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とある家族の結末2

 ミラセスカ中央タワー屋上。


 この都市の上層部の人間しか立ち入ることができないその場所に、冒険者パーティー黒の翼のメンバー六人が揃っていた。


 夜も更け、時刻はとっくに日付を跨いだ頃合いだ。


 晴れていれば、ここから眺める星空はなかなかのものだっただろうが、残念ながら空は分厚い雲に覆われている。もう少しで降り始めてもおかしくはない。


 そんな天気だからだろうか。普段は夜通し騒ぐ観光客で賑わい、朝まで明るいはずの街の灯りも、今日はどこか暗く見えた。


 リオン達がここに来たのは、一時間ほど前だ。それからずっと、リオンは屋上の縁に腰かけ、暗く淀んだ空をずっと見上げている。


 ここに来てから、リオンは一度も口を開いていない。他の五人も同様だ。


 ティアはリオンの隣で同じように空を見上げている。ファリンはリオン達から少し離れたところに座り、ぼんやりと町灯りを眺めている。アルとジェイグはずっと立ったまま、落ち着き無さそうに身体を揺すったり、仲間の様子をチラチラと伺っていたりする。


 家族六人が揃っているのに、この場の空気はどこか重苦しい。まるで急病で倒れた家族の処置結果を待っているかのように、張り詰めた暗い空気が六人を包んでいる。


 そんな中、ミリルは屋上の中央に一人で立っていた。


 腕を組み瞑目したまま、ただジッと屋上に吹く夜の風に身を任せている。仲間からの視線を気にする様子も無い。表情一つ動かすことなく、ただ静かに、ある人物が来るのを待っている。


 そうしてさらに一時間程が経過した頃、ここへ近づく人の気配を感じたミリルは、閉じていた瞳を静かに開いた。


 程なくして屋上へ上がる階段から姿を現した二人を、じっと見つめる。


「……時間通りね……あのガキんちょは?」


 やがて自分の手前数メートルの所で立ち止まった二人へ、ミリルは落ち着いた声でそう話しかけた。


 そんなミリルの問いに、やってきた二人の片割れ――ディーター・オルカが優しそうな人間の顔に、苦笑いを浮かべて答える。


「ディーノならもう眠ってしまいましたよ」

「…………そう」


 切なさを必死に堪えるような笑みで応えるディーターに、ミリルは何と言ったらいいかわからず、結果そっけない返事をしてしまった。敵を前にすれば、いくらでも回る口が、今はまるで錆びついた歯車のように動いてくれない。


 それでもちゃんと聞くべきことは聞かなければと、ミリルは一度小さく息を吐いたあとで、再び口を開く。


「……この二日間は楽しめたわけ?」

「ええ、久しぶりに家族三人で幸せな時間を過ごさせてもらいました」

「……あのガキんちょと、ちゃんと話はできたわけ?」

「どうでしょう……酷く怒らせたし、最後には泣かれてしまったから、ちゃんと聞いてくれたかはわかりません……でもできる限りのことはしました。それに妻もいます。あの子ならきっと大丈夫だと思います」

「……伝えたいことは、全部伝えられた?」

「………………はい……お陰様で」


 しっかりとディーターの眼を見て問いかけたミリルには、最後の答えが嘘だとすぐにわかった。


 当然だ。


 本来であれば、何十年もかけて教えるべきことの全てを、伝えるべき想い、親が抱く愛情の全てを、たった二日間で伝えきれるはずがない。ホントは、まだまだ伝えたい言葉も想いも残っているはずだ。


 それでも残されたわずかな時間で、必死に考え、選んだ言葉に想いを乗せて、愛する我が子へと伝えてきたのだろう。


「…………そう……なら、良かったわ」


 ディーターの言葉の裏にある想いを、この場で口にしたところで意味は無い。むしろそれは、この場にいる全ての人間を余計に苦しめるだけだ。


 ミリルは己の不甲斐なさを憎むように、拳をきつく握りしめ、しかし決して表情は崩すことなくそう告げると、無言でファリンに視線を送った。


 いつの間にか近くまで来ていた仲間達の中から一歩前に出たファリンが、ディーターの方へ手を伸ばす。その手が淡く輝いたかと思うと、その光はディーターと繋がり、全身を包み込んだ。


 それはファリンの魔力の光。暗い夜空の下で、ディーターを包む優しい光が一瞬輝き、そして儚く消えた。


 そうして再び闇が戻ったその場所には、人間のディーターの姿は無く、二つの角の生えた虎の魔物の大きな姿があった。


「……ありがとうございます。お陰で、最後の時間を家族三人で楽しく過ごすことができました」

「……お役に立てて何よりだニャ」


 自分に向かって深々と頭を下げるディーターに、ファリンも明るい微笑みで応える。


 だがいつもは太陽のように明るい笑顔も、今はどこか陰を帯びていた。いつもの猫言葉にも、やはり元気は無い。


 五日前、あの地下実験場から助け出された実験体達は、リオン達の報告を受けてやってきたギルドによって身柄を確保された。本当ならば、いずれ精神も魔物化することが避けられない以上、最後の時間はそれぞれの望み通りに過ごしてもらいたかった。だが、すでに精神が完全に魔物と化した者もいたし、魔物化までの期間や兆候を掴むためには、彼らをすぐに解放するわけにはいかなかったのだ。


 もちろんその間、数多くの研究者達が彼らを救う手立てがないか、あらゆる手を尽くした。幸いリオン達の活躍により、ワドルの研究データや実験に必要な魔導具などは無事に残っていた。専門外ではあるが、魔科学に造詣の深いミリルも率先して協力し、知恵を絞っていた。数年の時間をかければ、魔物化したままでも人間としての記憶や知性を保つ方法も発見できたかもしれない。


 残念ながら、被験者達にはそれを待つだけの時間も残されていなかったのだが……


 そして彼らの救出から三日後、捕らえた研究員や実験体達の話から、完全な魔物化までは期間や兆候に個人差があったが、だいたい一、二週間程度で、人間としての精神は失われてしまうということがわかった。


 それにより、魔物化までの期間に余裕があり、家族や友人との面会を許可されることとなった。


 もっともほとんどの実験体は、ミラセスカの外から来た観光客であり、残念ながら親しい者達と再会できる者はごくわずかだったが……


 さらに魔物化までの過ごし方や、魔物化してからの身柄の扱いなども、個々人の選択に委ねられることになった。


 魔物化するギリギリまで人間として生きる者。恐怖の中生き続けることを拒み、自ら死を選んだ者。


 魔物化後の身体を、ギルドの研究に提供する者もいた。残念ながら、その意思表示すらできずに魔物化した人は、今回の件の功労者である黒の翼の全員が強く望んだため、全員が黒の翼の手によって葬られた。


 わざわざ自分達の手で彼らを殺したのは、救うことができなかった彼らの命の重みを忘れないためだ。


 それを言い出したのはリオンとミリル。


 本当は二人だけで――実際は、互いに自分一人でやるつもりだったようだが――他の四人がそれを許すはずも無く、結局は全員で分担することになった。


 彼らの殺害は、彼らを無駄に苦しめることのないよう、薬物によって眠らせた後で行われた。もちろんそのあとは、全員を手厚く埋葬している。身元もわからない人がほとんどだったが、実験により苦しめられた彼らの身体を、意思の確認も無く死後も研究のために利用するのは許容できなかった。


 殺害した中には、まだ人間としての自我を残していた人もいた。自殺に踏み切れず、ミリル達に殺されることを望んだ人達だった


 あの時ミリルを酷く責めたてたデニスとエリゼの二人も、その中にいた。


 二人は自らが死ぬこと以上に、相手が先に死に、自分一人が残されてしまうことを酷く恐れていた。そのため二人で一緒に死ぬことを選んだのだろう。被験者達が集められた部屋の中で、ぴったりと抱き合って眠る二人の姿を……そして彼らを斬った時のティアの涙を、黒の翼のメンバーが忘れることは絶対にないだろう。


 そうして様々な最後を迎える犠牲者達の中、ミリル達はディーノとの約束を果たすため、ディーターを家族と再会させようとした。


 だが、今回の事件は、ギルドやミラセスカの上層部から情報規制が掛かっており、家族との面会には厳しいルールや制限があった。そんな中、まだ幼いディーノに守秘義務だの情報漏洩だのの難しい話が理解できるとは思えない。


 そもそもそんな小さな子供に、こんな残酷な事件の真相を教えるべきではないのではないか。


 それにただでさえ短い再会なのに、父が魔物の姿で現れたとなれば、そのショックは計り知れないものになるだろう。下手をすれば、話を理解させるだけでタイムリミットが来てしまうかもしれない。


 そこで黒の翼が一計を案じることになった。


 まずアキノだけを呼び出し、全ての事情を説明した。当然、話を聞いた時にはかなりショックを受けていた様子だったが、いざ魔物と化したディーターと顔を合わせた時にはかなり落ち着いていた。不安そうな顔をした夫を前に、「ずいぶんとワイルドになったもんだね……」と笑い、魔物の姿に怯えることなく抱きしめた彼女の胆力と優しさ、そして夫への愛は、ミリルとしても尊敬の念を禁じ得なかった。


 その後、アキノも交えて、ディーノとの再会から別れまでの計画を擦り合わせた。


 計画の肝となるのは、変身魔術のスペシャリストであるファリンだ。


 ディーターの写真と本人から聞いた情報を基に、彼の身体に変身魔術を施し、元の容姿を再現した。魔術維持のための魔力は、ミリルが用意した小型の簡易魔力炉があれば二日間くらいは問題なかった。変身に関しても、中身はディーター本人なので、他人に化けるよりよっぽど楽だったらしい。


 あとは見ての通り。魔物化の兆候が表れる前に息子へ嘘の理由で別れを告げ、最後の時を迎えるべくミリル達の前に戻ってきたというわけだ。


「……ホントに、良いわけ? 最後が、この場所で」


 魔物の姿へと戻ったディーターに、ミリルが一言一言を確かめるようにゆっくりとした口調で問い掛ける。


 本来、中央タワーの屋上というのは、一般人が立ち入れるような場所ではない。シスト商会副会長であるレフィーニアが口利きをしてくれなければ、こうしてミリル達やオルカ夫妻がここに来ることはできなかっただろう。


 この場所を望んだのは、ディーター本人だ。正確には、ミラセスカの街並みが見られる場所で最期を迎えたいと言ったわけだが。


「自分が、生まれ育った町ですから……最後にもう一度見ておきたくて。まさかここの屋上に上らせてもらえるとは思ってませんでしたけど」


 そう苦笑いを浮かべながら、タワーの外周へと近づくディーター。その隣に寄り添うように、アキノも共に歩いていく。


 遠くに見える町灯りを眩しそうに見下ろしながら外周をゆっくりと歩く二人の表情を、ミリルはただ静かに見守っていた。


 やがて二人が同時に歩みを止める。そのままジッとミラセスカの町を見下ろす二人。


 その二対の瞳が何を見ているかは、この場にいる全員がすぐに理解した。


「……あんたが完全に魔物化するまで、まだ数日の猶予があるわ。あの子に会うのは無理でも、他に――」


 自我が失われると言っても、何もすぐに完全な魔物に成るわけではない。言語能力などの退化から始まり、数日をかけて徐々に理性を失っていくのだ。


 ディーノに魔物化のことを知られるわけにはいかなかったため、今夜をタイムリミットとしたが、完全な自我崩壊まではまだ数日の猶予がある。行動は制限されるが、アキノとなら面会することも可能だし、その他の望みだってある程度は叶えることはできるだろう。


 それこそこうしてミラセスカの街並みを……家族をここから見守ることだってできる。


 だがそんなミリルの言葉を、振り返ったディーターが首を振って拒絶した。


「もう別れは済ませました。これ以上見ていたら、死ぬのが怖くて逃げだしてしまうかもしれません」


 穏やかにそう笑うディーター。


 だがその手が震えていることに、ミリルは気付いていた。


「それにあなたが言ったでしょう? 最後まで、人間らしく生きなさいと。だから私は、ちゃんと人間の心が残ったまま……私の心からあの子やアキノが消えてしまう前に、全てを終わらせたいんです」

「………………そう。わかったわ」


 そう告げるディーターの覚悟が揺るぎないことを悟ったミリルは、覚悟を決めるように一度瞑目した後、ホルスターから魔銃を一丁引き抜いた。


 そのミリルの姿を見たディーターも、ゆっくりと目を瞑り、静かに数度呼吸をする。そしてもう一度目を開けると、ずっと隣で寄り添っていた妻と向かい合う。


「ゴメン、もう行かないと」

「ああ、行っといで。あの子のことはあたしに任せな。あんたは何も心配しなくていい」


 まるで出張に向かう旦那を送り出すかのような気軽さで、アキノが笑う。


 そんな妻の姿に、これまで穏やかな表情を崩さなかったディーターの顔がくしゃりと歪んだ。


「ゴメン……俺は……結局、君に何も……」


 嗚咽混じりの声で、アキノへ謝罪の言葉を繰り返すディーター。


「まったく、図体はデカくなったのに、中身は相変わらず泣き虫なまんまだねぇ」


 そんな夫の姿に、アキノは呆れたような、だけど優しい笑みを浮かべてディーターの頬へと手を伸ばす。


「何も、なんて言うんじゃないよ。あたしはあんたと一緒になって幸せだった。そりゃあこんなことになっちゃったのは辛いけど、あんたを選んだことに後悔は無いよ」

「アキノ……」

「というか、あの子ばかりズルいじゃないか。最後くらい、ちゃんとあたしにもあんたの気持ち、伝えておくれよ」


 揶揄うように笑うアキノ。


 そんな笑みを見たディーターは、弾かれたように両手を伸ばし、アキノの身体を抱き寄せた。アキノも抵抗することなくその腕に抱かれ、人間の頃よりずっと大きくなったその胸に、愛おしげに頬を擦りつける。


「俺も……俺もお前と出会えて幸せだった」

「……ああ」

「こんな俺と、一緒になってくれてありがとう」

「こっちこそ、こんなあたしを選んでくれてありがとね」

「もっとずっと……一緒にいたかった……あの子と、お前と三人で……ずっと……」

「大丈夫だよ。あたしの中にも、あの子の中にも、あんたはずっと生きてる。これからもずっと一緒さ」

「……愛してる」

「あたしも……愛してるよ」


 腕の中で顔を上げたアキノがそう囁いて、魔物の姿となったディーターの口に優しく口付けをした。


 まるで愛情の全てを伝えるように……あるいは別れを惜しむように、永く、永く続いたキスは、やがてどちらからともなく終わりを迎える。


「……じゃあ、行ってくる」

「ああ……ちゃんと最後まで見届けるからね」


 互いの目を見つめ合って言葉を交わす二人。


 それを最後に、ディーターはアキノに背を向けると、しっかりとした足取りでミリルの元へと歩いて来た。


「お待たせ、しました」


 目の前で跪いたディーターが、落ち着いた声でミリルにそう告げた。


 ちょうど視線の高さが合わさるくらいになったディーターの眉間に、ミリルが無言で銃口を向ける。


 これがディーターとの約束。


 最後の瞬間に苦しむことのないよう、黒の翼が彼の殺害を引き受けること。


 魔物の身体は頑丈だ。自殺では、死の恐怖も手伝って、死にきれない可能性もある。下手な死に方をすれば、余計に苦しむことになる。そんな最後をディーター本人や家族であるアキノはもちろん、黒の翼のメンバーも誰も望まなかった。


 最初は、リオンが手を下すつもりだったらしい。


 だがそれをミリルが代わりに引き受けた。


 元々ディーノの頼みを引き受け、ディーターを捜索しだしたのはミリル達だ。ならば彼らの最後を見届けるのも自分達の役目。リオンに後始末を押し付けるなど、ミリルにできるはずも無かった。


 銃を向けられたディーターは、一瞬だけ身体を震わせたものの、それ以上は身動き一つすることなく、ただ静かにミリルを見つめていた。


 あとはただいつものように引き金を引くだけ。それですべては終わる。


「……最後に、言っておきたいことはある?」


 少しでも時間を引き延ばすように、気付けばミリルはそう口にしていた。


 そんなミリルの葛藤に気付いたのかはわからないが、ディーターは驚いたように目を丸くしていた。だがすぐに気を取り直すと、少しの間逡巡した後で申し訳なさそうに口を開いた。


「少しで良いんで、二人のこと、気にかけて頂けますか?」


 二人というのが誰を差しているかは、聞くまでもなかった。


 ミリルはその願いを胸に刻み込むように目を閉じた。数秒の瞑目のあとで眼を開けると、静かに返事を待つディーターを真っ直ぐに見詰め返す。


「あたし達はずっとこの町にいるわけじゃないから、大したことはできないけど、ここにいる間はたまに顔を出すようにしとくわ。旅の最中も、何かあれば情報が入るよう、シスト商会にも頼んでおく」


 それでどう? と視線で問い掛ければ、ディーターは「ありがとう、ございます……」と深々と頭を下げて礼を言った。


 そうして顔を上げたディーターの額に、再度銃口を突き付けて――


「さよなら。安らかに、眠りなさい」


 ――ミリルは引き金を引いた。
















 重い瞼を開くと、視界に見慣れた天井が映った。


 ここはいつも寝ている寝室のベッドだ。幼いディーノには広すぎるベッドだが、いつもは父と母に挟まれて三人で眠っている。


(……アレ? ……オレ、いつ寝たんだっけ……)


 寝起きで働かない頭を動かして、記憶を探る。ベッドに入った覚えはないのに、気が付けばここにいた。遊び疲れてそのまま眠ってしまったのだろうか。


(……そうだ……昨日は父ちゃん達と買い物に行って……それから……――っ!)


 昨日の行動を思い返し、記憶の中の時間が夜になった時、全てを思い出したディーノは勢いよく起き上がる。


 ベッドには両親の姿は無い。辺りはまだ真っ暗だ。カーテンの隙間からは街灯の灯りこそ差し込んでいるが、まだ夜は明けていないのだろう。トイレに行くなどの理由で、ディーノが夜中に起きることは稀にあった。


 だがこんな時間に両親が揃って寝室にいないことなど、これまでに一度も無かった。


「っ、父ちゃん!」


 シーツを乱雑に跳ね除けて、ディーノはベッドを飛び出した。そのまま寝室からも飛び出して、両親の――父の姿を探す。


 二階には父の書斎と物置がある。焦る気持ちをぶつけるように、扉を開けていくが、そこには真っ暗な空間が広がっているだけ。ディーノが求める人の姿はなかった。


 ドアを開け放したまま、ディーノは階段を足早に駆け下りる。いつもは怒られるのでやらないのだが、最後の三段は飛び降りてしまった。


 その勢いのままに走り、トイレやお風呂場も確認していく。


 そうして最後に残ったダイニングへと続くドアを開け、中へと飛び込み……予想外の眩しさに思わず目を覆った。どうやらまだ灯りが付いていたらしい。


 やがて光に目が慣れたディーノが見たのは――


「まったく、こんな時間にドタバタと……近所迷惑だよ」


 ――こちらへぎこちない笑みを向ける母、アキノの姿だった。


「……母、ちゃん?」

「どうしたのさ? そんな海鳥にパンを持っていかれたような顔して」


 家族で食事をする時にいつも座っている席に座り、いつもと変わらぬ溌剌とした口調で、呆然と立ち尽くすディーノへ話しかけるアキノ。


 だがその姿はディーノが見たことが無いほどに弱々しいものだった。


 いつもは手入れが行き届いているはずの髪はボサボサで、前髪や顔の横の髪が顔に張り付いている。眼は真っ赤に充血し、瞼は分厚く腫れぼったい。ディーノが来る前に慌てて拭ったのだろうが、未だ目元は潤み、頬には涙の痕がまだはっきりと残っている。


 今の今まで、アキノはずっと一人で泣いていたのだろう。だがディーノが起きてきたのに気付いたため、慌てて涙を拭い、何事も無かったかのような顔で誤魔化そうとしたのだろう。


 もっとも、今の姿を見れば、それは何の意味も無かったわけだが……。


(……あぁ)


 初めて見る母の涙。


 それを目の当たりにしたディーノは、心の中で諦観のため息を零した。


 ディーノが覚えている限り、母が泣き言を言ったり弱音を吐いたりしたことは無い。いつも気丈に振る舞い、父が行方不明になり帰りを待っているときだって、一度だって涙を見せたことは無い。


 そんな母が、我が子を前にして取り繕えない程に打ちひしがれ、涙を流している。


 誰を思って泣いていたか。そんなのは考えなくてもわかる。


 目の前のその光景が、どうしようもないくらいに悲しい現実を……逃れようのない事実を突き付けてくる。


(ホントに、父ちゃんはもういないんだ……もう、二度と、会えないんだ……)


 あれだけ受け入れがたかった現実が、目を背けていた事実が、まるで飲み込んだ水のように心に落ちて染み込んでしまった。心が溺れて沈んでしまいそうだ。また泣き叫んでしまいたくなる。


 そんな心の内から溢れ出しそうな涙を、だけどディーノはグッと堪えて、こちらを優しく見つめる母の顔を見つめた。


「ほら、まだ起きるには早いだろ? 早く部屋に戻って寝ないと、明日元気に遊べなくなっちまうよ」


 よく注意して聞けば、わずかに震えを感じる声で、アキノが部屋に戻るように促してくる。


 そんなアキノを挟んで反対側の壁に掛けられた時計は、もうすぐ短針が四の文字を指すところだ。確かディーノ達が家に帰ってきて、父からあの話を聞いたのは午後八時頃だったはず。


 ディーノが眠った後で父と母の間で何があったかは、どんなお別れをしたのかはわからない。


 だがきっと優しくて強がりな母は、父のために涙を堪え、最後の瞬間まで気丈に振る舞い続けたと思う。


 そうして今、目の前で微笑みを浮かべる母は、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど弱く儚げで……


 ディーノはそれ以上強がりを続ける母の姿を見ていられなかった。


「…………」


 アキノの言葉に応えることなく歩み寄ると、ディーノはテーブルに置かれた母の手を……拭った涙に濡れたままだった手を強く握った。


「ディーノ?」


 我が子の行動に、アキノが驚いたような表情でこちらを見下ろしてくる。


 そんな母の顔を真っ直ぐに見上げて、ディーノが決然と告げる。


「オレ、強くなるから」


 突然のその言葉に目を丸くする母を見つめたまま、言葉を続ける。


「父ちゃんがいなくても大丈夫なくらい、強くなる。母ちゃんのことも父ちゃんの分までオレが守るから……だからもう、何でも我慢して一人で泣いたりしなくていいから」

「ディーノ……あんた……」


 胸を締め付ける悲しみは、まだ消えない。大切な人を失った喪失感は、しばらくは拭い去ることはできないだろう。


 それでももう、俯かない。


 泣かないで、前を向いて生きていく。


 守りたいものができたから。


 それが父と交わした、最後の約束だから。


 だからもう、ただ泣いて甘えるだけの自分とはお別れしないといけない。


 母の涙を前に、ディーノはそう決意した。


「……ディーノ」


 決然とした表情で自分を見つめる息子の姿に、アキノは再び涙を流した。


 そうしてディーノをその胸に抱き寄せると、まるで子供のように声を上げて泣き出した。


 そうして強く成長した少年は、その背中に腕を回し、母が泣き止むまで、小さな子供をあやすように優しく撫で続けるのだった。

四章本編は、残りエピローグ2本で完結となります。

あと少々お付き合い頂ければ幸いです。

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[良い点] 少年よ…君を待って……辛い。
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