夜空の下で
孤児院の裏庭。
丁寧に刈り揃えられた草の絨毯に座りながら、リオンは一人夜の空を眺めていた。
異世界にも月がある。大きさも色も地球と特に違いはない。夜空には星もあれば、名称は違うが星座なんかもあるらしい。
月の満ち欠けの周期とか、星座の名前とか、細かいことはリオンにはよくわからない。地球でも異世界でもそういったことは特に覚えようとも思わなかった。
それでも、夜空は好きだった。昼の空も良いが、満点の星空の下を、月明かりを道標に飛ぶのはどれだけ気持ちが良いだろう。そんな空想に浸る時間が何とも心地良いのだ。
もっとも、それを空想のまま終わらせるつもりはなかったが。
こうやって夜の空を見上げていると、時々地球での生活を思い出したりもする。
空の風景は地球も異世界もそんなに変わらない。たまに羽の生えた猫やトカゲが飛んでいたり、大きな島が空を横切ったりはするが、それがなければ自分が異世界に来たことさえ忘れてしまいそうになる。
(もう前の世界への未練なんて断ち切ったはずのにな……)
前世で自分が死ぬ時には、後悔や未練が溢れて心が溺れてしまいそうだった。
この世界に転生してすぐもそうだ。自分が新たに生を受けたという事実は嬉しかった部分も確かにある。だけど、それで空野翔太としての自分を全て捨てきれるかと言われれば、そういうわけにはいかなかった。
空野翔太の母は幼い頃に病気で亡くなってたし、兄弟もいなかった。恋人とかも残念ながらなし。親しい友人はおり、そいつに会えないのはそれなりに寂しかったが、それが前世への未練になるというほどではなかった。
だけど、ただ一人……自分をたった一人で育ててくれた父親には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。空を飛びたいという夢のために頑張れたのも父のおかげだ。でなければ、小さな子どもがあんなに数多くの武術を習うことなどできなかっただろう。
自分の夢の一番の理解者だった父。そんな父親を残して一人で死んでしまったことは、今でもリオンの心に消えない棘として残っている。
それに知っている者が誰もいないという事実に、寂しさを覚えなかったと言えば嘘になる。地球とは文明レベルも常識も異なるこの世界に、不安になる日もあった。
だが、そんな気持ちも時間とともに薄れていく。砂時計の砂がゆっくりと落ちていくように、少しずつ少しずつ。
今では、前世を懐かしむようなことはほとんどない。たまに思い出すことはあっても、戻りたいと思うことはなかった。
(それは、間違いなくあいつらのお陰だろうな)
先ほどのやり取りを思い出してリオンの顔に自然と笑みが浮かぶ。自分の十二歳の誕生日に、持ちきれないほどの愛情と新たな夢を貰った。自分一人ではなく、仲間と追いかける夢を。
かつての世界にも友人はそれなりにいた。親友と呼べるような間柄の奴もいたが、同じ夢や目標を一緒に目指すような仲間はいなかった。もし事故にあわずに自衛隊学校に入学していれば、そんな仲間とも巡り会えたかもしれない。
だが、それも叶うことはなかった。
だから、ジェイグ達との出会いは、二度の人生で初めての仲間との出会い。
それぞれ目的は違う。それでも同じ目標に向かって歩く仲間がいる。
それがこんなに嬉しいなんて思わなかった。
こんなに胸が熱くなるなんて思わなかったのだ。
(まぁそれで興奮して眠れなくなるんだから……俺もまだまだ子供だな)
体はまだまだ子どもなんだがな、と自分で自分にツッコミを入れる。どうやら興奮しすぎて、思考がおかしくなっているらしい。落ち着いて眠るにはもう少し時間が必要なようだ。
「こんな時間まで起きてて大丈夫か?」
「……ジェイグか」
空を見上げるリオンの視界の端に燃えるような赤い髪が映る。近づいてくる気配には気付いていたので、とくに驚きはしなかったが。
帰るのが遅くなったため、すでに孤児院を巣立っているジェイグとティアも、今日は孤児院に泊まっている。明日は街で少し準備をしたあと、リオンと一緒に冒険者ギルドに向かう予定だ。
「明日は出発なんだから、早いとこ寝た方が良くねぇか?」
「まぁそれもそうなんだがな……」
なんとなく理由を言うのが照れ臭かったので、リオンは適当にはぐらかすことにした。
そもそもジェイグもリオンと一緒に出るのだから、早く寝た方が良いのは同じだ。なのにここにいるということは……結局、どこか似た者同士ということだろう。
ジェイグもそれ以上は何も言わず、リオンの隣で大の字になる。長い手足を投げ出して横になるその姿は、実に大の字を描くのに相応しい図体だ。
二人はしばらくの間、静かに夜の空を見上げていた。
「……なぁちょっと聞いてもいいか?」
それから五分ほど経った頃、ジェイグが声をかけてくる。もっとも視線は空に向けられたままだが。
「何だ?」
問いを促すリオンの声。
ジェイグはしばらく迷うような素振りをみせたあと、おもむろに口を開く。
「一人で行くつもりだったからなのか?」
「何がだ?」
「お前がティアに何も言わなかった理由」
「……やっぱりそのことか」
なんとなく予想はついていた。さっきリオンが一人で行くつもりだったと知ったときから、ジェイグは話を聞くタイミングを窺っていたようだ。だからこそリオンが寝室から出るのに気付けたのだろう。
「ずっとおかしいと思ってたんだよ……お前がティアに気持ちを伝えないのを」
何も言わないリオンを特に気にした様子もなく、ジェイグは淡々と言葉を続ける。
「ガキの頃は、お前がティアの気持ちに気付いてねえと思ってたんだけどな。でも、よ~く考えたらそれはありえねえってわかったんだよ」
「ありえない?」
ジェイグの語る内容に、リオンが眉根を寄せて問いを投げる。
そのリオンの問いに、寝転がったまま視線だけをリオンの方へと向けてきた。
「人一倍頭が切れて、周りをよく見てるお前が、ティアの気持ちに気付かねえはずがねえ」
推測でもなんでもなく、ただ事実を告げるようにジェイグが断言する。
普段は憎まれ口を叩き合っている相棒による直球の褒め言葉と、自分の気持ちを見透かされているような気恥しさから、思わずリオンはジェイグから視線を逸らしてしまった。
「……誰だって自分のことには案外気付かないものだろ?」
「まぁそれもわかるけどな。でも、お前の場合それはありえねえ」
「何故だ?」
またも「ありえない」と言い切るジェイグに、リオンは視線を逸らしていたことも忘れて、ジェイグの顔をまじまじと見つめる。そんなリオンの疑問に、ジェイグは跳ねるように起き上がって、リオンと視線を合わせて答える。
「お前が誰よりも一番ティアのことを見てたからだ」
薄々この相棒には自分の気持ちを見抜かれていることには気づいていたが、それを面と向かって告げられるのはなんとも複雑な気分だった。図星を突かれた事実を誤魔化すようにリオンは顔を空へと向ける。
「……そんなにわかりやすかったか?」
リオンとしては、そこまでわかりやすい反応をしていたつもりはなかったのだが。
「いや、わかりにくかった。お前表情読みにくいし」
「……悪かったな」
「それでも、こんだけ長くいりゃわかるって」
兄に隠し事はできんよ、とでも言いたげな顔でリオンの肩に手を置く。
「それにティアの反応はわかりやすいからな」
「それは言えてる」
あそこまであからさまな好意を向けられたら、ラブコメの主人公でもない限り誰だって気付く。五年以上も前から付いてくることを決めていたとは、さすがのリオンも思わなかったが。
「話を戻すけどよ、リオンがティアの気持ちに気付いてて、リオンもティアが好き。なのにちっとも先に進まねえのは何でなのかってのがずっと疑問だったわけだよ。でも、その理由が今日わかった」
「……」
リオンは否定も肯定もしない。どうせバレているなら、これ以上何を言っても無駄だったからだ。あとはただ答え合わせをするだけ。それに今となっては、ジェイグに気持ちを隠す意味もないのだから。
「ティアを危ない旅に連れていきたくなかったんだろ?」
さっきのティアとの問答を見ていれば、その答えに辿り着くのは当然だろう。
だが、残念ながら、それだけでは答えとしては不十分だった。
「……半分正解」
「じゃあ、もう半分は?」
どう説明したもんかなぁ、と空を見上げながら思案するも、結局上手い言葉は思いつかなかった。というか、どう言ってもジェイグなら理解してくれるような気がしたので、リオンはただ思ったままを口にすることにした。
「……自分の道は自分で選ぶものだから、かな」
「……どういうことだ?」
言葉数の少ないいつものリオンの答えに、さらにジェイグが問いを重ねる。
「自惚れかもしれないけど……多分、ティアは俺が想いを伝えて付いてきてくれって言ったら、きっと付いてきてくれたと思うんだよ」
「それは間違いねえな。なんせ五年も前からそのつもりだったんだから」
ジェイグが微かに笑ったのが分かった。リオンもくすぐったい気持ちを誤魔化すように苦笑いを浮かべる。
「それは男としては凄い嬉しいけど、それじゃあまるで俺がティアの道を決めてしまったみたいだろ。これは俺のわがままかもしれないけど、ティアには色んな道の中から、迷ったり悩んだりしたうえで自分の行きたい道を自分で選んでほしいんだよ」
その考えはこの世界では甘い考えなのかもしれない。この世界は前世の日本のように、誰もが等しく教育を受けられ、自分の道を自分で決められるような優しい場所ではないのだから。
この世界でまともな教育を受けられる人間は、ある程度栄えた国であるエメネアでも半分に届くかどうか。他の国ならさらに少ないかもしれない。子供のうちから、自分の家の手伝いをしてそのまま大人になるしかない者も多い。仮にそれなりの教育を受けても、自分の魔法属性によって職業の適性がある程度決まるような世界だ。明日を生きることさえ難しい人だって大勢いる。
そういう意味では、リオンを含めこの孤児院の子ども達は幸せだ。この孤児院はリリシア先生が冒険者時代に稼いだお金を基に運営している。決して裕福ではないが、最低限の衣食住に、生きてくための知識や力をリリシア先生から教わることができ、自分の力である程度自由に道を選ぶことができる。
だからこそ、そんな恵まれた境遇にいるティアには、一時の感情に流されるのではなく、自分の本当にやりたいことを見つけて幸せになってほしかった。もちろん、そのやりたいことがリオンと一緒に旅をすることだったなら、その時は自分の人生をかけて全力でティアを守るつもりだった。
「だから、自分からティアを誘うつもりはなかった。もし、それでティアがこの街に残ることになってもな」
全てを話し終えたリオンの顔を見つめながら、ジェイグが呆れた様子で苦笑いを浮かべる。
「お前ってこういうことには意外に不器用なんだな」
「否定はできないが、お前のような脳筋に言われるのは癪だ」
「何だとコラァ!?」
「落ち着けバカ。あんまり騒ぐと先生の雷が落ちるぞ」
自分で火種を放り投げたくせにこの物言いはなかなかに理不尽だとは思うが、言われたジェイグもリリシア先生の雷は怖いのか、その一言で怒りを鎮めて大人しくなったので特に問題はないだろう。
「でも、そういうことならもう何も問題はねえんだよな?」
「まぁそうだな」
正直、あれだけの覚悟を聞いた後で気持ちを伝えるのは、じゃんけんの後出しみたいで情けないが、だからといってこのままでいるつもりもない。
「……明日にでもティアに話してみるさ」
告白を決意したにしては随分と軽い調子で呟くリオン。告白に対する恥ずかしさや不安はそれなりにはあるのだが、それよりもようやく気持ちを告げられるという喜びの方が強いのだ。
「やっとかよ……まったくヤキモキさせやがって」
口では悪態をつきながらも、その表情は実に晴れやかだ。ずっと二人を見守っていた兄貴分としては、ようやく二人の仲が進展することが、まるで自分のことのように感じているのかもしれない。
だからリオンもそんなジェイグの態度が照れくさくて、ついこんなことを言ってしまったりするのだ。
「それはこっちのセリフだ、バカが。お前の下手な気の遣い方に、俺がどれだけイライラしたか……」
「テメッ、俺がどれだけ気を遣ったと――」
「その気の遣い方があまりにバカすぎると言ってるんだ。そんなんだから、ミリルやファリンにまで殴られるんだろうが、バカ」
「ウガー! さっきから何回もバカバカ言いやがって! そんな生意気な奴には兄貴の力を見せてやろうじゃねえか!」
「だから、ギャアギャア騒ぐと先生が――」
ヒートアップしてきたジェイグに忠告するも、時すでに遅し。
この孤児院最強のなまはげが、夜更かしをした挙句、こんな遅くに大騒ぎをする悪い子を放っておくはずがなかった。
「私がどうかしたのか?」
ドスの効いた声が闇の中から響いて、リオンとジェイグはその動きを完全に止めた。そして、まるで眠れる獅子の尻尾をスパイクで踏みつけてしまったような顔で、二人は一斉に振り向いた。
「明日は出発だってのに、随分と元気が有り余っているようだなぁお前たち」
そこには薄紫色のネグリジェを着て、白いストールを巻いたリリシア先生が、黒い怒りのオーラを纏って立っていた。その長い髪が少し乱れているので、おそらくさっきまで夢の中にいたのだろう。
ちなみに言うと先生は、寝起きは機嫌が悪い。昨日のゴブリン時計の一件で、ミリルへの説教が長引いた原因もそこにある。ただでさえ機嫌の悪い寝起きの先生に、ゴブリンの叫びは通常の五倍は不快に聞こえただろう。
今もリオン達の目の前で額に青筋を浮かべているのは、寝ている子ども達への配慮というよりは、単に自分の眠りを妨げたことへの怒りがほとんどのはずだ。
先生の来ているネグリジェは体のラインにフィットするタイプのもので、スタイルの良いリリシア先生が着ると実に扇情的だ。孤児院の先生としてはどうかと思うが、その姿はリオンもジェイグも思わず見惚れてしまうほどだ。
もちろん普段であれば、の話だが……
だが、そんな魅力的な姿も、右手に持った木剣と怒りの表情が全てを台無しにしている。木剣で肩をトントンと叩く姿は実にワイルドだ。思わず全身から冷や汗が出るくらいに。
「い、いや、もう眠いんでそろそろ寝ようかと――」
「先生、騒いでたのはジェイグだけです」
「リオン、テメエ一人だけ助かるつもりか!?」
「もとはと言えばお前がうるさいのが悪い」
「テメエがバカバカ言うからだろうが!」
「バカにバカと言って何が悪いこの大バカ」
「ついに大まで付けやがったなこの野郎! やっぱりテメエとは一度決着を――」
「二人とも大バカだ、このバカ兄弟。丁度いい。私からの旅の餞別として、今ここで二人まとめて叩きのめしてやる!」
「「結構です!」」
今の今まで言い争いをしていたとは思えないほどに揃った声。そんな仲の良い二人に苦笑いを浮かべつつも、先生の額に浮かぶ青筋が引くことはない。
「遠慮するな。そうすれば、ぐっすり眠れるぞ、きっと」
「それは『気絶できる』の間違いです、きっと」
「些細な違いだ、リオン。さあ行くぞ!」
「ちくしょおおおおおおおおお!」
ジェイグの遠吠えのような悲鳴が異世界の夜空に悲しく響きわたった。
こうしてこのあと、二人とも問答無用でボコボコにされた。
睡眠と気絶の違いが分からないリリシア先生の攻撃を、どうにか耐え抜いた二人がベッドにたどり着いたのは、それから二時間後のことだった。