深緑の女帝
「なぁ、何かこいつらの様子、おかしくなかったか?」
積みあがった魔物の死骸を前にしゃがみこんだアルが、首だけで背後に立つリオンを振り返って訊ねる。先ほど遭遇した魔物の群れは三十分ほど前に一掃した。現在はその死体を焼却するために、魔物の死体を一か所にまとめ終えたところだ。
「これだけの種類の魔物が徒党を組んでたくせに、攻撃は単調な突撃だけ。それに、仲間が半分以上もやられてからも、こいつら何の躊躇もなく突撃してきた。まるで死ぬことを全く恐れてないみたいに……」
魔物は基本的に凶暴ではあるが、それなりの知能はある。仲間同士で連携したり、敵を罠に誘ったり、自身の特性を活かしたり、敵との力の差を図ったり。もちろん魔物の種類によって差はあるが、確かにアルの言う通り、連中の動きは不自然過ぎた。特に生存本能というのは、魔物や動物に関わらず全ての生物に共通する。下級の魔物ばかりとはいえ、半数も仲間が殺されれば、間違いなく逃亡する魔物も出てきたはずなのだ。
「これもリオンが言ってた心当たりと関係あるのか?」
「……あぁ、おそらく……いや、ここまでくればほぼ間違いないと思っていいだろうな」
リオンにしては珍しく、言いよどむような間があった。その事実が、アルに事態の深刻さを思い知らせる。
(正直、心当たりがあると言っても、まだ半信半疑だったんだがな……)
そもそもリオンがその可能性に行きついたのは、ちょっとした偶然。子どもの頃、リリシア先生から聞いた冒険者時代の話の中に出てきた魔物のことを、思い出しただけだ。その魔物の事件自体が、ギルドの無い異国でのことだったうえ、そもそもかなり珍しい事例だったらしい。そのため冒険者でもその魔物を知る者はほとんどいない。
シルヴェーヌならばもしかしたら知っているかもしれないが、エクトルからの情報だけで、そんな稀有な事例に思い至るのは困難だろう。
「すまないが、詳しい話はまたお預けだ。今は急いでこの場を片付けて、町に戻るぞ」
「アネットさんの捜索はいいのか?」
アルが一瞬だけ森の奥へと視線を向ける。調査を始めてからまだ二時間ほどしか経っていない。できることなら、もう少しアネットの捜索を続けたいのだろう。
「ああ、残念ながら、これ以上二人だけで森の奥へ行くのは危険だ。調べたいこともあるし、シルヴェーヌさんにも報告が必要だ。それに隣の町に向かったティア達も急いで呼び戻さないとな」
「わかった」
リオンの説明に、アルが今度は迷わず首肯した。そして魔物の遺体を焼却すべく、アルが周囲のマナに干渉していく。
「おっと、その前に」
魔法の準備を進めるアルを横目に、リオンは魔物の死体の中からオークの死体を一体選び、その首をサーベルで切り裂いた。大きな牙を生やした豚の頭部が、死体の山をゴロゴロと転がり落ちる。
「素材の回収なんてしてていいのか? 急いでるんだろ?」
オークの首を拾い上げ、大きめの皮袋に血抜きもせずに放り込むリオンに、アルが怪訝な表情を浮かべる。もっともマナへの干渉は続行中だが。
ちなみにオークの場合、鼻がギルドへの討伐証明部位になっている。あと売れるのは牙と毛皮くらいなので、オークを倒してもあまりお金にはならない。
「素材のためじゃない。ギルドへの報告に必要なんだ」
皮袋の口を紐でしっかりと縛り、リオンも魔法の準備を始める。今回は地属性持ちのジェイグがいないので、死体を燃やすための穴を作ることができない。平野であればあまり気にする必要もないが、ここは森の中だ。森への延焼を防ぐために、リオンも水の魔法を使う必要がある。
数秒の後、アルが魔法を発動させる。燃え広がらないような大きさにし、その分中心部はよく燃えるように調整された炎が、死体の山を包み込んでいく。それと同時にリオンが炎の周囲、火を消してしまわぬような絶妙な距離で水の膜を張る。魔法のコントロールに長けた二人だからできる芸当だ。
数分もかからずに五十体近い魔物の体は全て真っ黒な灰になってしまった。リオンが消火したあと、アルが風で灰を吹き飛ばせば、そこには黒く焦げた地面だけが残されていた。
「よし、じゃあ急いでガルドラッドのギルドに戻る。遅れるなよ」
「足の速さなら、リオンにだって負けないっての!」
「魔物討伐数は勝てなかったけどな」
「だ~! それを今言うな~!」
そんな軽口を叩き合いながらも、二人は高速で森の中を駆け抜けていった。
「待たせて悪かったね。ここのところ立て込んでてね。それにまさかあんた達の方から面会を申し出てくるとは思わなかったからさ」
「いえこちらこそ、お忙しいところ無理を言ってしまい申し訳ありません」
ギルド職員の案内でギルドマスターの執務室に通されたリオンとアルの二人。部屋の主であるシルヴェーヌは書類に目を通したまま二人に声をかける。
あのあと、全速力でガルドラッドに戻ってきたリオンとアルは、ジェイグ達のところには戻らず、真っ直ぐにギルドへとやってきた。時間的にはまだ夕刻前。まだ依頼報告の冒険者でギルドがごった返す前だったので、ギルド内にそれほど人はいなかった。
すぐに受付でギルドマスターであるシルヴェーヌへの面会を申し込んだのだが、多忙であるシルヴェーヌにすぐに会うのは、やはりそう簡単にはいかない。内容にもよるだろうが、通常であれば二、三日は待たされてもおかしくない。二級冒険者であるリオンの至急の要件ということで、かなり融通を効かせてくれたのだろう。今も机の上には書類の束が積み重なっており、会話を続けながらもその目と手は忙しなく動いている。
「悪いが、もうちょっとで一区切りできるんだ。それまでは仕事しながらで勘弁しておくれ」
「構いませんよ。こちらもこれ以上報告を遅らせたくはありませんし」
二級冒険者であるリオンがこれほどに報告を急ぐ案件ということで、シルヴェーヌの目にも真剣な光が宿る。
「それで? あの坊やの連れを探してたはずのあんた達が、一体あたしに何の用だい?」
リオン達が、正式にエクトルの依頼を受諾したことは既に知っていたようだ。忙しいのは確かなはずだが、上級の冒険者の動向を知っておくのも仕事の内なのだろう。
書類からわずかに視線をこちらに向けてくるシルヴェーヌに、リオンは一歩だけ近づいてその目を見つめる。
「『深緑の女帝』をご存知ですか?」
リオンの問いかけに、書類にサインを書き込んでいたシルヴェーヌの手がピタリと止まる。
「……ずいぶん懐かしい言葉が出てきたもんだねぇ」
言葉とは裏腹に、その表情には昔を懐かしむような和やかさは欠片もない。若い頃の苦い思い出を強引に引きずり出されたような表情で、シルヴェーヌがリオンを睨む。
「最後にそいつが現れたのは、確か三十年くらい前だ。あんた、年は十七だったね? いったいそんな言葉、どこで聞いたんだい?」
「昔、知り合いの冒険者から」
リリシア先生の名は出さない。シルヴェーヌは長命なダークエルフであり、リリシア先生が現役の頃にも冒険者、あるいはすでにギルドマスターをやっていたはずだ。もしかしたらリリシア先生の事を知っているかもしれない。別にリオン達とリリシア先生の関係を隠す必要は無いが、エメネアの一件から日も経っていない以上、その辺りについて聞かれるのは避けたい。
シルヴェーヌもリオンの情報源については、それ以上追及はしてこなかった。
「なぁ、その深緑の女帝? ってのは何なんだ?」
リオンとシルヴェーヌの会話を黙って聞いていたアルが、やや不満そうな顔で訊ねてくる。どうやら自分だけ蚊帳の外に置かれているような状態が気に入らなかったらしい。
町に戻るまでの道中では会話ができたのは最初の方だけ。リオンが速度を上げるとアルに会話をするだけの余裕が無くなったので、説明している余裕は無かった。足の速さはアルもかなりのものだが、入り組んだ森の木々の間を、リオンのようにトップスピードを維持したまま駆け抜けるのはアルには難しい様だ。
また、シルヴェーヌとの面会までの待ち時間も、リオンはガルドラッドを離れたティア達へ伝令を頼んだり、ギルドに用事を頼んだりしていたので、アルに先に説明しているだけの時間が無かったのだ。
もっとも案内のために付いてきて、今もリオン達のためのお茶を入れているギルド職員も頭にハテナマークが浮かんでいるので、アルの仲間だ。それを言ったところでアルが納得するはずもないが。
「深緑の女帝は、アルルーンカイゼリンという魔物の異名だ。と言っても、数十年に一度くらいしか現れないから、ほとんどの冒険者は知らないがな」
魔物の正式名称を聞いたギルド職員が、驚きのあまりカップを落としそうになっていた。どうやら異名は知らなくても、そのアルルーンカイゼリンという魔物については知っていたようだ。
魔空船が普及し、情報の流れが加速した現在であれば、異名の方も知れ渡っていたのかもしれない。だが先ほども言った通り、女帝が最後に現れたのは魔空船ができるよりも十年以上前。冒険者ギルドも広まっていなかった時代だ。シルヴェーヌのように、古くから冒険者として世界中を旅していたのなら知っていてもおかしくはないが、普通のギルド職員がその名を知らなくても無理はない。
一応ギルドには、世の中で確認されている魔物の資料はほとんど揃っているはずだが、一部で使われているだけの異名までは書いていないのだろう。もし書いているのならば、この場にいるギルド職員が知らないはずがない。
何故なら……
「ただし、危険度は一級だ」
「なっ!? 一級!?」
リオンの説明に、今度はアルが大声をあげる。
危険度というのは、その魔物の討伐ランクを決める指標の一つだ。ギルドが定めており、その他の指標には強さ、発見難易度、希少性などがあり、それらを総合して魔物の討伐依頼のランクが決定される。
なぜこれらの指標が用いられるかというと、強力な魔物が必ずしもその魔物が危険と判断されるとは限らないからだ。この世界で強い魔物を訊ねられれば、誰もが龍を思い浮かべるだろう。種類にもよるが、強さのランクは平均で三級。古代龍ともなれば、強さは紛れもなく一級となるだろう。
しかし、龍の危険度に関しては、五とそれほど高くはない。なぜなら龍は基本的に自分の生息域から出ることは無く、人里を襲うことが無いからだ。魔空船の飛行ルートにさえ気を付ければ、人間の生活に害は無い。
つまり危険度とは、人間の生活への影響が高い魔物の方が、ランクも上になるということだ。積極的に人間を襲ったり、有害な毒ガスを撒き散らしたりするような魔物の方が危険度は高く、優先的に討伐対象となる。
「強いのか?」
「いや、女帝自体はさほど強くはない。そこらの下級冒険者でも、数人いれば倒せるだろう。だが、女帝が危険視されるのは、女帝が持つある能力のせいだ」
「ある能力?」
オウム返しをするアルにゆっくりと頷いて、女帝の能力を告げる。
「奴は魔物を操る。それも魔物の強さに関係なく、な」
それがどれだけ恐ろしい能力かは、アルにも十分理解できたのだろう。戦慄した表情でゴクリと唾を飲み込んだ。
書類作業の手を止めたシルヴェーヌが、リオンの説明を引き継いで続ける。
「しかも女帝は、他の生物の魔力を糧とする。魔物よりも高い魔力を持つ人間やエルフなんてのは、奴にとっては格好の餌だね。魔物を大量に使役し、人里を襲って食料を確保。しかも捕らえた者達は決して殺さず、麻痺毒で身動きを封じる。そうして死なない程度に魔力を奪い、死なないように適度な栄養も与える。まさに生殺し。生き地獄と言ってもいいかもしれないね」
状況を想像したのだろう。青い顔をした職員がブルリと体を震わせる。アルも表情を歪めていたが、アルの顔に浮かんでいるのは恐怖ではなく、嫌悪だった。
「人間が操られたりはしないのか?」
「ああ、そういった事例は確認されていない。どこかの学者の説だが、どうやら知能がある程度高い生物は操れないらしい。とはいえ、それでも十分な脅威だがな。以前そいつが現れた時には、サイクロプスやミノタウロスみたいな高ランクの魔物も数体従えていたらしい」
サイクロプスは一つ目の巨人。体長は大きいものだと十メートルにもなる。ミノタウロスは牛の頭を持った人型の魔物だ。こいつも体が大きく、体長は四、五メートル近くある。どちらもその巨大な体から繰り出される一撃の威力は驚異的。そしてどちらも四級に分類される。
一体ずつであればリオン達なら倒せる相手ではある。しかし、そいつらが集団で襲ってくるとなると状況は違う。しかも、当時は他にも多種多様な魔物が女帝の駒となっていたらしい。そんな状況下では、たとえ今のリオン達でも勝つことは難しいだろう。
「それで? あんたの口からその言葉が出るってことは、女帝が出現した兆しでも確認したのかい?」
「ええ。ついさっき……」
リオンとアルが先ほどの魔物の群れの事を説明する。多種類の魔物の群れの出現、死を恐れぬ愚直な突撃。それらの魔物の行動は全て女帝が出現したときの兆候だ。話が進むにつれてシルヴェーヌの眉間に深いしわが刻まれていく。
「それと操られていたであろう魔物の頭部も持ち帰り、ギルドに提出。解剖を頼んであります」
「それは助かるねぇ。もし本当に女帝が現れたなら、事態は一刻を争う。なるべく早く緊急依頼を出したいからねぇ」
女帝に操られた魔物の頭部からは植物の胞子のような物が見つかるらしい。おそらくその胞子が魔物を操る成分なのだろう。
「しかし、魔物の不審な行動だけでよく女帝の存在に気付けたねぇ」
「あれ? 魔物の群れに出くわす前から、リオンはその女帝の存在を疑ってたんじゃなかったか?」
首を傾げるアルの発言に、シルヴェーヌが「どういうことだ?」とでも言うようにリオンに視線を向ける。
「昨日、エクトルの話を聞いた時から、その可能性を疑っていました。その時はまだ可能性は低かったので、口には出しませんでしたが……」
昨日、エクトルから馬と荷馬車のことを聞いた時に、その可能性が浮かんだ。操られた魔物は、捕らえられた人間と同様に女帝の出す蜜を与えられる。操る魔物の食事を用意する必要が無いため、魔力を持たないただの動物には一切興味を示さない。かつて女帝に襲われた村では、人間だけが神隠しにあったように忽然と姿を消し、ペットや家畜だけが残されていたらしい。
「それだけの情報で、こんな希少事例を疑ったと?」
「いえ、もちろんそれだけの情報で女帝の出現を疑ったわけではありません。ただ、シルヴェーヌさんから頂いた情報もありましたので」
「あたしの?」
シルヴェーヌが自分の発言を思い出すように目線を上に向ける。だが、シルヴェーヌにもどの情報が女帝に結びつくのかはわからないだろう。
「一か月前にあったという土砂崩れのことですよ」
リオンの返答に、シルヴェーヌがなおさら意味が分からないというように眉を顰める。だがそれも仕方のないことだろう。というのも、リオンが女帝の存在を疑うに至った情報は、公式の見解ではなく、あくまでリリシア先生の推測でしかないからだ。
女帝という魔物の出現理由には、いくつかの説がある。未開の秘境や魔境に住んでいた女帝が、何らかの理由で人里に現れたという説。マナの濃度の高い土地でマナを吸収し続けた植物の魔物化。自然環境の突発的な変化による突然変異など、様々な説がある。
そんな中、リリシア先生は、魔力を持った生物の死体や血液が植物を魔物化するという説を有力視していた。
なんでも、前回の女帝の出現の一か月ほど前に、その地方の山間の集落付近で落盤事故が起こり、多くの人や魔物が落盤の下敷きになったという。その犠牲者達の魔力を含んだ血液を吸った植物が深緑の女帝になったのではないかと考えていたらしい。
他にも、過去に女帝が現れた場所の近くに大規模な処刑場があったとか、戦争の舞台になった草原の近くに出現することもあったという。記録が少ないので、仮説を実証するのも、他の条件を見つけるのも難しいのだが。
また、古代の文献の中に、女帝の存在を匂わせる記述があったらしい。その古代の文明には、生贄の儀式があったらしく、多くの人間が森の奥の祭壇で殺されたという。その説を提唱した学者は、女帝がその祭壇付近で生まれたと考えていたらしい。
余談だが、その古代の文明は、その女帝と思われる魔物に滅ぼされたそうだ。
「なるほどねぇ。その仮説を聞いていたから、女帝の存在に辿り着けたというわけかい」
納得した、とでも言うようにシルヴェーヌが頷く。
ちなみにリリシア先生がその仮説を信じていたのは、実際に三十年前の事件を体験しているからだ。
実は前回出現を確認された女帝を倒したのは、当時現役冒険者だったリリシア先生とその仲間なのだ。もっともその頃、その地方にはまだ冒険者ギルドは無かったので、ギルドの方には詳しい情報が流れていないらしいが。
「それにしても、前回の女帝出現の時に活躍した冒険者かい……ぜひとも会って詳しい話を聞いてみたいもんだ」
「……残念ながら、もうその方は……」
「……そうかい……それは残念だねぇ」
リオンの表情の変化を敏感に察したシルヴェーヌが、それ以上この話を続けることは無かった。一度だけ肩をすくめると、すぐに表情を真剣なものに切り替える。
「確かに、女帝の兆候が出ているのは間違いないようだね。あんたが持ち帰った魔物の頭の検査結果が黒だった場合、すぐに緊急依頼を出す。魔物の討伐や調査に向かった高ランクの連中も、可能な限り呼び戻すとしよう」
「わかりました。よろしくお願いします」
自分達の情報をすんなりと信じてもらえたことに、安堵の息を吐くリオン。深緑の女帝などという非常に珍しい事例だ。しかも女帝の出現が事実ならば、ガルドラッドだけでなく、ラナーシュという国そのものを揺るがす事態にも発展しかねない。必要以上に慎重な対応を取られたり、リオン達に懐疑的な態度を取られたりすることもあるかと思っていたのだが、シルヴェーヌにはいらない心配だったらしい。
リオンがそんなことを考えている間にも、シルヴェーヌがその場にいた職員に迅速な指示を出していた。指示の内容は大規模な討伐依頼を実行するための準備だ。それと冒険者を招集できるように伝令を手配すること。また、検査の結果が出るまで、混乱を避けるために情報は漏らさないことを言い付けていた。
その指示を受けた職員は大急ぎで執務室を飛び出していく。職員への指示を終えたシルヴェーヌは、「しかし……」と前置きをして、リオン達の方へ視線を向けた。
「あんたの言うその仮説が正しいとなると、あんまり猶予は残されてないかもしれないねぇ……」
気だるげに美しい銀髪をかき上げて、シルヴェーヌがそう呟く。
その懸念はリオンも同じように感じていたものだ。目をわずかに細め、リオンはゆっくりと頷く。そんな二人の様子を、アルが少し不安げな表情で眺めていた。
西の方で土砂崩れが起こったのは一か月前。前回の女帝出現時も、落盤事故から一か月ほどで女帝は人里を襲っている。リオン達が五十体近い魔物の群れに遭遇したことを考えると、すでに女帝は人里を襲うだけの魔物の駒を揃えているかもしれない。
「残念ながら、あの坊やの依頼は一時中断だ。検査結果が出るまで、あんた達は町で待機してもらう。もし緊急依頼を出すことになれば、上級冒険者パーティーのあんた達には先頭に立ってもらうことになるからねぇ」
「ええ、問題ありません。隣町に向かった仲間にも、すぐに戻るように伝令を出してあります。宿か他の仲間と共に依頼者の工房にいますから、検査の結果が出次第そちらへ連絡を」
助かるよ、と疲れたような表情で礼を言うシルヴェーヌ。ただでさえ忙しいところに舞い込んだ凶報に、頭の痛くなる思いをしているのだろう。別にリオンに落ち度は無いのだが、何となく自分達が来てからシルヴェーヌの負担が増えたような気がしてしまう。実際、シルヴェーヌはリオン達の動向にも気を配っていたようなので、あながち間違いではないのかもしれないが。
とはいえ、リオン達もこんな危険な魔物を放っておくつもりもない。それに女帝が本格的に動き出せば、行方不明者の捜索どころではなくなってしまうのだから。また、おそらくアネットも女帝に捕まっているはずなので、女帝の討伐は結果的にはエクトルの依頼を達成することになるだろう。
最後に、リオンは自分達が宿泊している宿の名前をシルヴェーヌに告げて、執務室を後にした。
「さてと……ギルドでの用事はこれで全部だ。一度、ジェイグ達のところへ戻るぞ」
ギルドの玄関へと歩を進めながら、アルへ指示を出す。アルは何も言わずにリオンの後を付いてきた。
ギルドのロビーには、昨日よりも多くの冒険者が訪れていた。時刻はすでに夕方。依頼を終えた冒険者が報告に訪れたり、併設された酒場へと集まりだす頃だ。
受付に並ぶ冒険者たちを横目に、リオンとアルは出入り口へと歩を進める。
だが――
「た、大変だ!」
そんなギルドの賑わいをかき消すように、木製のドアが乱暴に押し開けられ、ギルドの中へ男が一人飛び込んできた。どうやら冒険者ではなく、ラナーシュの兵士のようだ。ガルドラッドの門の警備兵と装備が少し違うのは、おそらく彼が町の外を担当しているからだろう。街道沿いにもいくつか警備のための関所があるので、そこから来たのだろう。
どうやらここまで全速力で走ってきたらしい。鬼気迫る表情を浮かべる顔には大量の汗が流れ、激しい息切れを起こしている。
「何かあったんですか?」
たまたま入り口傍にいた職員の一人が、その兵士に声をかける。兵士はその職員に、いやギルドにいる全ての人間に聞かせるような大声で叫ぶ。
「に、西の森から魔物の大群が!」
兵士の切羽詰まった叫び声に、ギルドの中が水を打ったように静まり返る。誰もが兵士の言った事実を認識しきれていないのだろう。ポカンと口を開けている者。驚愕のあまり目を大きく見開いたまま体を震わせる者。仲間と不安げに視線を交わす者など様々だ。
「魔物の数は?」
そんな中、リオンだけは特に動揺した様子もなく、冷静に兵士に報告を促す。先ほど魔物の群れに遭遇した時から、こんな事態を想定していたので、今更驚くようなことは無い。
声をかけたリオンに、兵士は怪訝な表情を浮かべる。若いリオンのことを新人の冒険者だと思ったのだろう。
もっともその反応も想定内だったので、リオンは声をかけると同時に冒険者カードを取り出していた。自身の冒険者ランクを示すように、兵士の目の前にカードを掲げる。
「に、二級!?」
リオンのランクの高さに、金魚のように口をパクパクさせる兵士。信頼を得るためとはいえ、兵士にとってはなかなかの衝撃だったようだ。とはいえ、そんな兵士の心情を気遣っている余裕は、今は無いのだが。
「それで? 魔物の数はどれくらいだ?」
「せ、正確にはわからない……だが、おそらく五百は下らないだろう……」
兵士の言葉に、ギルド内に動揺が広がっていく。五百を超える魔物の群れなど、一生冒険者をしていても出会うことが無いだろう。ベテランと思われる冒険者でさえも、信じられないといった表情を浮かべている。
だが、驚愕の事実はそれだけでは終わらなかった。
「し、しかも群れの中には、ミノタウロスやバードレオなどの高ランクの魔物も確認されている」
さらなる動揺がギルドを震わせる。比較的若い冒険者は、血の気の引いた顔でその身を震わせている。ベテラン冒険者は何とか気持ちを落ち着けたのだろう。リオンと兵士のやり取りを真剣な表情で見つめていた。
「……そいつらはどれくらいでガルドラッドに着く?」
町の外壁には防衛のための大砲や弩砲などは配備されている。だが高ランクの魔物をそれだけで全滅させるのは不可能だろう。残った魔物は冒険者や町の兵士で殲滅しなければならない。ジェイグやミリルもいるので、殲滅は可能だと思うが、その準備が間に合うのかどうかが懸念事項だった。
しかし、兵士の次の言葉はリオンの予想を裏切るものだった。
「いや、奴らが向かってるのはガルドラッドじゃない……ミュンストルだ……」
これまでずっと冷静な態度を崩すことのなかったリオンの顔に、初めて動揺の色が浮かんだ。
「ミュンストルって、確かティア姉とファリンが向かった町じゃ……」
真っ青な顔で呟くアルの掠れた声が、喧騒に包まれたギルドの中でもはっきりとリオンの耳に届いた。
前回の引きがバトルの始まりっぽい感じでしたが、今回のバトルシーンは丸々カットです。
今のリオンとアルが下級の魔物五十体相手にピンチになるはずもないので……
無双する展開もありですが、それは次回以降たっぷりお見せするので今回は無しです。
感想、ご意見、誤字脱字の報告等お待ちしております。
厳しいご意見なども真摯に受け止めさせていただきます。
よろしくお願いいたします。