エピローグ
そんな周囲をよそに、私は相変わらず、平日は現実の世界で翻訳をして、土日は、夢の世界・・・本と物語の世界で過ごしていた。
変わった事と言えば・・・
夢見る場所が、自宅やブックカフェではなく、久保さんの部屋になった事だろう。
彼は今、イギリスで取材した事をまとめたり、小説資料として使う写真や資料の整理をしている。膨大な量だ。
私は、彼が“書庫兼物置”と呼んでいる、本だらけの、少し埃っぽい部屋の片隅で、彼の蔵書を読んでいた。壁いっぱいの本棚に本が詰まっていて、さらに本棚に入りきらない本が床に山積みになっている部屋だ。そこに、お気に入りのクッションと肌触りの良いひざ掛けを持ち込み、床に座り込んで、彼の蔵書を読んでいた。
蔵書はミステリーや推理小説が多かった。けれど、そればかりではない。彼が小説を書く上で参考にした資料や彼の趣味で揃えた、私でも読める海外書籍や、国の内外の歴史書もあって、それらとの出会いは、私に新しい世界を見せてくれた。
いつか彼が話してくれた、“童話作家や画家が生きていた時代の、その国の時代背景を調べてみると面白いよ”という言葉・・・
今までの私は、童話作家や物語の原作者が描いた作品で夢の世界を見ていたけれど、その作家の事を知るにつれて、新しい夢の世界が拓けてきた。
その新しい世界は、私の中では、まだ出来だてであやふやだった。私の夢の世界の様に、綺麗なお伽話ばかりではない。ドロドロとした現実世界の影も沢山見える。ともすればすぐに壊れてしまいそうだ。
でも、それらは、私が長年描いてきた夢の世界に、新たな息吹を吹き込んでいた。
今までいた夢の世界が、長年住み着いた家だとしたら、新しい夢の世界は、今まで住んでいたところと比べたら環境も違うし、家も真新しくて、まだ住み慣れない。
でも、少しずつ、慣れていった。慣れて、知るに従って、私の以前からの夢の世界がさらに彩りに溢れ、広がってくるのが分かる。
ただ、童話やお伽話で夢を見ていた私・・・その物語達の裏で・・現実世界でどんな事があったのか・・・それらは私にとって、初めて知る世界だった。
現実世界であった事なんか、童話や物語と比べたら、真っ黒い影やどろどろした出来事、現実臭が強くて夢の世界とは程遠い。でも、それらの出来事すべてが、私の夢の世界に真実味と立体感を与え始めていた。
今日も朝から彼の部屋に入り浸り、新しい夢の世界に浸り続け、夢中になり、それが落ち着く頃、私は大きく息をついて、現実世界に戻った。
気がつくと、床に置いていたカフェオレが空になっていた。私はマグカップを片手に立ち上がり、台所へ行った。
「聖夜君、コーヒー、淹れるけど飲む?」
「ありがとう、貰う」
そして、仕事中の久保さん・・・聖夜くんに、ブラックコーヒーを淹れ、私用にカフェオレを淹れた。
「あ、沙織」
あの空港での出来事以来、久保さんは私の事を、“沙織”と、名前で呼んでいる。それは、職場で会った時もそうでない時も変わらない。職場でそう呼ばれると、職場で周囲の視線が、まるで珍しいものを見る様な目に変わる。私を見る視線ではなく、彼を見る周囲の視線が、だ。
今まで森野さんの隣にい続けていた彼が、私の事を苗字ではなく名前で呼んでいるのだ。彼は、あの森野さんにさえ、名前ではなく苗字で呼んでいた。そんな彼の変化に敏感な編集部の人達は、公私混同だ!と騒ぎ立てる人もいたけど、私の部署と彼が出入りしている部署が離れていて、一緒に仕事する事などないので、社内の殆どの人が、暖かい目で見守っていてくれるみたいだ。
それはそれでありがたいけれど、照れ臭いのは変わらない。
そして、彼からも、「俺の事、苗字じゃなくて名前で呼んで欲しい」と言われ、慣れないながらも、彼の事を“聖也君”と呼んでいる。
“聖夜君”と君付けで呼ぶことは、彼の思うところとは違うらしく、時々不満そうな顔をするけれど、渋々妥協してくれているみたいだ。
私だって、いきなり名前を呼び捨てになど出来ない。でも、“沙織ちゃん”と、私の下の名前を平気で呼ぶ中田さんや、時々“沙織”と我が物顔に呼ぶ尋人さんもいるのに、恋人の久保さん・・・ちがう、聖夜君が私の事を名前で呼ばない・・・という状況が、彼にとって我慢できないみたいだ。
“いつあの2人に取られるか判らない”
そう言って、私の事を名前で呼ぶ様になった。
“取られるなんてこと・・・ないよ? だって尋人さんは結婚してるんだし、中田さんは・・・”
そこまで言って、私は言い淀んだ。
中田さんとは、例の“賭け”で私が勝って以来、年が明けた後も、今まで通りの仕事上の関係が続いている。プロジェクトも順調に進んでいるし、仕事上の関係も良好だ。
プロジェクトが進むにつれ、打ち合わせも増え、会う機会も格段に増えた。
そんな、打ち合わせの合間、時々プライベートなことを話す時、一度だけあのパーティーの時の事を話してくれた事がある。
・・・あのパーティーの時、私が聖夜君にプレゼントを渡した後・・・
“あのクリスマスパーティーの時、久保に、すれちがいざまに『石垣さんは渡さない』って凄い剣幕で言われたんだ。俺はその時、あの“賭け”に勝ったつもりで有頂天になってたから、何言ってんだこいつ、って気分だったけど、その後、久保が森野と話してて、森野がヒステリー状態になって久保をなじってるの見て、俺が負けたんだって、思った。
久保は、自分の手で、沙織ちゃんのために森野との関係にケリをつけた・・・
俺、あいつが、森野との関係を自分から終わりにするなんてぜってー出来ないと思ってた。だから油断してたんだな。
でも、油断しながらも、心のどっかでやっぱりって思ったし、俺は、久保がケリをつけた事に関してだけは、よかったって思ってる。
ただ、そのきっかけになったのが沙織ちゃんだった・・・ってのが心残りだなぁ・・・”
あの時の、中田さんの苦い顔は、今でもはっきり覚えている・・・
“ま、一旦俺は手を引くけど、沙織ちゃんと久保の仲に隙が見えたら、遠慮なくぶっ壊しに行くつもりだから”
どこか楽しそうにそう言っていた。
私は、そんな話を聞きながら、ずっと気になっていた事を一つ、聞いてみた。
“森野さん・・・どうしてますか?”
言ってしまえば略奪愛してしまったのだ。気になってしまう。
“落ち着いてるよ。
森野だったら、周りの男がほっとかない。森野さえその気になれば、新しい男の1人や2人、すぐに確保するだろうな。
仕事も、別の出版社から短編の依頼があっただとかで、今その執筆している。
彼女の事は心配ないよ
それに、今回の久保と森野の騒ぎで、君を責める人は誰もいない筈だよ。もともと久保の優柔不断と森野の強引さから始まった事だ。君が責任を感じる事はない”
・・・・・
私はその話を聖夜君には話していない。でも、中田さんが聖夜君にもそんな事を話したのかもしれない。
いずれにしても、今、私と聖也君の仲は、ぎこちないけど良好だ。
「どうぞ」
「ありがと」
彼が仕事をしているテーブルの、仕事の邪魔にならないところに、そっとコーヒーを置くと、彼はノートパソコンから顔を上げて、私の顔を見た。
ぎこちないのは、2人きりになるのが、以前はカフェだったのが、こうして彼の部屋になったから・・・いくら、自覚なくお互い好きだったとはいえ、こんなにも近い距離は、未だに慣れない。
「そうだ、沙織。
“Dreamcatcher”読んでくれた?」
それは、去年、あのパーティーの少し前に出版された彼の新作だった。あのパーティーで着たドレスを麻里と買いに行った帰りに寄った本屋さんで、新作として平積みされていた。その時、書店巡りをしている彼もいて・・・いたたまれなくなって本屋を出たんだった。
結局私は、彼のその新作が、ラブストーリー、という事も手伝って読むのを戸惑っていた。あの頃の私は、彼と森野さんがお付き合いしている恋人同士だと思っていて・・・その彼が描いた初のラブストーリー、などと大々的に書いてあると、小説の中のヒロインは森野さんで、主人公は聖夜君・・・そんな事を考えてしまうと、怖くて読めなかった。
「まだ・・・読んでない」
読んでいない私の思いを察知したのか、彼はおかしそうに笑った。
「心配しなくていいよ。あのヒロインも君だから」
「え?」
戸惑って彼を見ると、嘘を言っている様な顔ではなかった。
「事実を小説にする程、俺は悪趣味じゃないんだ。
でも・・・君と会って、君が夢と現実世界を行ったり来たりして、現実世界を生きている・・・って話してくれただろう?
その話を聞いて、思いついた話だったんだ。
ラブストーリー・・・なんて書いてあるけど、まともな恋愛小説と比べたら恋愛感は少ないと思う。
ただ、担当さんに言わせると、俺にしては恋愛要素が多い・・・って程度だ。
単なるファンタジーに恋愛が混ざってると思ってくれれば、読みやすい方だと思う」
そう言うと、彼は立ち上がると、本棚に近づき、一冊の本を取り出した。
「良かったら、読んでみてくれないか?」
「ん・・・」
ヒロインが私・・・そう言われると、別の意味で読むのに躊躇う。
躊躇しながらもそれを受け取り、聖也君が仕事をしているテーブルの向かいに腰掛け、カフェオレを片手に、聖也君の作った夢の世界への扉を開けた。
…… ………………………
・・・“dreamcatcher”。ドリームキャッチャー………それは、夢狩人と呼ばれる一族の、とある男のコードネーム。
夢と現実の狭間に生きる一族。
夢狩人の使命は、人間の夢を喰らい、或いは誘惑する“夢魔”を倒し、あるいは捕縛し、あるいは封印する事。
“夢狩人”と“夢魔”との、終わりのない戦いは、人類が生まれ、夢というものを見る様になってから、何世紀も、人知れず続き、人々の宗教や歴史、思想の裏で、人間の心さえも操っていた。
人間同士の些細な争い事や諍いは勿論、『夢のお告げ』で始まる戦争も、『神のお告げ』で終わる長い長い闘争も、人ならぬ力で始まる事は、“夢魔”・・・下等悪魔の一族の仕業だった。
“夢魔”が人の夢に入り込み、人の欲望や願望にかこつけてそれを夢を使って煽り、現実へと持って行かせる・・・夢魔が一言、一国の大臣の夢の中で“あの国と戦争を引き起こせ。あの国の財産と聖都を奪え!”と囁けば、あっという間にその国は、戦争を始める・・・
人間の夢を操る力を持つ下等悪魔。その中でももっと下等悪魔になると、女性の夢の中で、その女性の夢に忍び込み、夢の中でその女性と性行為をして(夢魔の)子供を身篭らせる一族もいるが、階級の高い夢魔ともなると、夢で人を操り、人間の世界を混沌とした争いの絶えない世界にする事もできる。
そんな夢魔の暴走を止めるのが、“ドリームキャッチャー”をはじめとした夢狩人の使命だった。
ある時“ドリームキャッチャー”は、夢魔の黒幕とも言える夢魔の王を追い詰めた。
人間の黒歴史、争い事や戦争、すべて、人間を使って司る長。夢魔たちはこの王の命令で動いている・・・そんな夢魔の王。
夢魔の王の居城は、とある娘の夢の中にあった。年端もいかない娘だが、物語や童話が大好きで、いつも綺麗な物語を想像しては楽しんでいる娘だった。
お人形遊びなどより、本を読み、心の想像の中で、お人形を作り、それを心の中で動かして遊び、童話やおとぎ話の世界を心に描いて楽しんでいる娘だった。
堅固で、誰も近づけない、綺麗な夢や汚れのない想像力を持つ娘・・・その娘の夢の影に巧みに姿を隠し、夢狩人達の目を欺いていた。
夢魔の王を追い詰めた“ドリームキャッチャー”だったが、その王を倒せば、夢魔の王が巣食う娘の夢の世界は壊れる。それは娘の“心の死”を意味していた。
そして“ドリームキャッチャー”は、夢と現実の狭間で、その娘に出会ってしまった。
現実世界に身体がある人間が、夢と現実の狭間の世界に来る事はできない。
そして、夢狩人達も、夢と、夢と現実の狭間を行き来していて、夢を見ている人間そのものに出会う事はないはずだった。
出会うはずのない2人が、出会うわけのない場所で、出会ってしまった・・・
美しい夢と想像の世界を持つ娘に、“ドリームキャッチャー”は一目で恋に落ちた。・・・そして、夢狩人しての使命を果たすことができなくなる 。
夢魔の王を倒す事は、“ドリームキャッチャー”の最大の使命。今だったら倒す事はできる。でも、夢魔の王が住まう居城は、愛する娘の夢の中で、夢魔の王を倒せば、娘の心も身体も粉々になってしまう・・・
“ドリームキャッチャー”は悩み続ける・・・
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上巻はそんな話だった。
何も知らずに読んでいれば、聖夜君らしい話だけど、恋愛要素が絡むと・・・ましてやヒロインのモデルが私だ・・・なんて言われるとこそばゆいし、恥ずかしいものだ。
「・・・で・・・続きは?」
私は敢えて、小説の感想は言わなかった。
「今書いてる。もうすぐ終わるから、本になったら一番に渡す」
楽しみにしてて。彼は柔らかい笑みを浮かべた。
「俺は、実際に起こった事を小説にはしない主義だし、小説の中では、悲恋になるか、ハッピーエンドになるか、まだ言えないけど・・・」
少し言葉を選ぶように、彼は言葉を続けた。
「俺や君の現実世界は、悲恋になんかしない・・・約束する」
彼の指先が私の頰に触れて、愛おしそうに撫でた。それだけで、幸せに満たされる。
「あ、ねえ、聖夜君がお土産に買ってきてくれた絵本も読んだよ!」
照れ臭くて、私は思わず話を変えた。そして、彼の指先から逃げるように、部屋の隅に置いてあるバッグからその絵本を丁寧に取り出して、彼のところへ持って行った。
先日のイギリスへの取材旅行の時、彼がお土産に、と私にとても綺麗な絵本を買ってきてくれたのだ。
「ああ、あれか・・・
表紙の女の子の挿絵、君に似てるなと思って買ったんだ」
表紙には、可愛らしい女の子が、花束を持って笑っていた。
「・・私、こんな可愛くないよ・・・」
「十分、かわいいよ」
照れることもなくしれっとそう言う彼と、そんな彼の言葉に照れる私は、対照的だろう。
絵本をめくると、緑と花に囲まれた田園風景の挿絵が広がり、遠くには、古き良き時代のイギリス民家がある。民家の庭には花とフルーツ畑があり、女の子はエプロン一杯に、ベリーを摘み取って、近くにいる母親に笑顔を見せている・・・
その絵は、この絵本の中で、一番好きなシーンだった。
「このページの絵が、すごく好きなの!」
子供と母親の笑顔も素敵だし、日本にはない、ヨーロッパの田舎町独特の、緑に囲まれた挿絵は、私の心を釘付けにした。
私がそう言うと、彼はふっと笑い、私の頭を優しく撫でた。
「・・・いつか・・・一緒に見に行こうか?
きっと、君の夢の世界とは比べものにならない様な、綺麗な現実世界だよ。
現実の世界にだって、夢の世界以上に綺麗な風景はある。
一緒に、これから・・・そんな綺麗な風景を、たくさん、見に行こう」
その言葉は、まるで未来の約束をしてくれた様で、私はただうっとりと頷いた。
彼と、そんな世界を一緒に見ることができたら、どんなに素敵だろう。聖夜君が側にいてくれたら、闇の底だろうと、どんな夢にも勝る光景に違いない。
ううん・・・聖夜君自身が、私の現実世界の光。
そんな、未来への夢を想像していると、彼は少し困った顔を私に見せた。
「困ったな。
・・・そんな顔されたら、仕事なんかどうでもよくなった・・・」
そう言って、彼は私に、やさしいキスを落とした。触れるだけのキスは、やがてついばむようなキスに変わり、少しずつ、深いものへと変わっていった。彼はそっと、私を抱きしめた。
そして、片手で私を抱きしめながら、もう片手で、そっと、本を・・・私の夢の世界を閉じた。
「今は、俺の現実世界に・・・」
耳元で、低い声で囁いた。どきりとするような、蕩けるように甘いハスキーヴォイスに、抗うことなどできない。
本を開けば、いつでもまた夢と物語の世界を楽しめる。
本を閉じれば現実世界が待っている。
でも、聖夜君にこうして触れていると、ここは、私の夢でも現実でもない、幸せな世界になる。“そして王子様と幸せに暮らしました”で終わってしまう、どんなハッピーエンドな物語にも勝る、未来のある、聖也君の現実世界・・・
「聖夜君、大好き・・・」
耳元で、そっと囁くと、抱きしめる彼の腕に力が入る。甘くて温かい、夢みたいな現実世界。・・・夢でも現実でもない、蕩けるほどに甘い世界。
「俺も・・・」
その続きの言葉は、囁くように耳の中に流れ込んで蕩けた。
テーブルの上には、彼の小説とハードカバーの洋書の童話が、並んで置いてある・・・一瞬、それを視線の端で見ると、私はそっと、瞳を閉じた。
彼の腕の中は、きっと、夢と現実の狭間。
私と彼しかいない、狭間の楽園・・・




