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第51話

眠りながら、不思議な夢を見た。


海に身を投げた私は、海の泡になっていた。


そして、体がどんどん溶けて、海の泡のようになって、水面へと上がって行く。


水面には、朝日の光が反射して、キラキラと輝いていて、とても綺麗だった。


これから私は、海の泡になるんだな、そう思うと、どこかホッとした。


叶わない恋心も、真っ黒い嫉妬も、全て透明な海の泡になって、浄化されてゆくようだった。


良かった。心からそう思った。


もう私は、あの久保さんへの恋心で悩むことも、森野さんへの嫉妬で苦しむことも・・・ない。


遠のく意識の中で、自分の体が泡になって消えてゆく様子が見えた。それは、私の中にある全ての感情が、海に溶けて消えているように見えた。


永遠の安息、その泡を見ながら、最後の意識さえも、泡になって消える・・・


まさにその時。


その泡をたどるようにして、誰かが私を追ってきた。


ここは海の底なのに。人が素潜りできるような場所ではないのに。


その人は、その泡を追って、海に飛び込み、私を追ってきたのだ。


私の名前を叫びながら。


人が、海の中で叫ぶことなんかできないはずなのに。そんな事をすれば、肺に水が入って、泳ぐことなんかできないのに。


案の定、その人は、海の中で私の名前を叫んだ途端、大きくむせ、たくさんの空気を吐き出した。


それでも、必死で私に手を伸ばしている。



“消えたらダメだ”


そう言いたげに。



海の中でもがきながらも、その人は私に手を差し出している。“つかまれ!”そう言いたげに。


私は手を出したけど、出した指先から、どんどん泡になっていって、消えてゆく。


その人は、泡になった私の手をつかもうとするけど、所詮海の泡。掴めるわけもない。


それでもその人は、必死に、泡になりつつある私を捕まえて、水面へと連れて行こうとする。



なんで? どうして?


どうしてそっとしておいてくれないの?


このまま泡になってしまえば、私は楽になれるのに!


ううん、私は、楽になりたいの!


こんな感情から解放されたいの!


それなのに・・・どうしてそうさせてくれないの?


もっと、これ以上私に苦しめっていうの?


この出口のない真っ黒な感情を抱えて生きていけっていうの?


どうして・・・


どう・・・して・・・・・



そんな夢が覚める瞬間、その人が、久保さんに見えたのは、私の都合の良い妄想だろう・・・・




夢から現実へと戻ってゆく瞬間、何度も携帯の着信音や、メールの着信音を聞いたような気がした。


 もしかしたら久保さん? と、まるで夢の続きのように都合のよい夢を見ながらも、"そんなわけないでしょ?"とそれを切り捨てる私がいた。


 まともに目を覚ました時、もう夜も遅い時間だった。


「やば・・・」


 明日の仕事! 翻訳の続き! 全然進んでいない! 真っ先に脳裏をよぎった。やらなくちゃ、焦る気持ちがざわざわと身体を動かそうとしている。けれど、次の瞬間、今日は土曜日で、明日は日曜日。そう思い出して、ほっとして再び布団にくるまった。


 もう、今日は何もしたくなかった。


 翻訳の原文とも、森野さんの言葉とも、自分とさえも、もう向かい合いたくない・・・


"所詮何も作り出せない存在の癖に!"


 その言葉が脳裏を木霊する。いくら逃げても逃げても、言葉は頭に焼き付いたまま、離れてくれない。


 それを目の当たりにするたびに、平常心も冷静さも、どんどん削られていった。


(心も体も全部、削れてなくなっちゃえばいいのに・・・)


 夢の中で泡になった人魚姫が、いっそ羨ましく思えた。


 夕食も作る気になれず、再び寝直そうとした瞬間、


"♪~~"


 携帯がメールの受信を報せた。


 立ち上がる力もなく、のろのろと這いつくばるように携帯が入っているバッグを引っ張り寄せて携帯をみると、メールと電話の着信が10件以上、あった。


「なによこれ・・・」


 しかも相手は全部、久保さんだった。たったそれだけで、とまっていた心臓が動き出したような錯覚に陥った。


 一番最初のメールは、今から2時間以上前のメールだった。恐る恐るそれを開けてみた。


"今、君のマンションの下にいます。これを見たら、連絡下さい"


 短いメールだったけど、心臓が壊れるほど高鳴った。その次のメールも、次のメールも・・・内容は似たようなものだった。


"電気ついてるし、部屋にいるんだよね?"


"体調悪いのか? それとも仕事中か?"


"どうしても今、話したいことがある。このメールを見たら知らせて欲しい"


 ・・・・


 その合間に、何度か着信もあった。


 慌ててカーテンを開けると、窓一面、氷の粒がくっついていた。


「・・・雪・・・?」


窓を開けると、空からまるで細かい真綿が降ってきているような風景が視界いっぱいに広がっていた。


一瞬、その光景に見とれた後、マンション下を見てみると・・・


マンションの前、出入り口の近くに人影があった。


 電柱に寄りかかり、街灯の明かりに照らされている影だけなので、はっきりと顔まで判らなかったけれど、私が窓を開けた途端、こちらに向かって手を振っていた。


「くっ久保さんっ!」


 その声が彼の耳まで届いたかは判らないけれど、私は慌てて、部屋を飛び出し、エレベーターを待つのももどかしく、階段で下まで駆け下りていた。


 マンションの外に出ると、その人影は、こちらを見ているように見えた。


久保さんだった。


「どうしたんですか?」


彼は、昼間カフェで見かけた姿となんら変わらない、白シャツにニットのセーター、デニムのズボン、その上に黒のコートとマフラーを着ていた。でも、傘もささずにこの雪の中ずっと立っていたのだろう、髪の毛も肩もコートも、雪がくっつき、濡れていた。


そのポーカーフェイスは相変わらずだけど、やはり寒そうで、ずいぶん長いこと、ここで待っていたことを物語っていた。


「よかった・・これ以上出てこなかったら、凍え死ぬところだった」


こんな言葉、中田さんが言ったら冗談だと思うけど、久保さんが言うと冗談に聞こえないから怖い。


「どうしたんですか? こんな遅い時間までっ!」


私は、彼の 頭や肩に積もった雪を払ってあげた。彼の身体はとても冷たいけれど、彼の表情からはそれが全くうかがえない。


「君に用があったんだ」


私の慌てた問いに、彼はしれっと答えた。


「とにかくっ! 中に入ってください! 上着乾かさないと、風邪ひきますよ!


傘とか持ってなかったんですか?」


今日の天気予報を見ていれば、傘を持たないで出かける人なんかいないだろう。でも、久保さんは決まり悪そうな顔をした。


「石垣さんに傘を返しちゃったから・・・折り畳み傘、持ってないんだ」


「え?」


「君にあの時、折りたたみ傘を借りてから・・・ずっとそれをカバンに入れっぱなしにしてて、雨が降ったら普通に使ってたから・・・つい、入ってるもんだと思い込んでた・・・」


その言葉に、一瞬心がぐらついた。


どうして私の心は、こうまで彼の言葉や行動でぐらつくのだろう・・・


報われない想いなのに・・・


「石垣さん?」


突然動かなくなった私に、久保さんは不思議そうに声をかけた。その声ではっと我に返った私は、


「中に・・・話は部屋で聞きますから」


さっきまでの勢いは何処へやら、急に冷静になってしまった私は、彼にそう言い、マンションの中に入れた。

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