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第6話

 レッスンの帰り。


 いつも歩く大通りから外れて、ちょっと裏通りを歩いてみた。


 子供の頃は、同じ教室に通っていた近所のお姉ちゃんに手を引かれて帰っていたけれど、今は、あのお姉ちゃんは既に結婚して、随分前にヴァイオリン教室を辞めて、違う所に住んでいる。


 あの頃は、"危ないから"と言われて、絶対歩く事のなかった裏通り。今では様々な店が並び、危なさもずいぶん少なくなった。


 今日は、好奇心も手伝って、その裏通りを歩いてみた。この裏通りを抜けるのが駅への近道なのだ。


 本当に、気まぐれだった。後になって考えると、どうしてそんな気まぐれを起こしたのか、自分でもわからない。


 曲がりくねった道の所々に、裏通り独特な雑貨屋さんや甘味処があって、歩いているだけで飽きなかった。


 そんな中・・・


「あ・・・れ?」


 カフェのような店が、あった。


「こんなところにカフェがあったんだ・・・」


 小ぢんまりとしたカフェだった。店の様子からして、夜になったらバーになるかもしれない・・・そんな雰囲気だった。


 大きな看板もなく、間口もそんなに広くない。でも、古臭さは全く感じない。知ってる人しか入って行かないだろう。


 私は、まるで吸い寄せられるように、そのドアを開けた。どうして? とか、なんで? とか、そんな理由、何所にも見つからなかった。通り過ぎようと思えば通り過ぎる事だって出来たのに。


(カラーン、カラーン・・・)


 ドアベル独特の、優しい音が耳に入り、カウンターの向こうにいる年若い店員さんが、"いらっしゃいませ"と笑顔で言った。つられて私も笑った。


(あ、この空気、好きかも・・・)


 白っぽいタイル張りの壁には、一つ一つ、品の良い花の絵が描かれていて、テーブルやカウンターも白木をイメージした調度だった。


 空いている窓際の席に腰掛けようとすると・・・


「あ・・・」


 その時、聞き覚えのある声が、微かに聞こえた。反射的に振り返ると、カフェの奥の席には、昨日会った久保さんが座っていた。


 テーブルにはコーヒーとノートパソコンと、資料のようなレポート用紙が置いてあり、執筆しているのは一目瞭然だった。


そう、彼はミステリー作家。数年前、ミステリー小説の登竜門、と言われているコンテストで大賞を獲り、小説家デビューした。時折、彼の作品は二時間ドラマにもなり、その斬新なアイディアやトリックと、20代とは思えない知識の深さ、広さを武器に、多くの作品を出版している・・・


私はミステリーは全く読まないので、彼の作風はよく知らないし、名前くらいしか知らない作家先生なのだけれど、尋人さんに昨日紹介されて、慌てて帰ってからネットで調べたのだ。


若くして彗星のようにデビューして、駆け上がるように一流になった人・・・私のように、童話やおとぎ話で夢を見ているようなガキっぽい頭とは違う、きっと明晰な頭の中身を持った人・・・


彼の創り出すトリックや心理戦、光と影、それにまつわるストーリーの奥深さのファンは多い。けれども当の彼は、あまりマスコミに顔を出すことがなく、作品は知っているけど顔は知らない・・・という人も多いらしい。


そんな人が今、私をじっと見ていた。私は慌てて会釈した。失礼があってはいけない。そして、彼の席の方へ行って挨拶しようか、それとも今の会釈を挨拶がわりにして、他の席に座ろうか、一瞬ためらった。


 不意に、数年前、あのブックカフェで出会った時の事が鮮明に蘇った。でも、あれは私だけの思い出で、彼は覚えている様子はなかった。そんな彼からしたら、私は、昨日初めて会った尋人さんの会社の後輩で、面倒事を持ってきた人、なのだろう。


 その彼は今執筆中。むやみに仕事の邪魔をしたくない・・・


 そう思って、彼から離れた席に座ろうとすると、彼はおもむろにノートパソコンの電源を切り、資料をファイルに片付け始めた。流れるような自然な動作に、一瞬何をしているのかわからなかった。


 でも、次の瞬間、私に席を勧めるように、手招きした。


「こっち」


 言葉短くそう言われ、じっと私をみつめた。


 あの不思議な色の目で見つめられただけで、心音が軋んだような音を上げた。


 そして私は、その眼に、吸い寄せられるように彼のテーブルへと向かっていた。 


「こ、こんにちは」


「・・・・・こんにちは」


私の声は、どもって上ずっていたのかもしれない、少しの間を置いてから、低い、静かな声で、挨拶を返してくれた。


「よかったら、ここ、座りませんか?」


低い、心地よい声だった。不意に私は、いつも一緒に仕事している尋人さんや、昨日久しぶりに会った中田さんの声を思い出した。


2人とも、明るくてテンションの高い声だった。でも、久保さんは彼らとは対照的で、物静かで、落ち着いた目で私を見ていた。


吸い寄せられる様に、私は“失礼します”と言ってから、彼の向かいの席に座った。


(本当にこの人、私より年下なの?)


年齢を意識しているわけではないけれど、年齢不相応に落ち着いた雰囲気のせいか、少し緊張した。


「昨日は」


何を話して良いかわからずに、とりあえず昨日のことを話した。


「昨日はお忙しい時にお時間を取らせてしまって、申し訳ありません」


さっき執筆中だったところを見ると、今、久保さんには余計なことをする時間など少ないに違いない。その貴重な時間を割いて私の資料探しにも巻き込んでしまっている・・・申し訳ない。


でも久保さんは平然として、少し笑っている。


「いや、いいよ。〆切明けて、今は時間がある方なんだ。いい気分転換になる。今も単なる資料整理してただけだ。


どっちみち君からの依頼は、好きな分野の資料だから、すぐ揃える。揃ったら連絡します」


「あ、ありがとうございます」


話すことさえ見つからない私。その間が出来てしまうのがひどく怖くて、必死で話す言葉を探した。けれど、そんなのすぐに出てくるわけもない。


そういえば、いつも近くにいる尋人さんにしても、中田さんも、話が途切れることが少ない。2人とも一方的に話し、私がそれを聞く、という形が多いからだ。


会話が途切れた時、店員さんがメニューを聞きに来てくれた。慌てて私はカフェオレを注文した。


「俺は・・・ブレンドとチーズケーキ」


そういうと、彼は私の方を見て苦笑いした。


「甘いもの苦手なんだけど、ここのチーズケーキは甘くないから食べられるんだ」


甘いものが苦手な人が自ら注文したくなるチーズケーキ? それだけで興味が湧いた。


「じゃ、私もそれください」


少し驚いた顔をしている久保さんに、私も少し、笑顔を返した。


「甘いもの、好き?」


そう聞かれ、私は笑顔で頷いた。


甘いものは大好きだ。料理好きだった母が、父が海外赴任から一時帰国したり、誰かの誕生日だったり、兄や私が受験に合格したり・・・小さい事だと、初めて自転車に乗れた日や、初めて泳げるようになった日・・・とにかくなにか嬉しい事や、楽しい事、家族が揃う事、良い事があると、美味しい手作りケーキを作ってくれた。


母がケーキを作っている・・・たったそれだけで、家族に、何かいい事がある・・・そんなワクワクした気持ちと、素朴だけど美味しかった母

ケーキを食べたい気持ちで一杯になった。


歳を重ねるごと、それは、甘いものを食べたときの幸せな気持ちへと変わって行き、大好きな、美味しい甘いものを食べると、それだけで幸せな気持ちでいっぱいになる。


「そうか・・・それでか・・・」


「え?」


納得したようにそう呟いた彼の顔を見ると、彼は少し面白そうに笑った。


「中田さんに、京都取材の前、“京都みやげで、女の子向けの甘いもの、何か知らないか?って泣き付かれたんだ」


中田・・・さんが?


びっくりして返す言葉を失っている私を面白がるように、彼は話を続けた。


「八つ橋とか、定番スイーツじゃダメなのかって聞いたら、“そんなありふれた奴じゃなくて、もうちょっとハイセンスで女の子の心ギュッと掴むような奴で、賞味期限が長い奴がいい”なんて言ってたんだ。


次、いつ会えるかわからないから、賞味期限が短い生菓子じゃ困る・・・いったい誰に渡すのかと思ったけど、石垣さんだったんですね」


中田さん、そんなこと言ってたの?不意に心があったかくなった次の瞬間。


「どこの女に渡すのかと思ったけど、昨日渡してるところ見て、こんなガキに渡すのか? こんなガキにあんな高級品あげて意味あんのか? 中田さん、いつからロリコン趣味に走ったんだ? って驚いた」


少し、毒の効いたからかい口調でそういった。こんなに綺麗で整った顔の人にからかわれると、冗談に聞こえないから怖い。


でも、否定できないのも確かだ。私の子供っぽい容貌と、昨日や今日の私の私服姿と平均以下の身長、小柄な体格だと、どう見ても20代前半、下手をすると女子高生や女子大生で通ってしまう。


“ガキっぽい”


そうかわれるのも慣れてしまって、最近は怒って言い返す気も起きない。むしろ、私の容姿に対するからかいがその程度か、と少しがっかりしてしまう。


その代わり。


「そうか・・・中田さん、そんなに私のこと考えて、あのお土産くれたんですね」


話を、からかっている久保さんではなく、今ここにいにない中田さんへとすり替えた。


からかわれたことに腹をたてるよりも、中田さんの気持ちの方が、とても嬉しい。彼がどんなことを考えて、どんな顔をしてあの金平糖を選んでくれたんだろう・・・そう考えると自然に笑みが溢れ、幸せな気持ちに満たされる。


それを素直に言葉にしただけだった。


けれど、私の言葉とは裏腹に、久保さんはどこか不満そうだ。


無理もない。彼のからかいの言葉に、私が全く乗らなかったから、だろう。


この手の類のからかいは、相手にしないでスルーしてしまえば、それ以上ひどく言われることはない・・・長年言われ続けると対処法も身に付いてくるものだ。


「中田さん、いい人・・・ですね・・・」


あの金平糖の味や、あれを食べていた時の師匠の笑顔を思い出すと、幸せな気持ちになる。そんな気持ちにさせてくれるものを中田さんがくれたのだ。


「中田さんも、私と初めて会った時は今の久保さんと同じで、学生のバイトだと思ったそうです。でも、今はちゃんと年相応に扱ってくれて、こんな風に傘のお礼までくださって、本当にいい人です」


嘘を言ったつもりはない


「ふーん・・・」


不機嫌目一杯な顔の久保さんは、どこか白い目をして私を見ている。


「何か?」


不機嫌な理由なんか明白だけど、あえて聞いてみた。


「・・・いや別に・・・」


そう言って、引き下がった。からかわれても、全く相手にしないと、大体こんなもんだ。


“あんたの言う事なんか歯牙にもかけていませんよ”。態度でそう示せば、それ以上ひどく言われる事はない。


それに、一緒に中田さんの話も出てきたから、話をそっちにすり替えてしまえば、こちらがダメージを受ける事はない。


「久保さんは、京都、お詳しいんですか?」


いつまでも中田さんの事でうっとりするわけにもいかないので、話を久保さんに移した。


すると久保さんは、少しだけ不機嫌な表情のまま、私から目を逸らしながら、ぽつりと言った。


「実家が・・・京都なんだ」


「それでお詳しいんですね」


「だから、中田さんは取材で関西に行く、とか言うと、お土産のお勧めとか、飯食う所のお勧め、聞いて来るんだ」


京都なんか、中学の修学旅行でしか行ったことがない。集団行動の一環なので、見た、というより通りすぎた感が強い。


「こっちだと、中学の修学旅行で行くんですけど、団体行動で、時間に縛られて動くので、ほとんど覚えてないです」


「清水とかは、いつも修学旅行集団がいるからなぁ・・で、清水土産は地主神社の恋のお守り・・・女子の定番だな」


そう言いながら、少しだけ、笑ってくれた。真正面から笑ってくれた顔をはとても深くて、印象深いものだった。そして、


(ドキン・・・)


心の奥が、また、軋んだ気がした。


(まただ・・・)


久保さんを見ていると、いつも、心が軋むように音を立てる。この音さえ、彼に聞こえてしまいそうだ。


「京都に・・・」


「っえっ!」


久保さんの声があまり静かで、聞き逃しそうだった。


「もし京都に行くことがあったら、地元民しか知らないようなお勧め、教えてあげますよ」


京都に・・・行く事があるのかなぁ・・・引きこもり気味なので、旅行など、行った事もない。三日間休みが取れたら、図書館や図書カフェ巡りと、博物館や美術展巡りをしている私。もし京都に行くとしたら・・・


「そうですね・・・京都で面白そうな美術品展やお寺や神社の秘宝展があったら、行ってみようかな?」


独り言のように、行った。この一言で、この話は終わりになるはずだった。正直、旅行など興味はない。


けれど、意外に、久保さんは私のその独り言に食いついて来た。


「寺社巡りも面白いですよ。

 歴史が好きだと、嵌ります。


石垣さんは・・・美術展、好きなんですか?」


そう聞いてきた久保さんの、落ち着いた深い色の目が、少しだけ、波打ったように見えた。


「ええ。都内で面白そうな展示があると、だいたい行きますね。

来週から始まるフェルメール展は、期間も長いし、行けそうなんです」


フェルメールは、大学時代に好きになった画家だ。絵に出てくる女性の美しさは勿論の事、それだけでなく、その絵に込められた光と影。表を見ただけでは分からない裏の意味も知るようになると、絵本や絵画の見方まで変わってくる。


 フェルメールの生涯作品は決して多い方ではないけれど、少ないながらに、一枚に込められた意味が深いものが多くて、それが最大の魅力かもしれない。


「フェルメール、好きなんですか?」


「・・・? ・・ええ・・・」


「偶然ですね。俺も好きなんです」


「えっ!」


久保さんは、静かに、嬉しそうに笑った。


「久保さんも、ですか?」


「ええ。二年前のフェルメール展の時も行ったんです。あの時は前評判凄くて、ゆっくり見るどころじゃなかったから、今年はゆっくり見たいから、休日じゃなくて平日に行くつもりなんです」


ポーカーフェイスな人が嬉しそうに笑うと、こんなにも深く、印象的になるの?・・・私はその表情に釘付けになった。


でも、好きな画家が同じ、そんな共通点を見つけられて、私も嬉しくなった、


「それ、私も行きましたよ。でも、並んでいる時に、人が多くて貧血起こしてしまって、ゆっくり見るどころじゃなかったんです。


悔しい思いしたので、今年は絶対外したくないんです。


日程見たら、今回の翻訳が予定より早めに終われば、ぎりぎりだけど行けそうだから、頑張りたいんです!」


つい、握りこぶしを握って力説していた。


「随分気合い入ってるな」


相変わらず久保さんさんの落ち着きと比べて、私の落ち着きのなさは、文字通り自分でもガキみたいだと思った。


でも・・・


「・・・夢を見るのは

現実世界を精一杯頑張ってからって決めてるんです」


これは、私の中の絶対なルールだ。


子供の頃、部屋にこもって童話や物語ばかり見て妄想していた私に、父が言った言葉だった。


“夢を見たいなら、現実世界を全力で生きなさい。

疲れきるまで、現実世界を精一杯、一生懸命生きなさい。


そうやって頑張った人だけが、素敵な夢を見る事ができるんだよ”


父にしてみれば、子供が引きこもって童話ばかり読んで、外で遊びもしない・・・という状況に心配したのだろう。


当時はその言葉の意味がわからなかったけれど、大人になるに従って、解るようになった。


夢ばかり見ていたら、夢の方が、味気なくなってしまう。


しっかりとした現実世界を生きないと、夢の価値さえ、どんどん落ちてゆく。


そう思うようになって、現実世界の仕事も、嫌々ながらも精一杯頑張るようになったのだ。元々人見知りだったけれど、それさえも、克服とまではいかないけれど、現実世界をちゃんと生きるのに必要だと思ったからこそ、困らない程度に我慢して生きている。


全ては、大好きな夢の世界を楽しむために・・・


でも、私のこの生態は、他の人に共感を得られる物ではない。きっと私と同年代のOLさんは、休日に遊んだり、合コンしたり彼とデートしたり・・・そういった事の方が重要で、私みたいに夢見る事を目的に現実を生きる女は稀だろう・・・それでも私は、本の中の想像の世界に没頭するために、日々の仕事を頑張っていた。


話しながら、目の前の彼は、きっと子供扱いして私の思いを完全否定するだろう・・・とおもった。


ところが。


「俺とは少し違うな」


久保さんは、完全否定せず、私を見ながら、それでも少しだけ、笑っていた。


「俺は、君が言う所の、夢の世界を描きたくて、小説家になったようなものだ。現実世界が嫌いな訳じゃないけど、な。


現実世界にだって、夢の世界にはない、綺麗なものや、心惹かれるものはある。それを、夢の世界に描いてる様なもんだな。


ストーリーの中だと、現実世界で見た心に残ったシーンをベースに、キャラクターが、自分の考え通りに動いてストーリーを作ってゆく・・・現実だけど、現実じゃない世界が出来てゆく・・それが面白くて、この仕事をやっているようなもんだ。


現実世界に戻るのは、執筆が終わってからだな」


軽い苦笑いをして、そう言っていた。


「じゃ、久保さんの現実世界は、執筆後の校正とか?」


「それもあるし、宣伝とか本屋巡りも現実だな。

書いているのは俺だけど、書店員さんあっての本だからな。書店員さんが本屋に置いてくれなかったらそこまでだ。


俺も人付き合いはあまり好きじゃないけど、また、次の作品を・・・次の作品で夢を書くためには、そう言った人付き合いも人脈の事も大切に・・・」


話をしながら、私と久保さんは顔を見合わせた。


多分・・・・同じ事を考えたのだろう。


「なんか・・・少し似てるな、俺たち」


現実世界と、夢の世界を、行ったり来たりして生きていて。


それぞれ、綺麗な世界を見る場所は違うけれど、


夢の世界が自分にとって大切で、両方の世界を行ったり来たりして生きている。


現実世界も決して嫌いではないけれど、夢の世界も大切。両方ないと生きていけない・・・


今、一瞬だけ。


久保さんのと私の心が、繋がったような気がした。


それは、仲が良くなった、とか、距離が縮まった、とかそういうのとは違って。


 他の人とは絶対共有できない共通点を、久保さんの中に見つけた、という事・・・


 他の誰とも共有できない事・・・今まで共感を得られなかった事。


 それを共感し、共有している人が、今、目の前にいる・・



 多分、今。


 目の前にいる久保さんも、同じことを考えている・・・


 もしも、私の夢の世界と、彼の世界がつながっていたら、必ず、夢の世界でも出会える・・・


 顔を見合わせていたのは、もしかしたら一瞬だったのかもしれない。


 でも、明らかに、私と彼の心の中の何かが、同じ音で共鳴していた。


 その共鳴が心地よくて、身動きも、音を立てることも出来なかった。




 他の人には・・・尋人さんや中田さんにさえ、そんな風に思ったことはないし、麻里も、私の妄想癖を理解はしていても共感してくれることはない。それが当たり前だった。他人には共感できない世界・・・それが私の夢の世界だった。


 でも、この人は・・・多分、共感している・・・?


 他の人にはない、心の何かを持っている人だった・・・


 一瞬、ずっとこのまま、時が止まってしまえばいい・・・とさえ思った。



 けれど、そんなに都合のよい事が起きるわけもなく。


「お待たせいたしました」


 私達を現実世界に戻したのは、さっき注文したチーズケーキと飲み物だった。


 はっと我に返った私と久保さんは、それぞれのチーズケーキを目の前にして、苦笑いした。

 

 まるで、今の長い一瞬をごまかすように。


 はっと我に返った久保さんは、少し慌てたように、"食べようか?"と言って、チーズケーキにフォークを刺した・・・


チーズケーキはベイクドで、土台もしっかりと作ってあり、表面には粉砂糖が雪のように飾ってあった。そしてその隣には、お花のようにしぼりだしてある生クリーム・・・


どことなく、母が昔作ってくれたチーズケーキを彷彿させた。違うのは、粉砂糖の飾りと生クリームを添える事くらいだ。母のはシンプルに、飾りもなく、生クリームもなかった。


 久保さんが口にそれを運ぶのを見て、私もそれに倣い、チーズケーキを一口、食べた。

 

 チーズケーキは、私が知っているどんなチーズケーキよりも、チーズの味が濃厚で、甘さが控えめだった。チーズケーキ独特の重たさもなく、成程、甘いものが苦手な人でも食べられる甘さだった。


 ケーキの横に添えてある生クリームにつけると、クリームの甘さやジャムの酸味がチーズケーキにプラスされて、また違う味になり、飽きの来ない味だった。


「うん、おいしい!」


 嬉しくなってそう言った。美味しかったし、何より懐かしい味がした。母が作ってくれたあのチーズケーキの味をも思い出した。そして、味と一緒に、あの、家族と過ごした幸せだった思い出も・・・


父も母も兄もいて、ケーキを囲んで笑顔だった、もう2度と戻らない、あの時代を・・・


幸せな気持ちと、戻らない思い出がせめぎ合う中で、彼も嬉しそうに笑っていた。


「そうしてると、ガキみたいですね」


 呆れている様子ではなく、本気でそう思ったのだろう。さっきガキっぽいと言われた時みたいな、からかい口調ではない。私ももはや、反論も無視もせず、笑って彼の顔を見た。


そう言われるのも無理はない。私も今、子供の頃の事を思い出していたのだ。きっといつも以上にガキっぽい顔をしているに違いない。


「ところでさ・・・」


 久保さんは、ケーキを食べる手を止めると、その視線をケーキから私の荷物・・・・ヴァイオリンケースへと移した。


「それ、楽器?」


 聞かれて、私もケーキを食べる手を止めて、頷いた。


「はい。良く判りましたね」


「見ればわかる」


「確かにそうですよね」


 黒く長方形の細長い、縦に肩にかけるタイプの楽器ケース・・・これを見て、一目で楽器ケースだと判ったという事は、彼自身も、もしかしたら楽器か何かをやっているのかもしれない。


「ヴァイオリンなんです」


「習ってるの?」


「はい。翻訳中はお休みしてるので、またしばらく弾けないんですけどね。

 来年すぐに発表会があるので、これからヴァイオリンも忙しくなりそうなんです」


 毎年2月、ヴァイオリン教室では発表会があって、そろそろ選曲をしたいと思っていた。


 ヴァイオリン初心者に対しては、先生が曲を決めてくれるけれど、さすがに20年以上ヴァイオリンに携わっている私や上級者に対しては、"自己責任で選曲してください"と言われる。よく考えれば、好きな曲、得意な曲が演奏できる、という事なのだけど、舞台に立つ、という事もあって、実力以下の簡単な曲を弾く事を師匠は許してくれない。毎年悩みどころだ。


「俺・・・好きなんだ」


「へ?」


「ヴァイオリンの音。なんか、他の楽器と比べて、心に残る。

 執筆に詰まると、よくCD聴いてる」


「あ、ああ、ヴァイオリンが、ですね」


 一瞬、私の事を好きだと言われた錯覚に陥って、ドキッとした。


(そうだよね、私が、のわけ、ないよね)


 私が勝手に気になっているだけで、久保さんにとって、私は初対面の年上の童顔女。好きだなんて言われる理由、ないのに・・・


その時、ちょっとした名案が浮かんだ。


「あ、もしも興味があるなら・・・」


 私はバッグの中から、さっき師匠からもらったファイルを取り出した。その中の茶封筒を取り出すと、中からチケットとチラシを出した。


 それは、来月行われる師匠のコンサートチケットだった。


「これ、もし興味があったらいらしてください。ヴァイオリンがお好きなら、きっと楽しいと思います」


 差し出すと、とたんに久保さんの目の色が変わった。


「これ・・・瀬沼香織のコンサート?! じゃ、石垣さんの師匠って、瀬沼香織さんなの?」


 そう聞かれて、私は頷いた。


「この日、私は裏方なので、会場では聞けないんですけど、もしよかったら、ぜひ聴きに来てください」


「でも、いいんですか? 瀬沼香織のコンサートチケットって、大体いつも完売しててなかなか取れないんですよ?」


 そう・・・師匠のコンサートはいつもすごい人気だ。でも私は首を横に振った。


「いいんです。余計な調べものを頼んでしまったので・・・お礼です」


 久保さんには、翻訳資料の調べものを頼んでしまっているのだ。しかも、私の苦手なホラーやオカルト系の調べものだ。これくらいのお礼をしないと、気が済まない。


「ありがとう。じゃ、有難くいただきます」


 久保さんは嬉しそうに笑って、それを大切そうにカバンにしまった。


(彼の世界・・・)


他愛もない世間話をしながら、私は彼の心の中にあるであろう、夢の世界に想いを馳せた。


きっと私のそれよりもずっと現実的で、しっかりとした色味を持った世界なのだろう。


 どんな世界なんだろう・・・見ていたいような気がした。


 他人の夢の世界を見てみたいなんて、どうかしている。


 でも、現実世界と夢の世界を行き来して生きている私にとって、似たような生き方をしている彼の夢の世界は、大いに興味がある世界だった。



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