戻らぬ二人
観光都市であるミラセスカには、観光客が宿泊するための宿やホテルが無数に存在する。そのほとんどは観光の目玉であるビーチや新鮮な海産物が並ぶ市場が多い海沿いや、商業施設が立ち並ぶ都市の中央付近に集まっている。
一方、都市の内外を結ぶ外壁の傍にも宿はいくつかある。だがそのほとんどは観光客向けではなく、都市への出入りが多い冒険者や行商人向けだ。ゆえに見た目や部屋の広さやよりも、合理性を重視。貧乏な新人冒険者でも泊まれるような安宿も多い。
そんなミラセスカの冒険者向けの宿の中でも、値段、質ともに最上位にランクされる高級宿のさらに最上階、最上級のスイートルーム。その部屋の中央にティアはいた。
この宿は、シスト商会のトップであるオリヴァルドとレフィーニアが用意したものだ。最初はミラセスカ都市内の自宅へ招かれたのだが、ギルドと離れており活動がし辛かったので辞退した。その結果用意されたのが、ティア達では絶対に選ばない、この最高級の宿というわけだ。
室内は高級感に溢れつつも決して華美にはならず、華やかでありながら安心感を与えるデザインとなっている。アンティークのような調度品の数々も、品があって実にティア好みだ。仄かに香る花の香りも良い。女三人で泊まるには少々広過ぎるとは思うが、それほど気にならないのはやはりこの部屋全体が落ち着いた雰囲気に包まれているからだろう。
座っているのは、一人掛けの大きなソファー。魔物の革が使われた高級なソファーだ。色合いは決して派手ではなく、落ち着いた室内の雰囲気とマッチしている。弾力も固すぎず柔らかすぎず、背もたれに背を預ければ体全体を優しく包み込んでくれるだろう。
ティアは現在、寝間着として使っている薄手のワンピースに、レースのストールを羽織っている。部屋の雰囲気とその服装、そしてその透き通るような美貌が相まって、まるで深窓の令嬢のようだ。
そんな最高に整えられた空間で、しかし一人座るティアの表情は酷く不安げなものだった。
背筋を伸ばし、行儀よく座っているのはいつも通り。だがその空色の瞳は、カーテンの閉め切られた窓、壁に掛けられた時計、部屋の入口の扉、自身の指に光る最愛からの贈り物の間を何度も何度も彷徨っている。
両手を組んで握ったかと思えば、今度は込み上げてくる何かを押さえつけるように胸元へ。かと思えば、テーブルの上のカップに手を伸ばし、既に空になっていることに気付く。ちなみに空のカップに手を伸ばすのは、これで三度目だ。もっともこんな時間にルームサービスを呼ぶ気にはなれないのだが。
ちなみに現在の時間は夜中の一時だ。繁華街の方は、まだ開いている酒場などもあるだろうが、大半の人は皆夢の中だろう。
ティアも本来であればとっくに寝ている時間だ。夜が苦手という訳ではないが、用も無く夜更かしするようなタイプでもない。
にもかかわらず、ティアがこうして夜遅くまで起きているのは――
「っ!」
――トントン
部屋の入口の方から、控えめなノックの音が聞こえた。
その音がなる前に、勢い良く立ち上がったティアが、勢いよく扉を開いた。こんな夜更けに訪れた来訪者相手に一見すると不用心極まりない行動だが、外に感じた気配をティアが間違えるはずもない。
そうして部屋の前に立つ来訪者――アルの浮かない顔を見て、ティアの表情にも影が差す。
「アル……やっぱりリオンからの連絡は……」
「ないよ、ティア姉。そもそもリオンが連絡をするなら、ティア姉かミリル姉だよ」
苦笑いを浮かべてそう言うアルに、ティアも同様の笑みを返す。
リオンとファリンが戻ってこない。シスト商会会長オリヴァルドから受けた依頼、ストームウルフの討伐と行方不明になった冒険者の捜索から。
討伐対象の出没した場所は、ミラセスカからは徒歩で一時間程。二人が出発したのは早朝だ。ストームウルフ自体は例え群れで現れようと、あの二人ならば何の問題も無い。調査については、何の成果も無かったとしても夜になれば戻ってくるはずだった。野営が必要なほどの距離ではないし、暗い中での捜索は効率が悪い。出発する前にはリオンも、その日の内には戻ると言っていた。
だが、日が変わっても二人は戻ってこなかった。
「やっぱりあの二人に何かあったと考えるべきなんでしょうね……」
「まさか……ファリンはともかく、あのリオンが……」
アルが信じられないと言うように呟き、小さく首を振る。
「リオンだって決して完全無欠ってわけじゃないわ。誰かに負けることだってあるし、ミスすることだってある。ビースピアの事件を考えれば、アルにもわかるでしょ?」
アルの小さな肩にそっと手を置き、そう言い聞かせる。
先日まで滞在していた浮遊島――ビースピアでリオンは敗北した。これまで自分達を導き、多くの強敵を打倒してきたリオンの敗北は、黒の翼のメンバーに少なくない衝撃を与えた。
それに、アルや他のメンバーは知らないことだが、ティアだけは知っている。
いつも毅然とした態度を崩さないリオンも、悲しい時には大粒の涙を流すことを。どんな大物相手にも堂々と交渉をするリオンも、愛の言葉を囁く時には気恥ずかしそうに口ごもることを。何でもわかるように見えて、実は乙女心を読み違えることがあることも。
リオンだって、普通の人間だ。泣き、悔やみ、怒り、間違える、ティア達と同じ弱さのある人間なのだ。
それでも――
「リオンにも予期せぬ何かがあったのは間違いない。でもリオンとファリンが、そう簡単に死んだりするはずないわ。きっと今も生き残るために戦ってるはず。だから私達も、リオン達を信じて行動しましょう」
「……そうだな。もし何かがあって困ってるなら、オレ達が助けてやらないと!」
内心の不安に蓋をして、力強くそう言えば、アルの表情にも笑みが戻った。
別行動中のため、今ここにはミリルもジェイグもいない。実力はともかく冒険者の中では確実に若手の部類に入る黒の翼の中でも、アルはさらに若い。まだ成人したばかりだ。戦闘技術については着実に成長しているが、精神面ではまだ弱さがある。そのため今は自分がしっかりしなければならない。
「だから今夜はもう寝ましょう。明日……じゃなくて、もう今日だけど、しっかり動けるように体を休めておかないと」
「そうだな。じゃあ、オレは部屋に戻って寝るよ。おやすみ、ティア姉」
「おやすみなさい、アル」
部屋に戻るアルを見送ってから、ティアはゆっくりと扉を閉めた。
そうしてアルが帰ってしまえば、残るのはティア一人。鍵を閉めて振り返れば、そこには誰もいない部屋。今日使い始めたばかりの、見慣れない部屋。三人でも広く感じるだろう部屋を横切り、三つ並んだベッドの真ん中に倒れ込んだ。
仰向けになったティアの視線の先には見知らぬ天井。点けっぱなしのままの大きなシャンデリアの灯りが眩しくて、腕で光を遮る。
ふと横に視線を向ければ、空っぽのままのベッド。キレイに整ったままのシーツと掛布団が、まるで使われるのを拒んでいるようだ。
もちろんミリルがいないのは、別件で動いているだけなのだが。
「……リオン……ファリン」
自分の口から出た声の弱々しさに、自分でも嫌気が差す。アルの前ではあんな事を言っていても、一人になった途端これだ。
もちろんさっきの言葉は嘘ではない。リオンの事は信頼しているし、黒の翼では最年少かつ実力も低いファリンだって、冒険者全体で見れば十分な実力を持っている。むしろ洞察力や変身魔術、隠密行動においては、間違いなく世界でもトップクラスの実力者だ。興味の無いこと以外でなら、頭の回転だって悪くはない。
二人の事は信頼している。
だが心配する気持ちは、どうやったって振り払えない。
(ダメだなぁ、私は……たった一晩音信不通になっただけで、すぐに不安になっちゃう)
こんなとき、いつも思い出すのは二つ。
一つは五年前の炎の夜。いつか帰る場所と、大切な家族のほとんどを失った日のこと。
そしてもう一つ。
まだ幼い自分が見送った、実の両親の背中。そして二度と帰ることは無かった――いや、正確には傷だらけの母の遺体と父の腕だけは帰ってきた。
そんな二つの喪失の記憶が、焦りや不安を生み、消えない傷となってティアの心をキリキリと締め付けるのだ。
(でも今の私は、ただ待ってるだけの幼い私じゃない。何もできず、泣いてるだけの弱い私じゃない。リオンのこと、支えて、守れる私になるって決めたんだから)
不安は消えない。心配する心は、今も痛みを発している。きっと今夜は満足に眠れはしないだろう。
それでもアルと二人で、絶対にリオンとファリンを連れて帰る。
その決意を胸に、せめて少しでも身体だけは休めるよう、ティアはベッドの上でゆっくりとその目を閉じた。
翌朝早く、ティアとアルは宿を出ると、まずはミラセスカのギルドに足を運んだ。
二人の気持ちとしては、本当は真っ直ぐにリオン達を探しに行きたいところ。そんな逸る気持ちを抑えてでもギルドに向かったのには、もちろん理由がある。
何せあのリオンとファリンが帰れなくなるほどの事態だ。捜索に向かうティア達も無事で済むとは限らない。
ゆえに万が一を考えて、ギルドに情報を伝えておく必要がある。もちろん依頼者であるシスト商会にも伝令を頼む。そうすれば仮にティア達が捜索に出ている間にミリル達が戻ってきても、すぐに状況を知ることができるだろう。
それに冒険者ランク二級の冒険者が行方不明になるほどの事態だ。ギルドも本腰を入れて対応に当たるだろう。
その後、すぐに調査に向かおうとしたティア達に、ギルド職員から他のパーティーに応援を頼むことを提案されたが、断った。ティア達の実力に見合ったパーティーがすぐに見つかる保証はなかったし、連携などの面でも不安が出る。それに高ランクとはいえ、こちらは若い女と見た目子どもにしか見えない男の二人組だ。おまけに依頼内容は、行方不明の仲間の捜索。その上相手も高ランクとなれば、舐められてこちらの言うことなど聞いてくれないだろう。
ゆえに多少の不安はあったが、アルと二人だけで捜索に出ることにした。
その後、ミラセスカを出た二人は現在、昨日リオン達が向かったはずの丘の上までやってきた。
「ハァッ!」
アルが半身になりながら、右手を薙ぐ。
飛びかかってきたストームウルフとすれ違うように振るわれた小剣が、狼の身体を一文字に斬り裂いた。
「っし、これで終わりっと」
「お疲れ様」
血を振り落とした双剣を鞘にしまったアルに、ティアが労いの言葉をかける。
丘の上に到着した二人を待っていたのは、もちろんリオン達……ではなく、血に飢えたストームウルフ達だった。
その数は五匹。討伐ランク七級の魔物など、たとえ百匹集まろうと二人の脅威ではない。質の低い数の暴力など、容易く跳ね返すからこその上級冒険者だ。
ゆえに自ら進んで討伐を引き受けたアルが、一人で全て瞬殺した。かかった時間は十秒に満たない。アルと同じランクのファリンでも、同様に瞬殺できるだろう。当然、アル達よりも強いリオンが負けるとは考えにくい。
「別に何の変哲もないストームウルフだったな」
「そうね。でも最初の出没報告は、この丘の向こうよ。なのにここまで登ってきているってことは、丘の反対側にはまだ狼達がいるかも」
「こんな奴ら、千匹いたってリオンの敵じゃないと思うけどな」
「まぁ倒せないこともないと思うけど、さすがにそんなにいたらリオンも応援を呼びに戻ると思うわよ」
さすがに魔物が百匹を越えれば、二人では手が回らずに敵が人間のいる方へと向かう可能性がある。なのでそんな群れを見つけた場合は、一人を見張りに残し、もう一人が応援を呼びに走るだろう。
“数的”な要因は問題ではない。もしリオン達が戻らない原因が魔物にあるならば、それは魔物の“質”に問題があるだろう。
それ以外の要因といえば、あとは人的なものだろうか。まぁ情報が不足している以上、考えすぎてもどうしようもないのだが。
「ちなみにリオンとファリンの匂いは?」
「狼達の臭いに紛れてるけど、まだ残ってるよ。丘の向こう側へ降りてったみたい」
「なら私達も行きましょう。ただし、慎重にね」
狐の獣人のアルを先頭に丘を降る。さすがにリオン達は昨日来たばかりだし、家族の匂いを間違えるはずもない。痕跡を辿ることはそう難しくはないだろう。
ゆっくりと周囲を観察しつつ丘を降っていくと、やがて下の方に新たなストームウルフの集団が見えた。数は先よりも多く、十匹以上はいる。まだこちらには気付いていないようで、下の方をウロウロしているが。
「アル、二人の匂いは?」
「まだ下の方に続いてる。倒す?」
「いえ、少し様子を見ましょう。あの子達の行動から何かわかるかもしれないし」
この辺りは下までまだ距離もあるし、やや凸凹しているので、身を隠しながら観察することは可能だ。見たところ下にいるストームウルフにも、特に不審な点は無い。だが現状、リオン達の行方不明の理由がわからない以上、様々な可能性を検証する必要があるだろう。
「もしかしたらストームウルフの大きな縄張りが近くにあるのかも」
「じゃあリオン達もそっちに向かったのかな。で、広すぎて時間がかかってるとか」
広範囲に縄張りが広がっており、そのため駆除に時間がかかっている。可能性としてなくはないが……
「もしそうなら、やっぱり一度戻ってくるんじゃないかしら。そんなに広いなら、私達を呼んで人数を増やした方が早く終わるし」
人間の住む地域近くの魔物の縄張りが広がるのは、そこに住む人々にとっては死活問題だ。ギルドも冒険者の数を揃えて対処に当たる必要がある。リオン達がどんなに強くても、広範囲の魔物を全て素早く駆除するのは不可能だ。
やはり手掛かりがない以上、ストームウルフ達の観察を続ける必要がある。
「あれ?」
「どうしたの、アル」
物陰に隠れて狼達を監視していると、アルが不思議そうに首を傾げた。少しの間、何かを確かめるように鼻をヒクヒクさせながら周囲の匂いを嗅いだ後、再び首を傾げた。
「なんか妙な臭いがする。多分、血の臭い。だけど狼達とは違う。なんか色々混ざってる」
「混ざってる?」
いまいち要領を得ないアルの発言に、ティアが怪訝な表情を浮かべる。
「離れてるからちょっとわかりにくいんだけど、下の方から血の臭いがするんだよ。それも色んな動物の。でも死体も骨も無いし、あいつらの口元にも血なんか付いてないからおかしいなと思って」
確かにそれは妙な話だ。ストームウルフは獲物の骨までは食べないので、血の臭いがするならば、何らかの痕跡が残る。そもそも観光スポットにもなっているこの辺りには、この規模の狼達が寄ってくるほど野生動物はいないはずだ。
いや、そもそもと言うなら、何故これだけの数のストームウルフがこんな人里近くまで現れたのか。いくら丘のこちら側は人が来ないようにしているとはいえ、魔物の駆除は定期的に行われているはずなのに。
「まさか、誰かがわざとストームウルフ達を呼び寄せた? でもそんなことしていったい何の意味が……」
強い血の臭いを使った魔物の誘導。それは冒険者が使う常套手段である。それ専用の薬液も売られているくらいだ。
だが魔物を呼び寄せる以上、販売や使用には厳正なルールが設けられている。当然、こんな人里近くでの使用は禁止だ。破れば厳罰も覚悟しなければならないだろう。
理由も不明だ。リオン達がやったとは考えられないし、その前に行方不明になったという冒険者もおそらく違うだろう。むしろ狼達が呼び寄せられたからこそ、彼らがここに来たのだから。
わからないことだらけだが、ひとまずストームウルフ出没の原因はわかった。同時にリオン達の行方不明の原因が、ストームウルフそのものではない可能性が高くなった。
「狼達が呼び寄せられただけだっていうなら、これ以上観察を続ける必要はないわね。すぐに討伐して、周囲の調査を――なっ!?」
ストームウルフを掃討しようと立ち上がろうとしたティアは、しかし直後に起こった現象に思わず息を呑んだ。
ストームウルフが消えたのだ。唐突に。
いや、正確には消えたのではない。
落ちたのだ。
突然地面に開いた四角い穴に。
上から見ていたティア達だから、何が起こったか理解できた。狼達と同じ高さから見ていたら、本当に消えたように見えただろう。
「何だアレ? 何であんなところに落とし穴が?」
「わからない。わかるのは、あれが人の手で作られたモノってことくらいね」
あんな真四角の穴など、自然にできるはずがない。そもそも狼達が落ちる際に、両開きの扉のように穴が開いたのは見えていた。
問題は、あれが誰の手で、何の目的で作られたかということだ。
「穴が閉じ始めてる! どうするの、ティア姉!?」
やがてゆっくりと閉じていく落とし穴に、アルが慌て出す。あまりにも不可解な仕掛けに、アルもティアと同じ想像をしているのだろう。
あの落とし穴は、間違いなくリオン達の失踪と関連があると。
「ひとまず狼達を片付けましょう。あの穴を調べるのはそれからよ。間違っても穴に落ちないようにね」
「……わかった。あいつらはオレに任せて」
「お願いするわ。ただ、落とし穴があれだけとは限らない。十分注意して」
ティアの忠告に頷きを返したアルが、勢いよく丘を降っていった。穴に落ちずに残っていた狼達は、わずか数匹。先程同様、瞬殺できるだろう。それにティアと違って、アルはリオン直伝の天脚により数回だけならば――まだリオンほど使いこなせてはいない――空中での移動が可能だ。万が一、他の穴があったとしても、回避は可能だろう。
ティアは大きくジャンプして斜面を飛び越すと、既にほとんど閉じ切ってしまった穴の傍へと着地した。さすがに扉の大掛かりな構造上、穴が横並びになっている可能性は低いだろう。
(魔力の気配……やっぱり魔術的な仕掛けね。ミリルがいたら詳しく調べられるんだけど……)
ティアもある程度の魔術知識はあるが、ミリル程の技術も応用力も無い。魔術陣の解析には時間がかかるし、見たことの無い魔術ではお手上げだ。
(扉の材質はおそらくミスリル。この厚さでは一度閉じてしまえば、こじ開けるのは難しいわね。ただ開いてから閉じるまでの時間を考えれば、ファリンと一緒に落ちたとしても、リオンなら脱出できるはず)
天脚によって空中を移動できるリオンにとって、落とし穴はさほど恐ろしい罠ではない。すぐに底についてしまうような浅い穴ならともかく、これだけのものなら落下中にいくらでも対応は可能だろう。
(穴の奥は見えない……どうやらかなり深いみたいね。下に何があるかによるけど、リオンなら仮に落ちても問題ないはず)
仮に下が槍床だったとしても、リオンがいれば問題ない。毒沼などならわからないが、リオンならば機転を利かせて乗り切ることもできそうだ。
(そもそもこんな丘の麓に致死性の落とし穴を仕掛ける理由が無いわね。魔物対策にしては雑すぎるし、アルが言ってた臭いの件もある。多分、これはストームウルフを誘き寄せて捕らえるためのもの。なら、仮にリオン達がこの穴に落ちていたとしても、罠で死ぬことは無いはず)
魔物を捕らえる理由にも、ティアは心当たりがあった。それはビースピアからミラセスカに来た理由の一つでもある。
『人』と『魔物』の合成実験。明るく賑わう観光都市の裏で行われているはずの悪魔の実験。それを止めるために、黒の翼は動いている。
『人』の方はミラセスカに来る観光客を誘拐しているのだろう。確定した情報はギルドでもまだ入手していないが、その可能性は極めて高い。ミリル達が捜索に向かったディーノのお父さんも、もしかしたらその実験に巻き込まれているかもしれない。
だが魔物の方はどうしていたのか? 大っぴらに魔物の捕獲依頼などを出していれば怪しまれる。そもそも魔物の領域に入って一匹一匹捕まえに行くのは手間がかかるし、危険もある。捕らえた魔物を運搬する必要もある。
そのための手段の一つが、この落とし穴なのではないだろうか。
「ティア姉、終わったよ。そっちはどう?」
ティアが落とし穴を検証していると、ストームウルフ達を始末したアルが、後から穴が開いていた地面を覗き込んでいた。ちなみに落とし穴はもう閉じ切ってしまっており、今は草の生えた地面があるだけだ。
アルの問いに、ティアは落とし穴を検証した結果と、それに基づいた推測を説明する。
「リオン達がここに落ちたかどうかはまだわからないけど――」
「いや、多分リオン達はここに落ちたはずだよ。二人の匂いがここで途切れてるし、さっき穴がまだ開いてるときに、中から少し二人の匂いがしたから」
アルがそう言うなら間違いないだろう。二人はこの穴に落ちて、戻ってこられなくなったのだ。
「どうする? こじ開けるか、また蓋が開くのを待つ?」
「……いえ、止めておきましょう。アルがいるから高さを気にする必要はないでしょうけど、穴の奥がどうなってるかわからないもの」
アルの魔法属性は風と火。天脚も使えるようになったし、風魔法で落下の衝撃を緩和することは可能だろう。
だが、それ以外の罠が待ち受けている可能性もある。それに一度ここから落ちれば、脱出するのは難しいだろう。この穴に飛び込むのは最終手段にしたい。
「おそらくこの穴はストームウルフを捕まえるためのもの。なら狼達を利用する人達用の別の入り口があるはずよ。まずはそれを探しましょう」
もし捕まえた狼達を実験に使うとしたら、その実験場はここからそう遠くない場所にあるはずだ。
そしてその場所は地下にあり、なおかつミラセスカからもあまり遠くない場所。おそらくここよりもミラセスカ寄りの位置にあるはず。
実験に使うのは『人』と『魔物』だ。『魔物』の方をここで調達し、『人』をミラセスカで誘拐するなら、実験場はその間にあるのが望ましいだろう。おそらく都市の方からも地下通路のようなものが繋がっているはず。
(ディーノ君のお父さんが行方不明になったっていう灯台に、もしかしたら何か手掛かりがあるかもしれない。でもそっちはミリル達が向かっている。なら私達は別のルートを探した方が良い)
おそらく、そのルートはいくつも用意されているだろう。町の中で誘拐した人達を誰にも見つからずに運ぶなら数は無闇に増やせないが、単一のルートのみに頼るのも危険だ。
そして人を最も誘拐しやすいのは、やはりミラセスカの外だろう。観光都市であるミラセスカ周辺には、この丘のような観光スポットがいくつかあり、観光客が都市の外に出ることもある。他の町へと移動する者も多い。都市の外ということで、多少は警戒しているだろうが、誘拐の難易度はやはり最も人の多い街中よりは遥かに低いはず。
そして都市の外で捕らえた人達を、わざわざ都市の中へ運ぶ意味は無い。年に入るには、常に監視の目がある外壁を超える必要があるからだ。そんなリスクを冒すなら、最初から都市の中だけにターゲットを絞ればいい。ならば間違いなく、都市の外にも実験場への入り口があるはず。
ちなみにこの場所は丘の上からは見えないし、丘のこちら側には人は来られない。そもそもミラセスカ側と違って、こっちは足場も悪いし、崖みたいになっている。だからこそこんな大それた仕掛けを用意することができたのだろうが。
(とはいえ魔物が来るかもしれない場所に入り口を設置するとは思えない。観光客が来るような場所は論外。人目につかない場所で、かつミラセスカとこの場所の間にあるのは……)
ミラセスカ周辺の地図を思い出し、その中から入口がありそうな箇所を絞っていく。
入り口もこの落とし穴のように隠されているはず。魔物を誘き寄せた箇所の近辺に入り口は作らないだろう。ゆえにここからは離れた場所。だがミラセスカ近隣は見晴らしの良い草原地帯が多く、人目に付く可能性がある。
怪しいのは人目につかない場所。あるいは人がウロウロしていても怪しまれない場所。
(もしかしたらあそこなら……)
ふと思い出したのは、ここに来る途中に丘の上から見た風景の中にあった一つの建物。人目につかず、かつ多少人が近くを通っても、遠目からは怪しまれない場所。
ミラセスカの下水処理施設だ。