジェイグに、心情的には同調したくなりつつも一応ツッコミを入れておく。もっともしっかりフラグをへし折っても、あのミリルを止められるとは思えなかった。
「とはいえ、これで少しは戦りやすくなっただろう。このまま一気に攻め切るぞ」
「おう!」
敵の戦線に亀裂を入れ、動揺が走っている今が最大のチャンスだろう。リオンの号令にジェイグが気勢を上げる。
だが未だ最精鋭であろう騎士は三人健在であり、敵兵もまだ六百人以上残っている。
かたやこっちは二人だけ。魔力も体力も少しずつ疲れが見え始めている。おまけにリオンはさっきの空中戦で負傷を追っている。戦況は圧倒的にこちらが不利と言えるだろう。
それでもまだ戦えるだけの力はある。自分達とは違う形で戦っている仲間もいる。まだここが“引き際”ではない。
もっとも、これが最後の戦い――最後の抵抗になるだろう。
そう確信しつつ、リオンはジェイグと共に戦場へと駆けだした。