第5話
その翌日の日曜日。
私は、資料とも本とも全く縁のない場所にいた。
持っているのはヴァイオリン。
もちろん演奏している。
お遊びではない。真剣、そのものだ。
そこそこ、エアコンも空調も効いている部屋なのに、演奏を続けていると背中に汗が落ちてくる。
弦楽器なのに、管楽器を演奏するような深い息継ぎをする。
弾いていて体が痛くなったり疲れたりしたのは、もう遥か昔の事で、演奏していると、本を読んでいる時とは違う高揚感に包まれる。
ここではない、別の世界にいる感覚は、絵本を読んでいる時の感覚に似ていて、心地よい。
もしも、本の次に好きなものを聞かれたら、間違えなく“ヴァイオリン”と答えるだろう。
“ヴァイオリン習ってるの? 金持ち!”
“沙織ってお嬢だったのねー”
一方的にそう言われ、ありもしない、資産家偏見やお嬢様偏見に満ちた目で見られた事も多々ある。それが嫌で、更に家に引きこもりがちになって、輪をかけて絵本に没頭するようになったりもした。
でも実際は、お嬢の訳でも、資産家の一人娘という訳でもない。父は外交官だったけれど、私自身は海外生活をあまりした事がない。父が1人で、あるいは父母が赴任して、私と、歳の離れた兄と、同居していた祖母、三人は日本に残っていた。
海外赴任が多かった父母とも、あまり会話をした覚えもない。その代わり、帰国するときは、私の好きな海外の童話をたくさんお土産に買ってきてくれたり、現地から郵送してくれたりもして、私の童話好き、本好きに拍車をかけた。
日本では売っていない絵本がたくさん本棚に並ぶ私の部屋を見て、数少ない私の友達は、きっと私の事を“資産家のお嬢様”と思ったのだろう。
でも実際は、どこにでもある一般家庭で生まれて育った普通の子供だった。楽器だって、始めた当初は知り合いのお下がりで、初めて、お下がりではない自分の楽器を買ったのは、就職してからだ。
誰でも子供の頃、一つや二つ、習い事をさせられる世の中、たまたま私が選んだのは、右に倣うようにみんなが通っていた水泳でもスポーツでもピアノでもなく、ヴァイオリンだった、それだけだ。
習い始めたのは幼稚園の頃。当時、部屋に籠もりがちだった私にとって、唯一仲良くしてくれた近所のお姉ちゃんが習っていて、まるでおとぎ話に出てくるような音色と、弾いているお姉ちゃんの姿が素敵だと思って習い始めたのだ。幸い、そのお姉ちゃんが昔使っていた子供用のヴァイオリンを譲ってもらって、彼女が通う先生のお家にレッスンに通い始めた。
それ以来、高校受験や大学受験の時はレッスンを休んだけれど、かれこれ20年以上、習い続けている。
とはいえ、大学を卒業してからは、仕事の忙しさも手伝って、練習する時間が取れなかったり、レッスンも休みがちになった。翻訳業を始めてからもそれは変わらず、締め切り間近はヴァイオリンどころではない。家で練習する時間もままならないほどだ。仕事で夜遅くに帰って、それから楽器を鳴らせば、近所迷惑なので練習も出来ない。練習するとしたら専ら土日の昼間だ。
今日も、本格的に翻訳の仕事に入る前だから、レッスンに来れたようなものだ。
レッスンは先生の自宅で、実家からほど近い所にあって、よく知っている道なので、通うのもそれほど苦ではない。
けれど。実家には・・・しょっちゅうヴァイオリンのレッスンのためにこの街に来る割には・・・ここ何年も帰っていない。
違う、帰りたくないというか、帰りにくい・・・
そんなことを考えているうちに、課題を弾き終わった。
「うん、よく練習してるわね」
「練習時間、偏ってるんで今ひとつなんですよねぇ」
「それがわかってるなら充分。もっと時間があったら、さっきチェックした所と、もっともっと弾き込んで表現して」
20年以上、私を教えてくれている瀬沼先生は、レッスン課題が終わった私にそう言ってくれた。
先生は、50代半ばのプロヴァイオリニストで、時として大きなコンサートをしたり、オーケストラで演奏したりしている。演奏の傍、後進の指導、と称して教室も開いている人だ。
あらかたレッスンも終わった後、先生と軽い雑談をするのも、このレッスンのちょっとした楽しみだ。
緑茶が好きな先生に、レッスンの度,お茶菓子や和菓子を買っていくのだけれど、今日は、昨日中田さんから頂いた金平糖を持っていった。
昨日、帰ってから食べてみたら、今まで食べ事も無いほど、美味しかったのだ。駄菓子屋さんやスーパーで普通に売っている金平糖とは明らかに違う、程よい甘さも上品で、ただの砂糖菓子とは全然違うものだった。何より、金平糖なのに、素材の香りが香料などではなく天然のもののように感じたし、味も、ただの砂糖などではなく、しっかりとした素材の味がしていてびっくりした。
一人で食べるのが勿体無くなった程だ。
「これ、緑寿庵の金平糖じゃないの! こんなの、どうしたの?」
先生はパッケージを見て酷く驚いていた。
「知り合いから頂いたんです。美味しかったので持ってきました。先生、これ、ご存じなんですか?」
「京都にある、金平糖専門店よ。日本で金平糖専門店って、ここ位じゃないかしら?よく雑誌でも取り上げられているわ・・・
日本で一番おいしい金平糖って言われてるのよ」
「へぇ・・・・」
全然知らなかった。
でも、実際これだけ美味しいと、納得してしまう。食べて、幸せになれる金平糖なんて初めて出会った。
中田さん、わざわざ傘なんかのお礼に、こんな素敵なもの、くれたんだ・・・
「こんなに気、遣わなくていいのに・・・」
中田さんがこれをくれたときの笑顔を思い出して、呟いた。たかだか傘のお礼にしては、豪華すぎる。
でも、そのためにわざわざ取材の帰りに選んで買ってくれた、そう思うと素直にうれしかった。
「次に会った時、ちゃんとお礼言わなくちゃ・・・」
貰いっぱなし、というのは性に合わない。せめてちゃんとお礼を言って、美味しかった、って言わなくちゃ。
先生が淹れてくれたお茶とその金平糖はとても相性が良くて、幸せな気持ちを倍増させてくれた。
「あ、そうだ!これ渡しておくね」
突然師匠はそう言うと、クリアファイルに束ねてある資料を私に差し出した。
それは、同じ教室の知り合いが所属しているオーケストラのコンサートチラシだったり、大学のオケの定演のチラシなど、様々だ。
同門の知り合いが出演している舞台は、可能な限り聞きに行く様にしている。
そしてその中の一番上には、秋にある師匠のソロコンサートのチラシとチケットが入っていた。
「今年もやるし・・・チケット、いる?」
「何枚かください。行きたがってる人いるので売ってきます」
師匠がコンサートをやるからといって、有料のチケットが弟子価格になったり無料になったりすることはない。でも、音楽好きな知り合いが何人かいるので、その友人に聞いてみると、何枚かは売れる。
一方私はといえば、当日楽屋で師匠の身の回りの事の手伝いをしたりするので、ゆっくりホールで聴く事などできない。その代わり舞台袖で聴いている。
この師匠のコンサートが終わると、私たち、門下生の発表会もある。私は忙しくて、まだ曲さえ決めかねていた。
「発表会の曲も、早く決めてね」
まるで私の思っている事を見透かすかのように、師匠はそう言うと、意味深に笑った。