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第66話

「・・・何年か前、君に初めて、ここで会っただろ?

新人賞とって、親父が亡くなった後で、小説家になるのを母親に反対されていてた。


正直、すべてから逃げたかった。


それなのに、出版社には次の作品を・・・って急かされて、親には早く就職を・・・ってせっつかれていた。


ここで、母親のいう通り、堅実に就職して普通に生きていくか、それとも母親の反対を押し切って、夢だった小説家になって、先が見えなくても、好きな小説を仕事にしていくか。


こう言ったら大袈裟だけど、人生の岐路って奴だった。


そんな事を抱え込んで身動き取れなくなっていた時・・・ここで、君に出会ったんだ。


あの時、俺は・・・君に一目惚れした。

本に目を落として、幸せそうな顔をしていた君にね」


彼は、今まで見た事もないほど、恥ずかしそうに、それでもまっすぐに私を見つめながら、そう言った。


「一目惚れなんて、ドラマや子供向けの恋愛小説の中でしか起こらないと思ってた。だから・・・あの時は、たった一度、あの距離で初めて会った女性の事、一目惚れする自分が、信じられなかった。


悩んで、煮詰まった俺が勝手に見て、勝手に思い込んだ幻想だと思ってた。


でも、現実、君に会った瞬間、悩んでいた事なんか、全部心の何処かにおきざりにしてた。君しか・・・・見えなくなっていた」


一目惚れ?


久保さんが、私に?


・・・あの時、私が久保さんの事を気になっていた様に、久保さんも私の事、気にかけてくれたの?


信じられない・・・嘘! 信じられない!!!


「その時は、一目惚れなんて、自分の中ですぐに否定した。そんな非現実的なことが起こってたまるかと思った。ただ、OLがガキみたいな顔して童話の洋書読んでるのが珍しいだけだ・・・無理にそう思う事にした。


でも・・・


あの日、帰り、君が傘を貸してくれて。“濡れたら本が可哀想だ”って言ってくれた。


その言葉で、さっきまで悩んでいた事を思い出したんだ。先の見えない小説家を取るか、就職して、安定した未来を取るか・・・


小説家としてやっていこう! 俺の背中を押してくれたのが・・・その一目惚れした女性の一言だった。


こんな女性に、濡れたら本が可哀想だ、そう思われる様な作品を書けるような小説家になりたい・・・その時、小説家になるって決心したんだ。


あの後、もう一度だけでいい、あの女性に会いたかった。会いたくて、何度もこのブックカフェに通ったけど、俺も間抜けで、当時会社員をしていた君と、大学生だった俺、生活パターンが全然違ったんだな。君が来る時間帯と、俺がここに来る時間帯は、まるで違っていた・・・でも当時は、そんな事に気付く余裕なんかなくて、君がいるかどうかもわからないこのブックカフェに、時間が空くと通いつめてた。もちろん、君がOLとして仕事してる時間帯だった。会えるわけ、ないよな? でも、そんなことさえ、気づかなかった。


ただ、会えなくても、あの傘さえ持っていれば、もう一度君に会えるチャンスがある・・・そう思ってた。」


彼の話を聞きながら、その話が信じられなかった。


それともこれは夢? 私の妄想が作り出した、私の勝手な物語なの?


「ここに通いながら、マスターとも親しくなったけど、君の事はどうしても聞けなかった。聞かない代わりに、ここのブックカフェの本を読む様になって、君が、どんな本が好きなのか、分かった。


外国のおとぎ話や童話が大好きな、夢みる子供みたいな人なんだろうな・・・って思ってた。でも、あの時の君は・・そんな童話とは無縁なキャリアウーマンで・・・どうしてもここにある本が大好きな童話好きな子と、俺が一目惚れしたキャリアウーマンが、結び付かなかった。」


私は少しだけ、笑った。あの頃の私を、懐かしく思い出した。


夢の世界、本の世界に没頭すること以外に好きな事がなくて、ただひたすら

休日に沢山の絵本や童話を読む為に、現実を必死で泳いでいたあの頃・・・


「大学卒業した頃には、俺は小説家として食っていける様になってた。


でも、ブックカフェの彼女を忘れた事なんかなかった。あの出会いがなかったら、小説家としての俺はいなかった。


もう一度、会いたかった。会って、傘を返して、俺の事を話して・・・お礼を言いたかった。


あの傘をずっと大切に持ち続けていることと、このブックカフェだけが、彼女にもう一度会う手がかりだった」


ろうそくの灯りの向こうの彼は、顔を真っ赤にしながら、当時の事を話してくれている。彼がかけているメガネに、ろうそくの明かりが映り、不思議な光う景だ。


私は、まるで夢を見ているみたいだった。これは誰かが都合よく見せている魔法で、シンデレラの魔法みたいに、12時の鐘が鳴ったら全て解けてしまうに違いない・・・としか思えなかった。


「あれから何年もして、伊原さんに、翻訳家として、君を紹介された時・・・正直、俺が一目惚れした彼女だって全く気づかなかった。ただ・・・中田さんと付き合ってるのか、中田さんが片思いしてるか女かと思った。


俺には縁のない、年上の、他の男の彼女。そんな感じだった。


中田さんや伊原さんが、君の事を、凄い童話好きで、海外の物語が大好きな人だと言ってた。だから、このブックカフェ紹介したら、喜んで通うだろうな、と思ったけど・・この場所は俺にとって、あの彼女に会った特別な場所だったから、誰にも教えたくなかった・・・


そんな事を考えてる間に、君は中田さんと距離を縮めていって・・・それを見ていると、なんとも思っていなかったはずの君に、妙にイライラした。


何より俺は君や中田さんよりもずっと年下で、君には翻訳の資料提供以外で相手にされていなかったし、俺もそれ以上、君に関わるつもりはなかった。


でも、君が中田さんと話している所を見ていると、俺と向き合ってる時よりも楽しそうだったし、大人びて見えて・・・まるでガキが大人の恋人同士を羨ましく見ているみたいで・・・かっこ悪いと思った。


一目惚れした彼女の事、忘れた事もないのに、目の前で、君と中田さんとの距離が縮まっていくのが、嫌だった」


「私と中田さんはっ!」


慌てて、中田さんとの仲を否定しようとしたけど、久保さんはそれを軽く制した。


「うん、君と中田さんがそういう仲じゃないことはわかってる。でも、フェルメールの展示会で君と中田さんを見た時・・・心が壊れそうだった。


あの頃の俺は、まだあの一目惚れした彼女の事、君だと気づいていなかったし、忘れてなんかいなかった。それなのに、中田さんと一緒にいる君に横恋慕してイラついたなんて、自分が許せなかった。


でも、あのフェルメールの時、仕事とはいえ、俺の横には森野がいたから・・・仕事中だと言い聞かせて、かろうじて平静を保てたんだ。


森野は・・・大学時代から、当然のようにいつも俺の近くにいた。恋愛感情などなかったけど、周りから見れば恋人同士だと言われても仕方ない付き合い方だった。昔も、今も・・・」


・・・・あのフェルメールの時、久保さんも、私と同じ想いだったの?


「君が、俺が一目惚れしたあの女性だって気付いたのは、中田さんの画集の出版記念パーティーの時だった。


あの時、着飾って化粧した君は、このブックカフェで会った時と同じ顔をしてた。そういえば、君は、翻訳家になる前、普通のOLをしていたって言ってた。・・・


俺が、このブックカフェで一目惚れしたのは・・・

石垣沙織さん、君だったんだ。


あの時からずっと、俺は君の事を、好きだったんだ」


彼の、その真摯な表情は、もはや嘘をついている顔ではなく、今まで彼からは感じた事はない熱っぽささえ、感じた。


「あの停電したエレベーターの中で、本当は全部打ち明けたかった。

許されるなら、君を・・・その・・・誰もいない所に攫ってしまいたかった。・・・


あの時、あの狭いエレベーターで君を抱きしめた時・・・君が中田のものだとしても、君が欲しい。中田に渡したくないって・・・・そう思った」


普段の久保さんからはとても想像できない様な甘い言葉が次から次へと出てくるのに、でも、それでも・・・私の中では拭い切れない不信感が、彼の中にあった。


「だって・・・森野さんは・・・」


久保さんと森野さんは、本当に、恋人同士じゃ、ないの?


単に、久保さんが森野さんの告白の返事をしていなくて、森野さんが恋人気取りでいる・・・とか、そんな噂ではない本当の事を、彼の口から直接聞きたかった。


「森野は、同業者だ。ずっと、大学時代からの同級生で、同じ夢を追ってた。出会った時にすでに、彼女は 文壇デビューしてたし、いろいろ相談を持ちかけたり、相談を受けたりもした。一番近くにいる同業者だ」


そこまで言うと、彼は言い淀んだ。


「告白・・・された事があるのも本当の事だ。学生時代にな。まだ俺のデビュー前だ。

でも、俺にとって森野は、小説家としての先輩で、相談相手ではあっても、恋愛の対象ではなかった。告白された時、そう言ってちゃんと断ればよかったんだけど、当時の俺は・・さっきも話した通り、デビュー前で親父は入退院を繰り返して、母親には小説家になる事を反対されていて・・・恋愛はおろか、返事をする余裕なんかなかった。


返事をしない事で、森野との事は、いろいろ周りからも誤解されたし、森野も、返事をしない事が、“イエス”の返事だと思い込んで、ずっと側にいた。


俺がデビューした後、同業者としての彼女を必要としていた時期があるのも否定しない。


その・・・俺、恋愛には疎いというか・・・そのせいで、俺に対して本気だった森野も、ずいぶん傷つけてたと思う・・・


彼女が、他の男に言い寄る事もなんとも思わなかったし、止める気もなかったし、他の男と深い仲になっても、俺にとってはどうでも良いことだった。


そんなことよりも俺にとっては、もっと大切な事があり過ぎて、余裕なんかなかった」


彼は、森野さんに対する簡単ではない関係も、ゆっくり、整理する様に話してくれた。


「君が・・・俺と森野の仲を誤解してるのも、今考えれば、当然だと思ってる。

いつか、俺の部屋で君に初めてヴァイオリンを弾いてもらった時、森野からの電話で、俺は、君を置いて森野の所へ行っただろ?


あの夜、森野の部屋で一晩過ごした。何してたかなんて、さっき君に言われた通りだ。それも事実だし、否定も言い訳もしない」


そう言って彼は目を逸らした。


「あの、森野と過ごした夜の事、言い訳するつもりはない。俺と森野にとってはいつものことだった。

君のいる出版社から契約を打ち切られる、って情報を森野が知って、森野も気が気じゃなかったんだ。泥酔してたし、荒れてた」


泥酔? 森野さんが?


それで・・・


「だから・・・?」


だから・・・同じ夜を過ごしたの?


「誘いを断れなかった、って言えばそうだし、今までだって、誘われれば一緒に過ごしていた。森野とは、同じ夜を過ごす事なんか、告白されてからはよくある事だった。今まで、何の感情もなく森野を抱いていたし、断ったこともない。


でも、一目惚れしたあの人の正体が君だって判ってからは、森野から誘われても、・・・君の姿ばかりちらついて・・・その気になれなかった。


君の正体がわかった後、森野と夜を過ごしたのは、泥酔した森野を宥めたあの夜が最初で最後だ。」


・・・・私は言葉を失った。まるで童話に出てくる王子様の、知られざる一面を知ってしまったような、後ろめたい気分だった。


「中田は俺が、君の事を好きだって事、気づいてた。それなのに、森野と今まで通りの関係を続けて、君にも思わせぶりな態度をする俺を、許せなかったんだろうな。


中田に何度も釘刺された」


“はっきりさせないと、俺が石垣さんを貰う”


その言葉は、この前、うちの出版社で久保さんと森野さんが打ち合わせがあった時・・・そしてさっきのパーティー会場でも言っていた。


「今日、本当は、ここで全部話して、森野の事も、君とのことも終わりにするつもりだった。

中田が君の事を好きなのも一目瞭然だし、君の告白を聞くまで、中田の事を好きだと思ってた。


さっきだって・・今日のパーティーの時、中田の友達に囲まれてる君を見て・・・もう俺の割り込む余地はないと思った。


俺と森野の事を知って、君がどういう反応をするかわからなかった。


さっきも、君が森野に手を踏まれた時も、俺は身動きひとつ、できなかった・・・森野を諌める事も、君の手を取ることさえも。その時、君と森野、二股同然に向き合ってることに初めて気付いちまって、君の手を取る資格が俺にはないと 思った。


中田が君を連れて行くところを、何も出来ずに見ているだけだった。・・・悔しかったし、もどかしかった。


森野や君に対して、ずっと、態度をはっきりさせなかった俺に対する報いだと思った。


一目惚れした女性がいながら、君と再会した時、一目惚れした女性が君だと気づかなかった。でも、どこの誰かもわからないまま気になっていた。その正体が一目惚れした女性だと判ってからも、森野とずるずる中途半端な関係を続けた罰だと思った。


今日も、ここを借り切って呼び出したのも・・・君に全部伝えて・・・終わりにするはずだった・・・」


まるで、懺悔の言葉を聞いているみたいだった。


「・・・どうして・・・終わりなの?」


別に終わりにする事が嫌だったわけではない。私だって、今日、彼に告白して終わりにするつもりだったのだ。


私が終わりにする理由は、久保さんと森野さんの関係を知ってまで、私がしゃしゃり出たところで・・・不毛な三角関係になるだけだ、と思ったからだ。恋は恋として、ここで終わりにしようと思った。


でも、諦めようとすればするほど、心が軋むように痛んだ。


「君が・・中田と付き合ってるって思ったから。さっきだって、中田と中田の友達に囲まれて、君は幸せそうに笑ってた。


本当は、そのままそっとしておいて、君には話しかけずに帰ろうと思った。


でも・・・君が俺の目の前で、中田に取られると思うと、我慢できなかった。

体が引き裂かれる気分だった。


それに、君と森野に対して、二股に近い態度をずっと取り続けていた俺の事・・・君が許してくれるとも思えなかったから・・・」


「そんな事ない!

私だって、ずっと久保さんの事、好きだったんです。


このブックカフェで初めて会った時だってそうだし、尋人さんに紹介された時だって・・・


貴方だって気付いたのは、私の方が先だったんです!」


ただ、それが恋だと気づくのには、彼よりもずいぶん時間がかかった気がする。気が付いた時には、もう諦めることさえできないほど、久保さんに惹かれていた。


そう言うと、彼は私がさっき押し付けるように手渡した紙袋をテーブルに置いた。


「うん。さっき、君の気持ち、聞かせてもらって・・・。本当に驚いたし、嬉しかったよ。

でも、本当は俺の方が、先に、君に告白したかったから、少し悔しかった。


これも、中身、見させてもらったよ。・・・ありがとう」


そう言った彼の顔は、今まで見た事もないほど嬉しそうで、幸せそうな顔をしていた。


「でも・・・踏んづけられて・・・」


「うん。崩れてた。でも・・・俺の事考えて、作ってくれたんだなって、食べてすぐ分かった。


凄く、甘さ控えめに作ってくれただろ? 俺の好きな、あのカフェのチーズケーキと似てた」


「たべ・・・たの?」


ふんづけられて、潰れてしまったチーズケーキを?


「ああ。パーティー会場でろくに食べられなくて、ここに着いた時、マスターに皿とフォーク借りて、食べたんだ。マスターにも試食してもらった。絶賛してたよ」


「だってあれ、潰れてっ」


「でも、美味しかった。

石垣さんが、俺のために作ってくれた。

それだけで、有頂天だったし、嬉しかった」


楽しそうに笑みを浮かべて、彼は言った。


「石垣さん。

さっきの石垣さんへの返事だけど・・・

俺も石垣さんの事、ずっと、好きだった。


ここで一目惚れした時から、ずっと。


だからもし、君が、俺と森野との関係を許してくれるなら、

俺と付き合ってください」


「森野さん・・・とは?」


森野さんが久保さんの事を好きな事くらい、手に取るように解る。そして2人は・・・私と久保さん以上に深い仲なのに・・・?


「さっき、会場で、森野には全部白状して、断った。

もともと、君とのことも森野とのことも、今日で終わりにするつもりだったんだ。


彼女の告白の返事を先延ばしした事も、俺が石垣さんが好きな事も、全部・・・話した。


怒鳴られて、引っ叩かれて、ヒステリー起こして・・・しまいには泣き出した。


でも俺は、森野を泣かせてでも・・・あの時一目惚れした君が、ずっと欲しかった。中田にかっさらわれると思うと、それだけで恐怖だった。


それとも・・・君は、他の女と深い仲になった男は嫌か?


俺は、君より年下だし、君の大好きな夢の世界に出てくる様な、大人で清廉潔白な王子様なんかじゃない。君が借り暮らししている現実世界に住む、ごく普通の年下の、足りない男だと思う。


それでも、俺の気持ちに、応えてくれるのか?」


不思議な色の目に、不安な揺らぎを湛えながら、久保さんは私の答えを待つように、私を見つめた。・・・私の答えを待っているようにも見えた。


現実世界が、童話や物語の中みたいに、綺麗なものじゃない事くらい、この歳になれば嫌という程理解出来る。


“夢を見たいなら、現実世界を精一杯生きてからにしなさい。そうでないと、夢も現実も、味気ないものになってしまう”


父の言葉が脳裏をよぎった。


こんな現実があるからこそ、夢の世界が輝いてゆく。


物語の中では、主人公や王子様の過去や未来なんか触れていない。触れていないからこそ、綺麗な物語なのだろう。


そして、夢の世界が輝きを増すからこそ、現実世界のリアルさを実感できる。


今なら・・・父が私に残してくれた言葉の意味を、理解できた。父の言葉がなかったら、きっと夢の中の王子様のような心身ともに綺麗な人じゃないと、恋愛したくないような痛い女性になっていただろう・・・


私は、まっすぐに彼を見つめた。


「私も、久保さんが好きです。

このカフェで初めてあった時から、気になっていました。

だから、尋人さんに紹介してもらった時、嬉しかったし、ビックリしました。


それに、私も久保さんの事、とやかく言える立場じゃありません。


私だって、久保さんを諦めきれなくて、苦しくて、一瞬でも忘れたくて、忘れるためだけの理由で、中田さと付き合おうかって考えていたんですから・・・」


笑顔で、言いたかった。童話や夢の世界の主人公のように、綺麗な笑顔で言えたらどんなに素敵なのに・・・そう思ったのに、気がつくと私の目からは、悲しいわけでもないのに、涙しか出てこなかった。


悲しい涙ではない。悲しい涙なんかたくさん流してきた。でも、嬉しい涙なんか、覚えている限り、流した事がなかった。あるとしたら、童話や物語に感動して泣くくらいだ。


止まらない涙を手の甲でぬぐいながら、いつかの、疲弊した夜の事を思い出した。自分の恋心も、翻訳も、どうにもならなくなって、中田さんに誘いをかけた夜。


結局それは未遂で終わったけれど、久保さんが愛想尽かすとしても、無理はない。


すると、久保さんは怪訝そうな顔をした。


「・・・中田、か・・・でも何もなかったんだろ?」


まるで私の心を見透かすように、そう言った。ろうそく越しに、彼の戸惑った表情が見え隠れしている。


ごまかす事などしたくない。私は頷いた。まるで罪を懺悔するような気分だ。


「それでも、久保さんの事、好きです。

多分、初めてここで会った時から、ずっと・・・」


好きでした。泣きながらそう言い切るより先に、彼は私の目の前に、可愛らしくラッピングされた小箱を置いた。


「俺は・・・君が許してくれるなら、それで充分だ。

それと・・・メリークリスマス」


その言葉と同時に、私の前にその小箱をすっと差し出した。


「私に・・・?」


突然の事ばかりで、今日は驚きっぱなしだ。


「好きなのに・・・」


久保さんは決まり悪そうな声で言った。


「石垣さんの事、好きな癖に、君の好きな物って、童話や物語以外、何も知らなかったんだ。


洋書の物語でもプレゼントしようと思ったけど、きっと俺の思いつく洋書の童話なら、君は持ってるだろうし・・・君はアクセサリーも殆どしていないから、好きなアクセサリーや雑貨も思い当たらなかった。

思いついたのは、これだけだったんだ。

開けてみて・・・くれないか?」


彼に促されて、私は丁寧にラッピングを解いて、そっとその箱を開けた。中には・・・


「・・・綺麗・・・」


中に入っていたのは、レースのように透き通った青い色のコサージュだった。


そのコサージュは数輪のバラと小さな白い花を模していて、所々にパールがあしらわれていた。両手の中に入る、ミニブーケの様だった。


「初めて君に会って、あり得ない一目惚れをした後・・・君の事を忘れたくなくて、俺が見た君を、俺の作品の中に閉じ込めたんだ。


君が言うところの「スターサファイアの女性」・・・あれは君なんだ。


雨の中、傘を俺に渡して去って行った君・・・雨と夜の闇の中で、青く輝いて見えた」


「えっ!」


“スターサファイアの女性”! 忘れるはずがない。


私が初めて読んだ、久保さんの小説“ヴァンパイアはかく語りき”に出てきたのヒロイン。“華麗に輝くスターサファイアの様な女性”と描写されていた。


それが私?


信じられない!


新たな事実を突き付けられて、返す言葉さえ見つからない。


「森野さんじゃ・・・ないの?」


私がそう聞くと、彼はふっと笑った。


「違う。森野じゃない。森野だったらスターサファイアなんて似合わない色で表現しない。赤い宝石を使う。


でも君には赤い宝石よりも、青い宝石の方が似合う。だからスターサファイアにしたんだ」


「でも、森野さん、美人だし、男性から見たら、あんな女性って・・・」


「森野がヒロインだったら、もっと違う話になっていた。異性を翻弄する魔性の女になっていただろうな」


冗談交じりに彼はそう言った。


彼の告白、初めて会った日のこと、手元にある青いコサージュ、スターサファイアの君の正体・・・


その一つ一つの話が、私の中にあった、彼に対する、蟠りにも似た不信な想いをゆっくりと解いていった。


そして解けた後に残ったのは・・・


彼に対する、混ざり気のない愛情だけだった。


「いいな・・・」


両手のひらにすっぽり収まる、ブーケのような青いコサージュを見つめている私を見つめながら、彼はポツリと言った。


「何が?」


思わず顔を上げて、彼を見ると、彼は嬉しそうに静かに笑っていた


「俺、クリスマスと誕生日に、凄いプレゼント貰っちまったな・・・」


そういうと、彼は、テーブルを立つと、私に近づいてきた。立っている彼に見下ろされている私は、反射的に彼の顔を見上げた。


彼は、自分の眼鏡を煩わしそうに外した。


初めて会った時から、そして再会してからも、彼はずっと眼鏡をかけていた。その眼鏡を外した顔は、眼鏡越しの顔立ち以上に整っていて、それに見とれた私は、声さえ出なくなった。


そんな私に、そっと自分の顔を近づけてきた。


声も出せないまま、私の唇に、彼のそれが優しく触れた。


「もう、不安な思い、2度とさせないから・・・ずっとそばにいて欲しい・・・」


今まで、した事もない様な、甘い優しいキスと同時にぎゅっと抱きしめられ、耳元でそう囁いてくれた。


囁く息遣いが熱っぽく、かすかに身体に感じた彼の鼓動は、私のそれよりも早く、私を包み込む彼の腕は、心なしか震えている様に感じだ。


「震え・・てるの?」


思わずこの場にそぐわない言葉を言ってしまった自分に後悔しながらそう聞くと、


「・・・今まで、こんなに本気で、誰かを欲しいと思った事なんかない。緊張もする。それに・・・君は、もう中田のものだと思い込んでたから、叶わないと思っていた。


君はどうなんだ?」


その声は不安げで、少し震えていた。私は・・・そんな彼に少しでも応えたくて、彼以上に震える両腕を彼の背中に回した。


「緊張、してるよ?」


きっと、私の顔は、テーブルのろうそくの炎と同じくらい、真っ赤だろう。熱を持った頬に、彼の背広のボタンが当たって、そこだけがやけに冷たく感じた。


「でもね、すごく・・・幸せ」


ああ、こんな幸せに浸った事、今まで、なかった。


童話や物語で出来た、夢の世界・・・そこはいつでも幸せな世界だ。


でも、そこから一歩現実の世界に戻れば・・・夢の世界と比べたら、苦しい事や辛い事もたくさんある。


その現実世界で見つけた、リアルな幸せ・・・私はそれに抱きしめられていた。


「大好き・・・です」


もっと、気の利いた事が言えればいいのに、やっと出てきた言葉さえ、ありふれた使いまわされた言葉だった。


でも、それでいい・・・


今、私と彼の間に、言葉なんかいらない・・・


だって、今は解るから。


彼と私、同じ気持ちだと。


想いがリンクしているって・・・




「初めて会ったときから、ずっと君が欲しかった・・・」


再び、彼は耳元で囁いた。


ささやかれた途端、身体がぞくり、と甘く疼いた。


それは、蕩けそうに甘く、夢の世界では感じた事もない気分だった。




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