第50話
ドレスを部屋のハンガーにかけて、テーブルの上に彼へのプレゼントを置いて、それを眺めながら・・・ドキドキワクワク落ち着かなくパーティーの日を待つ・・・パーティー前のきついお仕事もそれを糧にして乗り越えて・・・
ドラマや小説だったらそうなるだろう。
けど現実は、それほど幸せな気持ちになどなれなかった。
むしろ、パーティーの日が、久保さんと向き合う“最後”と言うことになる。そう考えると胸が張り裂けそうだ。
最後の為にドレスを用意して、着飾って行くなんて、後悔しないため、とはいえ自虐的だ。
終わりが目に見えている。それは、この間森野さんと久保さんが一緒に出版社に来た時に・・・ううん、それ以前からわかりきっていたことだ。
出版社での打ち合わせの時、 前の日と同じ服を着ていた彼、その彼から感じた、森野さんと同じ香水の匂い・・・一晩、一緒に過ごしたあの二人。付き合ってるのなんか明白だ。
でも、このままじゃ、久保さんを好きになりすぎてしまった私の気持の持って行き場がない。
ほんの何ヶ月か前まで、“せめて翻訳者として好かれていたい”と思っていたはずなのに、思いはどんどん貪欲に、真っ黒になってゆく。
今となっては、このまま、久保さんとのことをなかったことにして、中田さんと付き合うなんて、無理だ。ちゃんと気持ちにケリをつけないと、私が前に進めない。
そんな想いを抱えながら、現実世界の仕事と向き合い、翻訳を進めていたけれど、進めば進むほど、森野さんのあの言葉が、そして書店巡りの時の久保さんの姿が、まるで心に突き刺さるような痛みで襲いかかってくる。
普段見せない、営業用の笑顔で、疲れを隠して書店員さんと話していた、彼。そして・・・
“所詮何も作り出せない存在のくせに!”
あの言葉を言われてから、もう何百回、心の中で繰り返しただろう。その度に、痛みが苦しくて、翻訳の手が止まってしまう。
「珍しいな。石垣が得意分野でペースダウンしてるなんて?」
オフィスのデスクで、全く手が止まってしまった私の顔を覗き込みながら、他のスタッフが心配そうにそういった。
その言葉にさえ、答えられないまま、私はただ、原文をぼぅっと眺めていた。内容なんかとっくに頭に入っている。内容も把握している。でも、翻訳作業に入れずにいた。
デスクに積まれた原文、参考資料の類は気がつくとどんどん増えて、山積みになっていて、下手に触ると崩れそうだ。
日にちはどんどんすぎてゆくけれど、反比例して、翻訳は一向に進まない。無理に頑張って翻訳しても、納得できる訳にならず、やり直し・・・その繰り返しだった。
こんなこと、翻訳家になって、今までなかった。今までは、たとえそれが専門外の翻訳でも、難しい内容でも、どうにか乗り越えられた。でも今回は・・・こんなにも大好きな分野なのに、全くもって進まない・・・
デスクでため息とともに頭をかかえる私に、もはや尋人さんも周囲も、かける言葉を失ったようで、まるで腫れ物に触れるように接していた。
それがわかっていても“大丈夫だから”という言葉ひとつ、出てこなかった。
辛い、苦しい・・・そう言葉に出せば、誰か・・・例えば尋人さんが、まるで魔法を使うように助けてくれるだろう。でも、その言葉さえ、出なかった。
それほど、心の疲弊はとどまるところを知らなかった。
「本当に、森野さんの言う通りだなぁ」
誰にも聞こえない、小さい声で、呟いた。敗北宣言のようだ。
何も作り出せない無力な存在、すでに出来上がったものを翻訳する仕事をしながら、それさえもおぼつかなくなっている。
森野さんが言った通り、無能、極まりない。
…………………………
私が抱えているのは、翻訳だけじゃない。
年が明けて、2月にはヴァイオリンの発表会もある。翻訳中でレッスンは控えているけれど、そう休むわけにもいかない。
週末、忙しい合間に時間を作って、師匠のレッスンを受けに行った。
課題曲を師匠の前でそつなく演奏した・・・つもりだけど、師匠は曇り顔だった。そして、ため息を軽くついた。
「本当に、沙織の演奏はわかりやすいわね。
心や思いがここまで演奏に出るのも珍しいわ」
困った顔をして、そう言われた。言われた私は、まるで心臓を掴まれたような気分だった。
「もうちょっと切ない悲しげな曲だったら、今の弾き方でもいいんだけどねぇ・・・明るい超絶技巧の曲だから、もっとさらっと軽快に弾いた方がいいんだけど・・・仕事、つまってるの?」
「仕事だけだったらいいんですけどね」
私は苦笑いして答えた。正直、翻訳と同じくらい、森野さんや中田さん、そして久保さんのことが気になってしまっている。
ヴァイオリンを弾いている間は無心でいられていても、心に残る想いは無意識に演奏に出てしまう・・・師匠にはバレバレだ。
レッスン後恒例となっているお茶とおやつを、仕事の続きがあるから、と言って断り、師匠の家を後にした。
実際、家で原文と向き合っても、翻訳は思い通りに進まない。煮詰まるだけだ。それでも、仕事だから、投げ出すわけにはいかない。
「よしっ!」
空っぽな気合を入れても、結局行き着く場所は、“投げ出すわけにはいかない”という場所だった。そして、そこには同じくらいの重さで、あの森野さんの言葉があるのに・・・
そして多分、前に進めなくなる。ジレンマの繰り返しだ。
地下鉄の駅まで歩く道すがら、冷たい風が何度も通り抜けて行った。足先も、手袋をしている指先さえもかじかみそうだ。
今日は朝から妙に寒い。天気予報では、夜には都心でも雪が降るかもしれない・・・と言っているほどだ。
空を見上げると、今にも何か降ってきそうな重たい雲が立ち込めていて、それはまるで私の今の心境のようだった。
私の足は、無意識に、裏通りのあのカフェへと向かっていた。
少し、暖まりたかった。寒さで体の芯まで冷たくなりそうだった。
でも・・・心に残る、不安・・・
久保さんと何度となく会った、あのカフェの前を通りかかったとき・・・
「やっぱり、いた・・・」
カフェのいつもの席に、久保さんがいた。先日の書店巡りの時は、ちゃんとした背広姿をしていたけれど、今日はいつも通りの白いシャツにニットのセーター、デニム、といった姿で、本を読んでいた。テーブルにはコーヒーカップがあって、随分長い事、そこにいることを物語っていた。
その姿を見た瞬間、会いたい気持ちと、会いたくない、という背反する気持ちが心の中で混ざりあった。
向かい合ってしまえば、きっと諦められなくなってしまう。けれど、足はまるで金縛りにかかったように、その場から動けなかった。
自然に、視界が歪んできた。正視できなかった。正視できない原因が、私自身の涙だと判るまで少し時間がかかったけれど、気が付くと私は、ヴァイオリンを両腕で抱えて、その場から走って逃げていた。
(会っちゃダメだ!)
会いたいと思った瞬間、心がブレーキをかけた。
会ってしまったら・・・諦められなくなる! これ以上好きになっちゃいけない人なのに!
そう言い聞かせながら踵を返した瞬間、一瞬、彼が顔をあげ手こちらを見たような気がしたけれど、そんなこと、気にとどめることも出来なかった。
弱虫な 私
無能な 私
想いを告げる勇気さえ持てない、私
告げて、傷つくのが怖い。
それなのに
久保さんは、森野さんの事が好きなのに。
それでも好きでいることを止められないなんて。
森野さんに対する真っ黒な嫉妬さえ、心の中でどんどん大きくなって、持て余している。
浅ましいにも程がある。
そのまま私は、裏通りから表通りに戻り、逃げるように地下鉄の改札を通過して、帰路についた。
部屋に戻ると、そのままヴァイオリンとバッグを床に置きっぱなしにして、ベッドに身を投げた。
それはもしかしたら、人魚姫が、王子様に想いを告げることも刺し殺すことも出来ず、海に身を投げたのに似ていたかもしれない。
そのままエアコンもつけずに毛布にくるまったまま、気が付いたら連日の疲れも手伝って、うとうとと眠りについていた。




