黒ふくろうの家の日常
「でやぁっ!」
昼下がりの孤児院の庭に気合のこもった声と木剣を打ち合う音が響いた。
声の主はアル。
両手に握った木製の双剣を交互に振るい、素早い身のこなしと手数の多さで相手に迫る。
それに対するはリオン。
次から次へと迫る剣戟を弾き、躱し、受け流す。双剣を使うアルの果敢な攻めを木剣一本で全て防いでいく。
「どうした、もう息が上がってきてるぞ」
「まだまだぁ!」
疲労の色が見え始めたアル。素早さは高いが、まだ無駄が多い。ペース配分を考えずに飛ばしてきたことで、すでに息が切れ始めていた。
「これなら、どうだぁっ!」
力強い踏み込みとともにアルが一気に間合いを詰めてくる。そのスピードはかなりのものだ。
だが動きがあまりに直線的過ぎる。
(焦ったうえでの、がむしゃらな突進……?)
アルの性格ならあり得なくはない。
しかし、その思考も一瞬のこと。
すぐにリオンは迎撃の構えを取る。
リオンはどんなときでも油断などしない。それが即座に自分の命を奪うことを知っているから。
二人が剣の間合いまで距離が詰まる。
あとはどちらが先に剣を振るうか。
アルは両の手を下げたまま。頭上ががら空きだ。
(これはおそらく罠)
その隙だらけの頭に、リオンが剣を振り下ろすのをアルは狙っている。おそらくアルは半身をずらすことでそれをギリギリ回避。そして剣を振り下ろした隙を狙って一閃。それで勝負を着けるつもりか。
(いや、違う……これは)
アルの狙いを読んだリオンが選んだのは横薙ぎの一撃。左から右へと奔る真一文字の剣閃。それが頭上への斬り下ろしを待っていたアルの意表を突く。
……はずだった。
「ここだっ!」
アルの姿がリオンの視界から消える。横薙ぎの一撃は鋭い風切り音とともに空を切った。
(下か!)
地面を這うような体勢。片手を地面に突き、リオンの剣を文字通り潜り抜けるようにして回避したアルが、リオンを見上げている。
その視線は獲物に噛みつく獣。
そして空いたもう一方の手に握られた剣が、獣の爪のように振り上げられる。
その刃がリオンのがら空きのわき腹へと迫る――
(甘い!)
寸前、リオンが上体を逸らした。斜めに振り上げられた剣は、リオンの服に触れることさえできない。
「がっ!?」
それだけではない。
アルの動きを読んでいたリオンは、剣を回避しながらもアルへと反撃。リオンの左足がアルのわき腹を蹴る。
加減はしているが、それでもその威力はかなりのものだった。
無防備なわき腹に決められた蹴りに、勢いよく飛ばされたアルの体が地面を打つ。
「ぐぅっ、くそおおっ」
痛みを堪えながらもどうにか起き上がるアル。
その鼻先にリオンの剣が突き付けられた。
勝負あり。
終了の鐘の音も、勝利を告げる声もない。しかし、その決着は誰の目から見ても明らかだった。
「だああああっ! また負けたー!」
アルが隠しきれない悔しさを叫び、地面へと倒れこんだ。
「まだまだ甘いな。動きに無駄も多い。それに、一撃で決めれるような相手ではないんだ。手を抜くのはダメだが、がむしゃらに攻めてもすぐにバテてしまう。ペース配分や相手の動きを見極めるのも大事だ」
「ちくしょー、ぐうの音も出ない」
肩で息をし、歯噛みしながらも、アルはリオンの言葉を真剣に受け止めている。
悔しいのは間違いないだろうが、それ以上に「強くなりたい」という気持ちの方が強いのだろう。アルのその眼を見たリオンは、自分の頬がわずかに緩んだのを感じた。
「だが、最後の攻撃はなかなか良かったぞ」
「ホントか!」
珍しいリオンの褒め言葉に嬉しそうな顔で跳ね起きるアル。
その姿に苦笑するリオンだが、これで調子に乗られても困る。特にアルは褒めるとすぐに調子に乗るのだから。
基本落とす。たまに上げてもすぐ落とす。それがリオン師匠のアルに対してだけの訓練法。名付けて『鞭、極稀に飴』
別にリオンにSっ気があることとは関係ない。ないったらない。
「もっとも、あんな風に殺気が出てたら意味がない。せっかく相手の視界から消えても気配でバレバレだからな。それに相手を罠にかけるにしても、少しわかりやす過ぎる。相手にそれなりの実力があれば、簡単に狙いを読まれてしまうだろう」
今みたいにな、と付け加えて鞭の時間は終わりだ。
「あ~あ! リオンが孤児院を出る前に一勝しておきたかったのにな」
「孤児院の年長者としては、そう簡単には負けてやれないな」
地面に座ったまま悔しそうに吠えるアルに、リオンが手を差し出す。
その手を不承不承といった様子で掴んだアルを引っ張り起こし、労いの意を込めて背中を叩く。前世の空野翔太の時にも弟はいなかったが、もしいればこんな感じだったのかな、とリオンはちょっと嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちになった。
「いや、実に良い戦いだったぞ」
そんな二人の耳に凛々しい女性の声が拍手とともに届いた。
振り返ると、そこにはこの黒ふくろうの家の経営者であるリリシア先生が、満足気な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
リリシア先生の周りにはまだ幼い子ども達。リリシア先生と手を繋いだり、先生の服を握りしめたりとその様子は様々だ。まだ甘えたい盛りなのだろう。そのうちの何人かは、先ほどのリオンとアルの訓練を見たのか、目をキラキラさせて、勝利したリオンに熱い視線を送っている。
そのほとんどは男の子だが、中には女の子もいる。といっても、その目を見る限り、そのキラキラは決して乙女チックなものではなさそうだ。ミリルみたいのがいるのを考えると、意外にこの孤児院の女の子は血の気が多いのかもしれない。
(まぁリリシア先生もあんなだしな……)
「おい、今何か妙なことを考えなかったか?」
「いえ、何も」
リリシア先生が鋭い視線を放ってくるが、知らん顔だ。考えが読まれたかのような反応だが、別にリオンが顔に出やすいわけではない。先生がやたらと鋭いだけだ。
「まぁいい。とにかくだ……二人とも随分強くなったな。まぁリオンは昔から馬鹿みたいに強かったが……」
馬鹿みたいとは失礼な、とはもちろん言わない。リオンも自分の成長が人と明らかに違うのを、それこそもう何年も前から自覚しているのだから。
前もって言っておくが、別にリオンは前世の言葉にあった『チート』と言われるほどの存在ではない。
空野翔太が転生したこの体は、確かに様々な才能に恵まれていた。それは身体能力に始まり、魔法や頭脳もだ。特にこの世界では魔法の実力が、その後の人生を左右しかねないほどに重要視されている。それは属性によって職業の適性が変わったり、身体能力を強化できることから容易に想像できるだろう。
重ねて言うが、別にだからといってリオンがチートなわけではない。
リオンは初めて魔力を測定した五歳の頃から魔力が高かったが、あくまで普通よりは高かっただけだ。リオンくらいの魔力の人物は、世界中を探せばそれなりにいる。
それにリオンの魔力が高いのには、ちゃんとした理由があった。
リオンは前世で十八歳の時の知性と知識を持ったまま赤ん坊の体に転生した。
赤ん坊の体ではまともに動くことはできなかったし、最初のうちは声を発することさえできなかった。どういうわけかこの国の人々は日本語に近い言葉で話していたが、まさか赤ん坊がいきなり話し出すわけにもいかない。
当然、リオンは何もできないまま、ベッドの上で寝て過ごす日々を過ごしたわけだ。
その有り余る時間をどう過ごすか。
その問題に直面したリオンが行ったことは、情報収集と体の鍛錬。そして前世で通っていた道場の師範から教わった瞑想である。
情報収集は文字通り、周囲の人々の人間関係や自分の置かれた状況、この世界の知識などの情報を会話から入手する。
鍛錬も文字通り。早く体を動かせるようになりたい一心から、赤ん坊の体をいろいろと無理のない程度に動かし、体を鍛えたのだ。
そして、瞑想。子どもの頃のリオンは、間違いなくこれを行う時間が一番多かった。赤ん坊のころは、それこそ一日のほとんどをこれに費やしたと言ってもいい。
それ以外やることが無かったというのが一番の理由だ。だがそうでもしないと乗り切れないほどの過酷で壮絶な出来事があった、というのも理由としては大きい。
先ほども説明したように、赤ん坊のリオンの中に十八歳の翔太の心がある。この状態は言うなれば「小さくなっても頭脳は同じ。体は赤子、頭脳は大人」の状態なのである。
そしてそんな環境はリオンの心を容赦なく責め立てた。
自分の糞尿をおむつに垂れ流すしかない不快感。
それを二十代にしか見えない当時のリリシア先生に、それこそ前世の翔太少年の好みに「ドストライク!」な美女に処理され、自分の股間やお尻を晒す恥辱。
その女性の豊満な胸に抱きかかえられ、あまつさえ一緒に入浴までさせられる羞恥。
年上の子ども達に容赦なく弄繰り回される屈辱。等々。
それらの全てを耐え切るには、精神を統一し、心を穏やかにするしかなかったのだ。
ゆえに、リオンはそれを実行した。
大きく深呼吸。
自然と一体化するように心を落ち着ける。
大気中の良い成分を自分の中に取り込み、悪い部分を体外に吐き出すイメージ。取り込んだ成分を自分の体の中に循環させる。体中の血管を通って体の隅々まで。手足の先、毛細血管の先まで良質な気が行き渡るように。
こんな瞑想を有り余る時間の中で、ただひたすらに繰り返したのである。
ここまで説明すればわかる人もいるかもしれないが、この瞑想の方法が実はこの世界の魔力制御の訓練、マナへの干渉の方法、身体強化のためのアウラの循環とほぼ一致していた。
つまりリオンは本来、この国の子どもが五歳になってから習い始める魔法の訓練を、〇歳児の頃から延々と、無自覚に繰り返していたのだ。
しかも本来、ある程度の長い歳月と教育によって、ようやく会得するような魔力制御やマナへの干渉のイメージを転生前から身に着けていたわけだ。
ある意味これもチートなのかもしれない。
そんなわけで、やることのない無為な日々を無自覚な訓練に費やしたリオンは、五歳児にしては多い魔力量と干渉速度、身体強化魔法の精度を身に着けたのだった。
「まぁそれだけで勝てるような世界だったら苦労はしないんですけどね……」
「当然だ。魔力や身体能力だけで勝てるなら、この世に武術や剣術の極意は必要ないということになってしまうからな」
リオンのボヤキに、先生が肩を竦めて応える。
先生の言う通り、どんなに身体能力や魔力が高くてもそれだけでは勝てない。身体能力に勝るだけの素人が、武術の達人に勝てないように。
現に今のリオンでは、かつて冒険者だったという先生に完勝することは難しい。最近ようやく、十回に一回くらいは勝てるようにはなっているが、それも属性魔法を使わない剣での戦いだけだ。おそらく実戦なら一度だって先生に勝つことはできないだろう。
それに、昨日すれ違った初老の騎士にだって勝てないはずだ。
特に敵対することもなかったが、もし昨日彼に襲い掛かられていたら、リオンは即座にミリルを連れて逃げ出していただろう。おそらく身体能力だけなら勝てないまでも負けはしないはずなので、全力で逃げに徹すればどうにか逃げられるくらいの実力差ではあったわけだが。
おそらく世界には、リオン以上の魔力を持つ者もいるだろう。リオンは確かに強いが、最強ではないのだ。
「まぁそれでも今のお前は、そこら辺の冒険者よりは遥かに強いだろうさ。慢心せず、鍛錬に励めば、すぐに一流の冒険者になれるはずだ。いや、それこそ超一流の冒険者にだってなれる。私が保証しよう」
「ありがとうございます」
確信に満ちた笑みでリオンの肩を叩くリリシア先生に、小さく頭を下げて感謝の言葉を述べるリオン。その二人の姿は、『先生と生徒』というよりは『師匠と弟子』の方がしっくりくるかもしれない。
以前、リリシア先生に剣の稽古をつけてもらった際、冗談半分でリオンは『師匠』と呼んでみたことがある。
それに対してリリシア先生はどこかくすぐったそうな笑みを浮かべながら「悪い気はしないが、小さな子に真似されても困るからな」と言っていた。
ちなみにリオンのように赤ん坊の頃から孤児院にいる子どもにとっては、リリシア先生は言わば母親同然だ。
しかし物心ついてから孤児院に来る子どもには、本当の母親は別におり、リリシア先生を母と呼ぶには抵抗のある子もいるだろう。そんな子ども達を区別しないために、子ども達には『先生』の呼び方で統一させている。
それでもリリシア先生を慕う子ども達にとっては、先生が母のような存在であることに変わりはない。別に「ママ」とか「お母さん」とか呼んでも怒られたりはしないだろう。
リオンも先生を母親のように思っているのは間違いない。しかし恥ずかしいので、今更呼び方を変えるつもりはなかった。
リリシア先生の周りには小さな子ども達が集まっており、実に賑やかで温かい空気が漂っている。
リリシア先生自身には血の繋がった子どもはいない。それどころか旦那も両親さえいないらしい。
しかしリリシア先生の生活は間違いなく孤独などという言葉とは無縁だろう。
こんな大勢の愛する子ども達に囲まれているのだから。
「お前がそんな風に笑うなんて珍しいな?」
そんなリリシア先生が、少し驚いた様子でこちらを見ている。
そんな風、と言われてもよくわからない。
ただ、子ども達に囲まれて幸せそうに笑うリリシア先生を見ていたら、自然とそうなってしまっただけ。
ただそれだけだ。
「いえ、こんな風景もとりあえず今日で見納めだなぁと思って」
そう、明日はリオンがこの孤児院を旅立つ日だ。
今日でリオンは十二歳。
今夜、リオンの誕生パーティーが開かれる。ティアやジェイグ達ももちろん呼んである。それは小さな、だけどきっと賑やかで楽しい誕生パーティーになるだろう。
そしてそれを最後に、リオンはこの孤児院を出て冒険者になる。
それはずっと以前から決めていたことであって、今更未練などない。すぐにエメネアを旅立つわけではないが、それでももう孤児院で暮らすつもりはなかった。自分の力で生活をし、自分の力で夢を叶えるのだ。
「何だ? 寂しくなったのか?」
「いえ、今はまだ。ただ旅立ってからはどうなるかわからないので、今のうちにこの風景を目に焼き付けておこうかと思って」
リリシア先生のからかうような視線をやり過ごして、リオンは孤児院の方へと目を向ける。
見慣れた風景。
十年以上過ごした家。
騒がしくも可愛い弟や妹たち。
そしてリオンを、惜しみない愛情を持って育ててくれた母であり、恩師。
そんな温かな風景を心に焼き付ける。
この空は広い。
どこまでも広い空に比べれば、自分という人間なんてとてもちっぽけなものだろう。
そんな空に飛び出せば、自分の小ささに打ちひしがれることもあるかもしれない。
このあまりに広い空で、孤独に押しつぶされそうになることもあるかもしれない。
だから、そんな時はこの風景を思い出そうと思った。
空のように広い心を持ち、太陽のような温かさをくれた人のことを。
「ふふ、お前の口からそんな感傷的な言葉が出てくるとはな」
「似合いませんか?」
「かもな。まぁたまにはいいんじゃないか?」
そう言ってリリシア先生は、とても幸せそうな顔で笑うのだった。