とある家族の結末1
ミラセスカ中心部よりやや南東の住宅街。都市の公営住宅であるアパートが立ち並ぶ場所だ。
「はぁ……」
そんなアパートの前で、ディーノは自宅の玄関扉の脇に背を預けて座っていた。
ミラセスカのギルドで出会った黒の翼という冒険者パーティーに、行方不明の父親の捜索を依頼してから早五日。あの日から毎日、朝早くから夜が更けて母親に家に連れ込まれるまで、ずっとここに座って父親の帰りを待っている。
父が行方不明になってからすでに十日。最初は毎日ギルドに通っていたディーノだったが、黒の翼と出会ってからはそれも止めている。これ以上、ギルドに行っても何の成果も上がらないだろうからだ。あんな有名冒険者達に頼みを引き受けてもらえただけでも、これ以上ないくらい幸運なことなのだろう。
だが、それでもディーノの不安は消えることはなかった。
黒の翼という冒険者パーティーが凄腕なのは、なんとなくわかる。母も親友のウィンも、そう言っていた。ギルドにいた他の冒険者と違い、大したお金も無い自分の願いを聞いてくれた連中だ。そういう意味では信用もしている。
しかし、である。出会った黒の翼の四人のうち、半分の二人はどう見てもちんちくりんなちびっ子。おっきな剣を背負った大男は強そうだったが、残りの一人はお姫様みたいにキレイな女の人。優しくて物凄い美人だったけど、とても強そうには見えなかった。
それでも「全力を尽くすから、大人しく待ってなさい」と告げる、ちっちゃい狼女の言葉に従い、しかし家の中で待っていることもできず、こうして家の前でひたすらに時を過ごしている。
事情を知らない通行人が、時折訝しげな視線を送ってきたり、心配して声を掛けてきたりもしたが、全部無視するか適当に受け流してきた。雨が降った日もあったが、傘を差せば問題ない。
何度か使用人に連れられて、ウィンが遊びに来たりもしたが、家の前で話をしたくらいで一緒に遊んだりする余裕は無かった。だが何の話もしなくても、隣に一緒にいてくれただけで、不安に押し潰されそうな心が、少し軽くなったような気がした。
「はぁ……」
そうして今日も待ち続けて数時間。もう何度目になるかわからないため息を吐く。
時刻はもうすぐお昼を迎える頃だ。母親であるアキノは、朝早くから一人でどこかへいってしまっているが、そろそろ帰ってくるだろう。
だが、ディーノが心待ちにしている相手は、アキノではない。
「……父ちゃん」
これだけ待っても帰ってこないということは、やはり父の身に何かあったのではないか。もう二度と自分の前には帰ってこないのではないか。
そんな不安から、ディーノの口から待ち人を呼ぶ声が零れ落ちた。
その時――
「ディーノ!」
聞こえた自分を呼ぶその力強い声に、ディーノは驚きに固まり、しかし直後、勢いよく顔を上げてその声の主を――待ち焦がれたその人の姿を探した。
そして通りの向こう、こちらに向かってくる母の隣に――
父、ディーターはいた。
「父、ちゃん……」
夢かと思った。
家の前で、待ちくたびれた自分が見ている夢。
でも照り付ける太陽の熱気も、ずっと固い地面に座っていたお尻の痛みも、とても夢とは思えない。
幻かと思った。
会いたいあまり、自分は幻覚を見ているのではと。
「ディーノ!」
だがこちらに手を振る優しい笑顔も、くたびれたミラセスカ職員の制服も、自分を呼ぶ声も確かにそこにある。
ずっと無事を願い、帰りを待ち望んでいた大好きな父が今、そこにいる
「父ちゃん!」
気が付けば走り出していた。
何度もその名を呼び、必死に足を動かす。途中で何度も足がもつれ、転びそうになるが、それでも構わずに走り続けた。
そうして同じくこちらへ駆けよっていた父の胸へ、その勢いのままに飛びついた。
「父ちゃん……父ちゃん! 父ちゃん!!」
「ただいま、ディーノ! 心配かけて悪かったな」
温かく力強い父の胸に飛び込み、制服を握りしめて力いっぱい顔を押し付ける。
父の温もりを確かめるように。
父も、まるで壊れやすい宝物を抱きしめるように優しく、だけど力強く自分を抱きしめてくれた。
こうして南国の太陽が照り付ける中、父と子は再会を果たした。
すぐ傍で、悲しげな笑みを浮かべる母、アキノに気付くことも無く……
「ちゃんと再会できたようね」
それからどれくらい経ったか。ディーノがようやく泣き止み、父の胸から顔を上げた頃に、父の後ろからそんな声が聞こえた。
聞き覚えのあるその声に、ディーノが身体を少し横に動かせば――
「ちっちゃい姉ちゃん!」
「ちっちゃい言うな! 撃ち抜くわよガキんちょが!」
黒の翼の小さい狼女が仏頂面でこちらを見ていた。もっともディーノが呼んだ途端、色違いの眼を吊り上げて怒り出したが。
「あんた達、子どものしつけがなってないんじゃないの?」
「すまない。少々伸び伸びと育て過ぎたようで……」
「子どもはこれくらい元気な方が真っ直ぐ育つってもんさ」
キッと音がしそうな勢いで睨みつける狼女に、ディーターは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべたかと思えば、逆にアキノは全く悪びれることも無くカラカラと笑った。
「というか、ミリル姉が他人ん家のしつけをとやかく言える立場かっての」
「人を実験台にするわ、怒ると口より先に銃弾が飛ぶわ、誰に対しても偉そうだわ」
「まぁうちの場合、親からしてアレだからな。口で叱られるより先に、本物の雷が落ちる」
「あの親にしてこの子ありだニャ」
狼女の後ろから仲間が現れて、口々にそう言っては肩を竦める。後半の二人――黒髪赤眼に黒コートの男と、妙な猫言葉で話す女の人はディーノも知らない顔だが、最初に口を開いた狐の少年や赤髪の大男達と親しげなところを見るに、同じ黒の翼の仲間で間違いないだろう。
それに――
「何か文句あるわけ?」
チャキ……と狼女が銃を向けた瞬間、一糸乱れぬ動きで、あのキレイなお姉さんの後ろに隠れる四人。雰囲気は違うのに、ノリは一緒だ。冒険者仲間、というより、仲の良い家族のように見える。
仲間を盾にするのはどうかと思ったが、どうやら小さい姉ちゃんはあのお姉さんには弱いらしい。お姉さんから、優しそうなのに何故か背筋がゾクッとする笑みを向けられた小さい姉ちゃんは、「ぬぐぅ」と呻いたあと悔しそうに銃を下した。
「ティアの後ろに隠れるなんて卑怯よ!」
「へっ、俺達も毎日やられっぱなしじゃねぇってこと――あだぁっ!」
「……バカが、不用意に頭を出すからだ」
小さい姉ちゃんの口にした負け犬の遠吠えのようなセリフに、大男がドヤ顔で言い返した。が、その拍子にお姉さんの陰から身を乗り出してしまったため、容赦なく額を撃ち抜かれてしまった。派手に吹っ飛んだ大男に、黒い男からの冷たい声が落ちる。
とりあえず赤髪の男を撃って気分が晴れたのか、呆れるような苦笑いを浮かべるお姉さんを無視して小さい姉ちゃんがこちらを向いた。左右色違いの眼を、一度父と母の方を向けた後、ディーノを見下ろしてくる。
「………………」
だが狼女が、ディーノへ何か言うことはなかった。ただ何の感情も感じさせないような無表情なまま、黙ってディーノの顔を見つめるだけ。
突然始まったどこかの喜劇のような先のやり取りに目を丸くしていたディーノだったが、今度はその小さい姉ちゃんの態度に首を傾げる。
「何だよ、オレの顔に何か付いてんのか?」
やがて居心地の悪くなったディーノが、怪訝そうにそう問いかける。あの騒がしい狼女が静かなのも不気味だし、じっと見つめられるのも落ち着かない。
だが彼女はディーノの問いにプイッと顔を背けると、「別に……何でもないわ」と不機嫌そうにそう答えただけだった。そしてそのままディーノに背を向ける。
「あんたのお父さんは見つけた。再会も見届けたし、あたし達はこれで失礼するわ」
早口にそれだけを告げると、狼女はさっさと仲間の元へと歩き出してしまう。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
その態度と、先程の眼に言い知れぬ何かを感じたディーノは、去りゆくその小さな背中を呼び止めていた。
「……何よ」
「いや、その、えっと……」
しかしこちらを振り返ることなく応える狼女に、ディーノは二の句を次げなくなってしまう。先程感じた違和感以外にも、お礼とかまた会えるかとか、聞きたいこと言いたいことは色々あったのに。
そんな二人の様子を見兼ねたのか、それともさっさと立ち去ろうとする恩人に思う所があったのか、父と母もその背に近づき声を掛ける。
「もう行ってしまうのですか? まだお礼もまともにできていないのに……」
「そうだよ。せめて中でお茶でも飲んでいっておくれよ」
そう呼び止める二人に、小さい姉ちゃんはハァと小さく息を零すと、やはりこちらを振り返ることなく、肩越しに手をヒラヒラと振った。
「シスト商会が依頼って形にしてくれたから、ちゃんと報酬は貰ってるわけ。礼なんていらないわ」
「しかし……」
「それにせっかくの家族の再会、水入らずの時間を邪魔する気は無いわけよ。あたし達のことは気にせず、あんた達の望むままに過ごすといいわ………………期限は明後日の夜。残された時間を大事にしなさい」
食い下がる父に淡々とそう言い、自分達の申し出を受け流す狼女。最後の方の言葉は小さくてディーノには聞き取れなかったが、父と母は小さく肩を震わせると、それ以上は何も言わずに去っていく黒の翼の連中に深々と頭を下げるだけだった。
それからディーノは約十日ぶりに会えた父ディーターと、母アキノの三人で様々なことをして過ごした。
帰ってきた当日は、父の行方不明により行えなかったディーノの七歳の誕生日を盛大に祝った。
帰宅前にアキノと二人で買ってきたらしいバースデイケーキに、細い魔力灯を七本刺してディーノが点灯する。ケーキはディーノの好きな、甘いクリームとベリーがたっぷり乗ったもの。再会の喜びもあってか、去年や一昨年のよりも一回り大きい。三人で分けて食べるのだが、アキノは少々大雑把な性格のため、ケーキの切り方も雑だ。いつも大きさがバラバラになるので、ディーノは一番大きいのを食べていた。
料理もアキノが腕によりをかけて豪勢なご馳走を作ってくれた。こちらもいつもよりもずっと豪華だ。ディーノの好物だけでなく、夫であるディーターの好物もたくさん作ってくれていた。
豪華な晩餐のあとに、父からプレゼントも貰った。行方不明になる前に購入した物で、箱はひしゃげていたが中身に問題は無かったらしい。もちろん箱は新しいものに取り換えてあった。
プレゼントはディーノが欲しがっていたオモチャの魔銃だった。小さな水と風の魔石が付いており、魔力を込めれば水鉄砲にも空気銃にもなる、ミラセスカで人気のオモチャ。もちろん子ども用なので、威力は弱めだ。人に当たってケガすることもないし、ほとんど痛みも無い。
プレゼントの魔銃を構えていると、ふとあの小さい狼獣人の姉ちゃんも魔銃使いだったことを思い出した。親友であるウィンから聞いた話では、あんな小さい体からは想像できない程の凄腕らしい。なんでも魔物の群れ数百体を、たった一人で殲滅させたとか。
口は悪いし怒りっぽいし、素直じゃないが、実はディーノはあの小さな女冒険者のことは結構気に入っている。帰り際の様子はおかしかったが、もしまた会えたら銃の使い方を教えてもらうのも良いかもしれない。
ちなみに家の中で魔銃を試し撃ちして、母親にこっ酷く怒られることになった。その時のディーノの姿は、妙な魔導具を作ってティアに怒られるミリルの姿とそっくりだったという。案外二人の相性は悪くないのかもしれない。
次の日はそのオモチャの銃を持って、両親と一緒に海へ遊びに出掛けた。仕事は良いのかと思ったが、休みを貰ったので大丈夫らしい。行方不明の間、十日以上も休んでいたのに大丈夫なのかとは思ったが、父も母も大丈夫と繰り返すだけだった。
なお、行方不明になっていた理由は、今はまだ言えないと言われた。気にはなったし、帰ってきた当日は何度か食い下がったが、その度に父も母も酷く悲しげな困った顔をするので、ディーノもそれ以降は疑問を口に出すことは無くなった。
海では、もちろんプレゼントの魔銃も持って行き、戦いごっこをした。父は魔物役。自分はもちろん正義の冒険者役だ。
魔物役としてディーノから銃を向けられることに、ディーターは引き攣った笑いを浮かべていたが、それでも精一杯相手をしてくれた。以前遊んでいた時よりも、動きが素早くなっていたような気がするが、気のせいだろう。
それに飽きれば、三人でボート遊びをした。これもミラセスカのビーチでは定番の遊びだ。と言っても、観光客で賑わうミラセスカのビーチなので、手漕ぎのゴムボートではあるが。
もちろん海で泳いだりもした。三人で競争もした。実は家族三人で一番泳ぎが上手いのは、母アキノだったりする。これまでも毎年競争しているのだが、父もディーノも勝てたことが無かった。
だが今年はディーターが父の意地を見せた。「スッゲェな、父ちゃん!」とはしゃいで父を称賛する息子に、父は苦笑いを浮かべ、母は悔しそうに、だけど楽しそうに笑っていた。
そうして散々遊び倒したディーノは、夜にはすっかり疲れ果て、帰りは父の背中で寝息をたてることになった。寝ていてほとんど覚えていないが、久しぶりに乗った父の背中は温かく、そしてとても大きかった。
次の日の午前中は、アキノ監督の下、家で勉強させられることになった。ミラセスカの子どものほとんどは、町の学校に通っている。もちろんディーノもそうだ。
だが今の時期は、近海に魚が特に集まる時期で、漁師の家は繁忙期。子どもも手伝いに借り出される。
さらにミラセスカが観光都市に生まれ変わってからは、その時期に獲れる新鮮な魚介類を求めて観光客も増えることもあり、学校は長期休みとなっていた。
ちなみに今の季節は秋の暮れなので、秋休みと呼ぶには少し遅いだろうか。もっとも南国であるミラセスカに、四季の変化はあまりないが。
そして学校の長期休みの定番と言えば、やはり大量の宿題であろう。この世界、このミラセスカの学校でも、それはウキウキ気分の子ども達を苦しめる苦行であることに変わりはない。毎年、休みが終わるギリギリに宿題に追われる子どもが続出するところも、世界普遍の原理であった。もちろんディーノもその一人だ。父親の失踪とも、もちろん無関係に。
一応、まだ休みは一周間以上残っているが、いつも最後に泣きつかれているアキノとしては、いつまでも遊ばせておくわけにもいかない。せめて午前中だけでも、机に縛り付けておく必要があった。
もちろんそんな苦行をディーノが素直に受け入れるはずも無く、何度もディーノは逃亡を図った。だが残念ながら、アキノの厳しい監視の目を逃れることはできなかった。いつもはディーノに甘い父も、今回ばかりはアキノの味方だったのも痛い。まぁその分、父に色々勉強を教えてもらうことはできたが。
午後は、三人で都市の中心街へ遊びに出掛けた。空には雲がやや多く、風は少し湿っていて、夜遅くに一雨来るかもしれないとディーターが言っていたが、今のディーノにとってはあまり関係が無かった。
遊技場の遊具を遊び尽し、普段はアキノに制限される屋台の買い食いも解禁された。オモチャ屋では、父に色々とまたオモチャを買ってもらえた。プレゼントで貰ったのと同じ銃ももう一つ買ってもらった。今度は父と撃ち合って遊ぶためだ。
ただその理由を聞いたディーターとアキノが、酷く悲しそうな笑みを浮かべたことに、はしゃいでいたディーノが気付くことは無かった。
そうして久しぶりの家族三人の時間を、ディーノは思いっきり楽しむことができた。
きっと明日も明後日も、それからずっと先も、こんな幸せな日々が続くと信じていた。
だがそんな未来は――
「父ちゃんな、今日でお別れしないといけないんだ」
――悲しげに微笑む父自身の言葉によって、あっさりと否定されてしまった。
「…………………………え?」
最初、ディーノは父が何を言っているのか理解できなかった。
父は一昨日、ようやく帰ってきたばかりだ。ちゃんとただいまと言って、自分の元に帰ってきてくれたばかりなのだ。
それがどうして今日でまたお別れなんて、そんな話になるのか?
だが息子に目線を合せるように膝を折ったディーターは、混乱する息子が理解しやすいよう、ゆっくりとその理由を語る。
「実はな……父ちゃん、病気なんだ。それも、治すのがとても難しい病気だ。この前まで家に帰れなかったのも、病院で検査を受けていたからなんだ。お前が心配しないよう、結果が出るまでは、母さんもお前には黙っていた。それが却ってお前を不安にさせたみたいで、本当にすまないと思ってる」
ようやく聞かせてくれた行方不明の理由は驚くべきものだったが、確かに納得はできた。もっとうまいやり方はあったようにも思うが、本当にすまなそうに謝る父と、その後ろで辛そうな表情を浮かべる母の姿を見れば、それを責める気にはなれなかった。
それにそんな済んだことよりも、今はもっと大事なことがある。
「で、でも、何で……お別れ、なんて……」
父にそれを問い質さなきゃいけないのに、震える自分の口からはうまく言葉が出てこない。込み上げてくる言い知れぬ不安に、喉がカラカラに乾いて張り付いてしまったようだった。
そんなディーノの不安を少しでも和らげようとしたのか、父はいつものように頭を撫でようと息子へと手を伸ばす。
だが、伸ばされた父の手も、何かを堪えるように小さく震えていた。
「その検査の結果が悪くてな……父ちゃん、もう長く生きられないんだ……だから、お前とも、母さんとも、お別れしないといけない……」
「そ、んな……何で、急に……」
「その病気は、悪化したら周りにも迷惑がかかるものでな……そうなる前に、専門の病院に入る必要がある。その病院は、凄い遠くにあってな……今日の夜には、出発しないといけない。そして一度行ったら、もう二度と会えなくなる……だから、今日で、お別れだ」
最愛の我が子に言い聞かせるために優しく、冷たい事実を突き付けてくる父。拒絶したいのに、真っ直ぐに自分を見つめる父の眼が、そしてゆっくりと脳に浸透するように頭に入ってくる言葉が、それを許してはくれない。無情な父の言葉を邪魔したいのに、役立たずの喉はちっとも言葉を発してはくれなかった。
「本当は、すぐにでも行かなきゃいけなかったんだ……けど黒の翼の方達が、お別れの時間をくれた。最後に、家族三人で過ごす時間をくれた……お前達に、大切なことを伝える時間をくれたんだ……これが、父さんからお前に贈る、最後の言葉だ」
そう告げる父の目から、大粒の涙が零れた。
初めて見る、父の涙。
その涙が、何よりも雄弁に父の言葉が真実だと――父との別れが、覆しようのないものだと告げていた。
だから、これから話す父の最後の言葉を、ディーノはしっかりと聞き届ければならなくて――
「…………ヤダ……」
「……ディーノ?」
――なのに、口から零れたのは、そんな拒絶の言葉だった。
そうして一度零れ落ちてしまえば、あとは堤防が決壊するように言葉が溢れ出す。
「ヤダヤダヤダ! 何だよ最後って! ふざっっけんなよ! 何で急にそんなこと言うんだよ!? 病気とかもう治らないとか! オレの知らないところで勝手に全部話終わらせて! それでいきなり今日でお別れとか、そんな勝手なこと言うなよ!」
暴れ狂う感情に任せて、目の前の父にありったけの言葉をぶつけるディーノ。大好きな父に向って、こんなに反抗したのは初めてだ。もっともそんな感慨を抱いている余裕など、今のディーノにあるはずはないのだが。
「ディーノ、父ちゃんと話す最後の時間なんだ。ちゃんと最後まで話を――」
「そんなの聞きたくないよ!」
感情のままにディーターを責めたてる息子をアキノが窘めるが、それすらも拒絶してディーノが叫ぶ。言葉と同じく、すでに目からは涙が零れて止まらない。
「お別れなんてヤダよ! 最後なんて絶対ヤダ! 父ちゃんも母ちゃんも大嫌いだ!」
心にもないことを叫んで、ディーノは二人に背を向けて走り出そうとした。
そんなことをしても、何も変わらないとは気付いている。
だが無情な現実から逃げだしたくて、ディーノは二人から目を背けた。
話を聞いたら、父の言葉を認めてしまうような気がして。
“最後”の言葉を聞いたら、それが現実になってしまうような気がして。
でも残酷な現実って奴は、そんなディーノの幼い逃避を許してはくれなかった。
「ディーノ!」
ディーノの行動を予想していたのか、ディーターは逃げ出した息子に素早く追いつくと、その肩に手を伸ばしディーノを引き留めた。
「離せよっ!」
捕まったディーノはもちろん抵抗した。認めたくない現実から逃れようと、がむしゃらに。
だが父は決してディーノを掴んだ手を離そうとはしなかった。いつも優しく頭を撫でてくれる手が、今は痛いくらいにディーノ肩を掴んで離さない。
まだ幼いディーノの力では、そんな父の大きな手を振りほどくことはできなくて……
「離せ! 離せって言ってんだろ、バカ父ちゃん!」
「ディーノ!」
ムキになって暴れた挙句、そんな罵声を浴びせる息子に、温厚な父も我慢が出来なくなったのか、自分が聞いたことも無いくらいの大声を張り上げた。
そしてついに父のもう片方の手が、勢いよくこちらへと伸びてくる。
叩かれる! と、ディーノは暴れていた身体を縮め、衝撃に備えて身を強張らせた。
だがやってきたのは、痛みや衝撃ではなく――
「ディーノ……」
――優しい胸の温かさだった。
父は、伸ばした両手でディーノを引き寄せると、絶対に離さないと言うように力強く、だけどまるで壊れやすい宝物を扱うように優しく抱きしめていた。
そうして様々な感情に溢れた震える声で、胸の中にいる我が子へ言葉を送る。
「ゴメンな……ずっと一緒にいられない、ダメな父ちゃんでゴメンな……」
「……やめろよ」
「ホントは、ずっと傍にいたいよ……どんな仕事でも良い。お前が一人前に働く姿を見たかった……大人になったお前と一緒に酒を飲み交わすのが夢だった……いつかお前が連れてきたお嫁さんに会って、孫を抱いて、そうやってずっと、ずっと一緒に……」
「やめろって言ってんだろ!」
涙交じりの父の声を必死に遮ろうと、ディーノが声を荒げて父の腕の中で暴れる。
でもどんなに拒んでも、父の言葉はまるで心に直接語り掛けられているように、ディーノの耳に届き、胸を強く締め付け、心を痛いくらいに震わせた。自分でもどうすることもできない感情が涙となって溢れ出し、次第に抵抗する力さえも失われていった。
「ゴメン……ホントに、ゴメンな……」
「……やめ、ろよ……ヤダよ……」
「母ちゃんのこと、大切にしろよ……ああ見えて、結構弱いところあるから……お前は、男の子なんだから、ちゃんと守ってあげてくれ……」
「……や……ぅあ……」
「たとえ、二度と会えなくても……父ちゃんは、お前と母ちゃんの幸せだけを願ってるから」
告げられる内容に拒絶の言葉を返すこともできず、もうディーノに許された抵抗は、父の胸の中で嗚咽を堪えることだけだった。
だが、そんな最後の抵抗も――
「父ちゃんは……ずっとずっと、お前のことを愛してるぞ」
「ぅ……ぅあ……ああ…………ぁああああああああああああああああああ!」
父がくれた最後の言葉を前に、脆くも崩れ去ってしまった。
そうして一度溢れ出してしまえば、涙も感情も叫びも止めることはできない。ただその胸に縋り、泣き叫ぶ息子を、父は強く抱きしめ、その頭を優しく撫でてくれた。
その後、誰の心をも揺さぶるようなディーノの悲しい泣き声は、彼が泣き疲れて眠ってしまうまで止むことは無かった。