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第8話

 ところが。


 翻訳を初めて2,3日・・・早くも挫折しそうになった。


 今回翻訳する本は、それほど難しいワードは出てこない。けれど、そのワードを巡る時代背景が複雑すぎるのだ。


 たとえば魔女狩り一つとっても、その宗教的背景、大衆的背景、そう言った事のちゃんとした知識がないとちゃんとした翻訳として成立しない。他のワードに関してもそうだ。


このペースだと、翻訳が終わる頃には、楽しみにしていたフェルメール展も、行けるかどうか怪しい。


 翻訳が遅々として進まず、パソコンの前で項垂れていると、尋人さんの声がした。


「どうした? もうギブアップか?」


 気が付くと、出社してからずっと翻訳作業をしているのに、あんまり進んでいない。時間はもうお昼休みだ。


「専門外すぎます」


「童話好きだからイケると思ったんだけど、やっぱり無理か」


「ホラーもオカルトも専門外です」


「ふーん、石垣さんの手にかかると、魔女狩りなんて論外だもんな」


「そう思うなら私に回さないで下さいよ!」


 イライラも手伝ってそう言ったけど、彼は依然として笑った。


「他に人材がいない」


 ・・・そうだった。


 ここの出版社は、そんなに大きな出版社ではなく、社内で翻訳作業がちゃんとできるのは、今や私一人となってしまい、洋書の翻訳は、普通は外注するのだ。でも、私が入ってからは、外注に頼ることはほとんどなくなった。


「まあそう言うな、これやるから、機嫌直してくれや」


 彼はそう言って、私に何かのチケットを手渡した。


 それが何か・・・私は一目でわかった。


「あ!フェルメール展!!招待状じゃないですか!」


「午前中、外回りの時貰ったんだ。二枚あるから、麻里とでも行ってきたらどうだ?」


「そう・・・ですね・・・」


 とはいえ、翻訳の作業予定の事を考えると、ゆっくり展示会を楽しむ自信はない。招待状を見つめながらしばらく考え込んでいると、尋人さんが励ますように言った。


「石垣さんが真面目で仕事熱心なのは、みんな知ってることだよ。

 でも、気分転換することだった大切だよ。

一度気分転換して、それから翻訳再開するのも悪くないと思うよ。

 だから行って、楽しんでおいで」


 尋人さんの優しい言葉に背中を押されて、私は頷いた。


「そうですね。行きたかった展示会ですし・・・

 尋人さん、ありがとうございます」


 そう言ってお辞儀すると、尋人さんは軽く頭を小突いた。


「いたっ!」


「ここでは"井原さん"だろ?」


 いたずらっ子のような笑顔でそう言われた。


 プライベートの時は名前、仕事の時は名字、だなんて呼びにくいにもほどがある。


 でも、小突かれて少しだけドキリとしたのは・・・


(もしかして、オフィスラブしている人も、こんな事になっているのかなぁ・・・)


 社内恋愛で、普段名前で呼び合っているけれど、仕事中は名字で・・・呼び方に苦労しそうだ。


 もっとも、そんな素敵な恋愛したことのない私には縁のない事柄なのだけれど・・・


「どうした? でっかいため息ついて」


 尋人さんが私を見てそう聞いてきた。どうやら私はため息をついていたみたいだ。


「いーえ、なんでもないですよ。井原さん!」


今度こそ間違えないようにそう言うと、私はフェルメール展のチケットをバッグに無くさないようにしまった。



 その日の夕方。


 煮詰まりながらも翻訳をやっていると、突然携帯の着信音が鳴りだした。


 びっくりして、携帯を片手にオフィスを出た。


 普段だったら、仕事中の電話は無視するのだけれど、ディスプレーに表示された人の名前で、私は迷うことなく出ることを選んでいた。


"久保 聖夜"


(久保さん!)


 頼んでいた資料の事もあるし、すぐにでも電話に出たかった。廊下の端まで行くと、私はドキドキしながら通話を始めた。


"石垣さん、久保ですけど・・・仕事中にごめんなさい。

 今、大丈夫ですか?"


 遠慮がちな低い声が新鮮で、私は思わず頷きながら


「大丈夫です!今気分転換してたところですから!」


 小声ながらもそんな事を言ってしまった。すると、電話の音で少しだけ、笑っている声がした。きっと、私の所業などバレバレなのだろう。


"この前、頼まれた資料がそろったんでお渡ししたいんですけど・・・土曜日、空いてますか?"


 土曜日・・・私は慌てて土曜日の予定を思い出した。特に仕事は入っていないけれど、お昼前にヴァイオリンのレッスンが入っている。


「午後でしたら大丈夫です!」


"この間と同じくらいの時間ですか?"


 この間・・・とは、レッスンの帰り、偶然見つけたカフェで偶然会った、あの日の事だろう。


「そうですね・・・それ位になると思います」


"判りました。それじゃ、13時に、例のカフェで"


「はい! わざわざありがとうございます」


"どういたしまして、それじゃ"


「失礼します」



 そう言うと、久保さんの携帯が切れた。・・・久保さんが切った後も、私は携帯を耳にあてたまま、しばらく動けなかった。


 また、久保さんに会える・・そう思うと、どこか心の中がざわついたのは・・・ついさっきまで、久保さんの作品を読んでいたからだ!・・・と自分に言い聞かせた。


 いずれにしても、久保さんの資料で、翻訳が進むようになるといいな、と思ったのは紛れもなく本音だった。



 

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