第58話
「クリスマスがお誕生日だなんて、ロマンティックだよなぁ・・・」
翻訳がやっと軌道に乗り、気がつくとパーティーまであと1週間となっていた。
せっかくのお誕生日なんだから、クリスマスプレゼントの他に、もう一つプレゼントしたい・・・そう思うようになっていたのは、翻訳が進んで、心に余裕が出てきたからかもしれない。
「何がいいかなぁ・・・」
仕事が早く終わった帰り、時間を見つけては、雑貨屋さんやおしゃれな文房具を売っている店を何軒か見て回ったけれど、めぼしいものは見つからなかった。
よく考えてみると、私はあの人の趣味や好きなものを、あんまりよく知らない。
曖昧な事・・・たとえばフェルメールが好きで、甘いものが嫌いで、コーヒーはブラックしか飲まない。リアルミステリーやオカルトに興味があって・・・という事位は知っている。
“それだけ知ってれば充分でしょ?”という人もいるかも知れない。けれどこれでプレゼントを買おう、と思うと悩むところだ。
それに、彼にはクリスマスプレゼントに、と既に万年筆を買ってしまっている。似たようなものをプレゼントするのは避けたい。どうせならもっと違うものがいい・・・
悩んだ末に、プレゼントを決められないまま家に戻り、持ち帰った翻訳作業を再開しようとして・・・不意に彼の言葉を思い出した。
“甘いもの嫌いだけど、このチーズケーキだけは食べられるんだ”
何気ない一言だった。でもその言葉は何かとダブったような気がした。
(昔、どっかで同じ言葉、聞いた?)
少し考えてから、私は、まるで導かれるように、蔵書を置いている部屋へと駆け込んだ。その部屋は、私にとっては宝物の部屋で、実家から持ってきたり、一人暮らしを始めてから買った童話や物語、絵本が本棚いっぱいに詰め込まれている部屋だった。
その本棚の背表紙を指でたどりながら・・・
「あったっ!」
思わず声をあげて、その本を引っ張り出した。
その本は和書だし、童話でも物語でもなかった。私が子供の頃、母がよく使っていたお菓子の本だった。
30年以上前のお菓子の本だった。今のようにカラー写真が頻繁に使われているわけではない。
汚れやシミも目立つ。でも逆にそれは、母がこの本をよく使っていた事を物語っていた。
一体どうして母の本がここにあるのか解らない。きっと間違えて持ってきてしまったのだろう・・・一人暮らしを始めてすぐ、この本の存在に気づいたときはそう思っていた。
その本をパラパラめくって、出てきたお菓子は、どれも家で母が作っていた物ばかりだった。
そして・・・
「あった・・・」
さっき思い出しかけた記憶が、繋がった。
ベイクド・チーズケーキ。
母が、海外赴任から一時帰国した父に、よく作っていたお菓子だった。
父も母も甘いものが好きで、帰国する度に、母は、よく父に手作りケーキを振舞っていたっけ・・・
そのお菓子の本に書いてある作り方の随所には、母の筆跡の書き込みがあって、砂糖の量が変えてあったり、オーブンの焼き時間の補足なども丁寧に書かれていた。
中には、レシピの覚書の様なメモが挟んであるものもあった。チーズケーキも、レシピの覚書が、母の字で走り書きされて挟まっていた。
「お母さんの、チーズケーキ!」
突然、途切れていた、子供の頃の記憶が繋がった。
母も、チーズケーキをよく焼いていた。母本人が好きだった、というのもあるし、父も好きだったのだろう。
父が帰ってくると、必ず焼いていたチーズケーキも、甘さ控えめで上品な味だった。
チーズケーキに限らず、母はよくケーキを作ってくれた。それは店で売っているような精錬された物じゃなくて、垢抜けない、どこかぼてっとした印象のケーキだった。それでも、父と、母と兄、私、4人でテーブルを囲んで過ごす時には、母の手作りケーキが必ずあった・・・
学校が終わって、あるいはヴァイオリンレッスンが終わって家に帰った時、独特なバニラの匂いや、ケーキの焼ける匂いがすると、それだけでワクワクした。
(今日はこれからきっといいことがある!)
その予感はだいたい当たって、その夜父が帰ってきたり、兄が難しい試験をパスしたり、あるいは父と母の結婚記念日だったり・・・様々だった。
きっとチーズケーキも、何度となく作っていたのだろう。
母のチーズケーキの味も、忘れていた記憶と一緒に、思い出した。
母のケーキに込められた、 幸せな、私の幼い頃の思い出・・・大切な思い出だったはずなのに、一体いつ忘れてしまったんだろう・・・
父が亡くなった時?
兄が結婚して家を出た時?
母が再婚した時?
私が家を出た時?
私が母の新しい苗字を名乗らず、父の苗字を名乗り続ける事を決めた時?
きっと、忘れた原因は、それらの全て。
母や新しい父とは疎遠になり、亡き父の面影を残すものが、実家には無くなった。まるで父は、初めからいなかったかの様に・・・
そんな時間の流れの中で、私自身もまた、父との思い出は大切に覚えているけれど、母や家族と過ごした思い出は・・・父を忘れる様に再婚した母への反発もあって・・記憶の一番奥底へと沈んで、いつしか忘れていった。
『夢を見るのは、現実世界を精一杯生きた人。そうでないと、夢も現実も味気ないものになる』
大好きな父の言葉と、父との暖かい思い出を胸に、就職してからも、がむしゃらに働いた。社会的に認められたい、とか、そんなんじゃなく、単純に、現実逃避するために・・・夢見るために・・・
そんな時間の中、子供の頃の記憶は、父との記憶以外どんどん抜け落ちていった・・・そして・・・あんなに幸せだった、幼い頃の家族と過ごした思い出さえも・・・記憶の奥に沈んでいった。
「なんで・・・今更・・・」
ここ何年も、思い出す事もなかった記憶。母がケーキをよく作ってくれていた、なんてすっかり忘れていた。思い出しだのは、きっと、久保さんと食べた、あのチーズケーキがきっかけだ。
あのチーズケーキが、母の作ったチーズケーキに、味がどことなく似ていたから。
甘いもの好きな母にしては珍しい、甘さ控えめで、シンプルですんなりと受け入れられる味だったから。
チーズケーキの味と一緒に思い出した、母の思い出や
家族でテーブルを囲んだ、あの暖かい記憶さえも。
記憶の奥底に封印し続けて生きていた。
でも、久保さんに出会って、あのチーズケーキで、母のケーキを思い出して。
久保さんのお父様の作った曲を演奏して、久保さんのお父さんの話を聞いた。
そして・・・忘れていたはずの、私の家族との思い出が、まるで連鎖反応を起こすように脳裏に浮かび上がってきた。
「・・・今更・・・」
母とのことなんか、ここ何年も思い出さなかった。
このまま何事もなく生き続ければ、思い出さないまま、1人で生き続けていただろう。
でも、久保さんと食べたケーキは・・・想定外に、母の記憶と、母が作ってくれたケーキを彷彿させた。
突然つながった幼い頃の記憶に戸惑いながらも、それに嫌悪感はなく、思い出した記憶を素直に受け入れられたのは、きっと久保さんのお陰だ。
久保さんのお父さんが作ったあのバイオリン曲を演奏したから。
そして、久保さんとお父さんの話を聞いたから・・・
思い出す事もなかった、私の思い出まで揺さぶったのだ。
「私も・・・作ってみようかな?」
いきなり手作りケーキなんてプレゼントしたら、久保さんは引くだろうか?
でも、思い出した暖かい記憶と、彼が甘さ控えめなチーズケーキを
嬉しそうに食べている姿を思い浮かべ・・・作ってみる事にした。




