第4話
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数か月前、とある打ち合わせの日。
打ち合わせ場所はうちのオフィスだった。
突然のゲリラ豪雨で、地下鉄もJRも一時的にストップしてしまい、打ち合わせに来るはずの中田さんが、打ち合わせに遅刻する、という連絡が入った。
遅刻してきた中田さんは、全身ずぶ濡れだった。
ここに来る途中、ゲリラ豪雨に襲われ、タクシーさえも捕まらず、その間豪雨の餌食になったそうだ。
わらわらと、他の事務員さんがタオルやらを用意している間に、私は急いで自分の席に戻り、バッグに入っている、使っていないフェイスタオルを掴んで彼の所に戻り、彼に手渡していた。
「よかったら、先にこれ、どうぞ?」
その時、私と彼は初対面だった。今回初めて、一緒にお仕事をするイラストレーターさんが来る・・・と聞かされていただけで、名前は知らされていたし、事前情報もちゃんと仕入れておいた。けれど、彼がそのイラストレーターさんだ、という事までは知らなかった。
「あ、あの、こんなんじゃ足りないと思うんですが、もうすぐタオル持ってきてくれると思うので、その間だけでも・・・」
本当なら、この課では一番下っ端の私がタオルを取りに走らなきゃいけない立場だ。でも、他の事務員がタオルを取りに走っている今、私が行っても完全に出遅れるだけだし、何となくだけど、この人をこのままほったらかしにしちゃいけない気がしたのだ。
全身ずぶ濡れで、服はもちろん、髪の毛からは雨の雫が滴り落ちて、フロアーの床を濡らしている。
雨に濡れたせいか、彼の顔色は悪い気もする。このままでは風邪をひいてしまう。
「ああ、ありがとう」
彼はそう言って私のフェイスタオルを受け取りながら、それで顔や腕を拭いた。ふと見ると、彼の足元に置いてあるカバンも雨でびしょ濡れだった。私はポケットの中に入っていたハンカチで、それを拭いてあげた。さすがに鞄を開ける事はなかったけれど、見た所、中身は無事のようだったのでほっとした。
やがてそのハンカチや彼に渡したフェイスタオルが水で重たくなって使い物にならなくなるころ、他の事務員さんがタオルを持ってきてくれて、やっと彼は落ち着いて体をふくことが出来た。
「ありがとう。助かったよ」
彼は優しい声で、そう言ってくれた。そして、
「君、初めて見る顔だけど・・・ここのバイトの子?」
バイト・・・確かに、背は同年代の女性と比べて低いし、童顔だし、実年齢より若く見える・・・とはよく言われる。言われ慣れてしまった。
「私・・・」
慌てて言い返そうとしたとき、尋人さんがやって来た。
「中田。バイトはないだろ! 今回お前と一緒に仕事するうちの翻訳家だ」
「えっ!」
驚いたように私を見下ろす中田さんの顔は、今でもはっきりと覚えている・・・慌てて私は自己紹介したのだった・・・
そして帰り、止まないゲリラ豪雨の中、タクシーで帰る中田さんに、私は自分の折りたたみ傘を手渡した。
「良かったら使ってください」
今考えると、タクシーで帰ろうとする人に傘を貸すのも変な話だ。断ろうとした彼、でもそれより先にタクシーのドアは閉まり、タクシーは走り出した。
折りたたみ傘は彼の手に渡った・・・
次の仕事の時、彼にはしっかりお礼を言われた。
「あの傘、助かりました。
タクシー降りて、マンションまでちょっと距離があって、雨、まだやまなかったんで、あの傘がなかったらまたずぶぬれになる所でしたよ。
ありがとうございます」
丁寧なお礼を言われ、恐縮した。そして。
「ちゃんと乾かして返すから、もうちょっと借りててもいいですか?」
「いいですよ。あれくらい」
本当は、お気に入りのメーカーの、お気に入りの折りたたみ傘だったけれど、そう言うしかできなかった。
(また、折りたたみ傘、買い替えなくちゃなぁ…)
社会人になって、折りたたみ傘を買い替えたの、これで何度目だろう? その半分以上は、誰かに貸したまま、帰ってこない・・・というパターンだ。
折り畳み傘だけではない。ハンカチやフェイスタオルの類も、何かの折に貸したり渡したりしてしまい、帰ってこない事が多い。私の中では半ば消耗品、そう割り切りながらも、買い換える時はつい、傘もタオルもハンカチも、お気に入りのメーカーの、お気に入りの絵柄のものを買ってしまう。帰ってこないのがわかっているのに・・・
そういえば何年か前、ブックカフェで偶然あった男性にも、お気に入りのメーカーのお気に入りの傘を渡したまま、帰ってこなかったっけな・・・
心の中で私は愛想笑いした。
それ以来、彼とゆっくり会う事はなかった。何度か仕事の打ち合わせで会うことはあったけれど、私は、傘の事を切り出す余裕もなく、彼も傘の事をいう事はなく、翻訳の仕事も支障なくあっという間に終わり・・・それっきりだった。
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私があの時の事を思い出していた時。
「そんなもん、俺に預けてくれればよかったのに!」
尋人さんが文句を言うように中田さんに食って掛かった。けれど、中田さんは平然としている。
「やだよ! 沙織ちゃんに直接返したかったんだ!」
そう言いながら、中田さんはカバンの中から可愛らしい紙袋に入ったプレゼントのようなものを取り出した。
「はい、これ、ありがとう。あと、お礼も入ってるから!よかったら食べてみてよ!」
差し出された包みを開けると、私が先日貸した折り畳み傘とハンカチと、フェイスタオルが入っていた。傘はちゃんと乾かして綺麗に畳んであり。ハンカチもフェイスタオルも綺麗に洗濯してあった。
それと、見慣れない、細長い箱も入っていた。
一目で、お菓子のプレゼント包装、と判るのだけれど、それにしては模様が渋くて、いかにも和菓子といった雰囲気だ。
「開けてみてよ?」
中田さんに促されて箱を開けると、中には、小さい袋が三つ、入っていた。それは・・・
「わぁ・・・金平糖?」
小袋に入った金平糖が詰め合わせてあった。可愛らしいパステルカラーの金平糖。それが和風にラッピングされていた。それだけで食べるのが勿体ない、素敵なものに見えてくる。
「綺麗ですね!」
「うん。甘いもの、好きだったみたいだし。それ見たとき、なんか沙織ちゃん思い出したんだ。光が反射した雨粒みたいで、色合いがかわいいしね」
「ありがとうございます!
食べるのもったいないですね!」
「この前京都に取材に行った時、たまたま見つけたんだ。すごく評判のいいお店だし、俺のお勧め」
「中田さんのお勧めなら、きっと本当においしいですよね」
私も中田さんも、甘いものが好きで、そう言う意味での好みは似ている。一緒にケーキバイキングとかに行ったら楽しいことになるだろうな・・・とよく思う。
そんなことを考えながら、それらをバッグにしまおうとしたとき、
「ちょっとー、私へのお土産よりずいぶん豪華じゃない!」
ふくれっ面をして森野さんが中田さんに詰め寄った。
「何でこんなに待遇違うのよー!狡いわよ! 私には、他の人とおんなじ八つ橋詰め合わせだったくせにー!」
「彼女は別! お礼も兼ねてんだよ!」
「じゃあ、私も中田さんに傘貸したら、待遇良くしてくれるの?」
「お前が、雨降ってるときに自分の傘、他人に貸す心遣いが出来る女だとは思わない」
ぴしゃり、と言い切った。一方言い切られた森野さんはといえば・・・ふくれっ面をしながら、私の方を見て・・・・冷たい視線を投げつけた。
(怖っ・・・・)
その視線を正面から受け止める形になった私は、背中に悪寒が走って一瞬、動けなくなった。
その時、ふっと、森野さんとは違う視線を感じた。
見ると、中田さんの隣に座ったまま、一言も話さないままだった久保さんが、私達のやり取りをじっと見つめていた。
その彼の眼の色と、視線に、一瞬、身体中が動かなくなりそうだった。
(あの・・・目だ・・・)
いつか、ブックカフェで初めて会った時の、視線。そして、端正な顔立ち。
手元の金平糖と、帰って来たお気に入りの傘、そして森野さんの刺すような視線から、一瞬で心は、彼・・・久保さんへとくぎ付けになった。
(なんだろ・・・この気持ち・・・)
知らない心拍音で、身体中が満たされていった。
そして、心は、目の前にある素敵な金平糖ではなく、あの、久保さんと初めて会ったブックカフェでの事が、まるで古い映画のワンシーンの様に浮かび上がった。
「・・・・ちゃん? 沙織ちゃん? 聞いてる?」
「えっ!」
突然尋人さんに呼ばれて、私は慌てて想いをあの日から現実の世界へと戻した。
「え? じゃないよ。お土産もらってうれしいのは判るけど、本題に入ろう!
今、久保に話したんだけど、聞きたいことって・・・」
私は慌てて、今度の翻訳内容を大まかに説明した。
「中世ヨーロッパ、北欧の口伝とか口承や言い伝えに関する書籍と、悪魔や吸血鬼とか、魔女の出現や魔女裁判。そういった文献を探しているんですけど。何か知りませんか?
あと、ヨーロッパにおける悪魔や吸血鬼、魔女の出現やら魔女裁判やら・・・その民間クラスの扱い・・・それと・・・」
「久保、ヨーロッパ系の民話とか詳しいだろ?
そういう文献、知らないか?」
久保さんは、私達の話を聞きながら、口元に指をあてて、少し考え込んでいた。あの日も今も相変わらずかけている細い黒縁のメガネ越しに見える、独特な目は、今も変わらず、私を釘づけにしたままだ。
「なくはない・・・図書館は調べつくしたんだろ?」
静かな声だった。さっきまでの中田さんの明るい声とは対照的だった。
「ああ。内容がマニアックだからなぁ、図書館にある文献も限られてる」
「だろうな・・・」
そう言いながら、少しため息をついた。
「心当たり、ちょっと当たってみる。目星がついたら連絡するけど・・・それでもいいか?」
「ありがたい! でも・・・俺じゃなくて石垣さんに直接連絡してくれないか?
俺も忙しいんだ」
尋人さんがそう言うと、久保さんは私を改めてまじまじと見た。
あの独特な色の視線が、私に注がれてる・・・それだけで顔から火が出そうだ。
数秒だったのか、十数秒だったのか、その時間さえ判らなかった。
そして、彼から出てきた言葉は・・・
「井原さん。
彼女、学生さんか?」
口元に笑みを浮かべて、半ばからかうようにそう言った。そして聞いた瞬間、井原さんと中田さんまで、大笑いした。
笑ってないのは私と森野さんだけで、森野さんは、相変らず不機嫌顔で私を睨みつけ・・・ううん、睨むなんてもんじゃない。敵視してるように見える。
私はと言えば、学生さんによく間違えられるし、言われ慣れているけど、ここまで大笑いされると気分が悪い。
「久保!名刺見ろ名刺! この子、うちのちゃんとした翻訳担当者だ!」
「いやーー、俺の他にもガキ扱いする奴がいたわぁ!」
尋人さんも中田さんも、笑いが止まらないみたいだ。
「私・・・学生でもバイトじゃないです。中途採用ですけど、ちゃんとした社員です。
これでももうすぐ30なんですけど・・・」
内心、"女に歳をカミングアウトさせないでよ!"と尋人さんに言いたくなったけれど、そこはぐっとこらえた。
童顔で、実年齢よりも若く見えるのは今に始まったことじゃないし、OL時代は相応の服装をしていたからかろうじて"少し若く見える"程度だったけれど、今の職に転職してからは、特別なとき以外服装コードがないので、OL時代よりもやや軽装で、仕事するのに支障のない楽な服装で出勤している。それだけでも実年齢よりも若く見られがちなのだけど、今日は休日で、完全私服で薄化粧なのだ。私が完全私服でノーメイクだと、学生にしかみえないらしい。
「年上ぇ!?」
「え・・・年上? 中田さんと同い年なの?」
私が歳をカミングアウトすると、久保さんと森野さんは驚いた顔で、固まった。
「年下ですか?」
私も、まるでおうむ返しのように、その言葉を呟いた。森野さんはともかく、目の前にいる久保さんは、初めて会った時も今も、落ち着いた大人びた人だ。
「あの・・久保さん、失礼ですがおいくつですか?」
なるべく失礼のないようにそう聞いたのは、初めてブックカフェで見かけたときから、同年代か年上だと思ったからだ。
すると彼は、
「26歳」
と、あっさりと私の期待と夢をぶち壊す一言を言った。
「26…歳?」
「森野と同じ年だ」
今度は私が唖然とする番だった。この2人、四歳も年下で、こんなに、私よりも年上に見えるの・・?
「じじぃくさいだろ?こいつ?」
中田さんがからかうように言うと、久保さんはむっとした顔で中田さんを睨みつけた。この二人、かなり仲良しのようだ。
「い、いいえ、なんか大人っぽくて素敵だなっと・・・」
「お、沙織ちゃん、フォローが上手いね~」
尋人さんがそう言ってからかった。でも、嘘でもフォローでもなかった。
初めて会った時も今も、雰囲気も、私が釘づけになった目も視線も、何も変わっていなかった。
ただ、気の置けない友達が近くにいるせいか、随分砕けて話している。あの時は、もっともっと遠い存在に思えた彼が、こんなにも近くで、尋人さんや中田さんと笑いあっている・・・その表情も素敵だと思った。
その、私が惹かれた所に、歳なんか関係ない・・それだけだった。
ただ、森野さんが私を見る、刺すような、敵視するような視線だけが気になった。怖かったし、初対面の彼女に何か失礼な事をしたのか、心配になった・・・
・・と・・・さすがにそこまでは言わなかったけれど、私の表情を、中田さんは意味深に笑いながら見ていた。その視線は、すべてお見通し、とでも言いたげで、私は恥ずかしくなって俯いた。
やがて、それぞれのランチプレートがやってきて、私たちの年齢に関する話はうやむやになった。
その後、メアド交換した私と久保さんは、
「資料、揃ったら連絡する」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
久保さんと中田さん、森野さんは、それぞれ別の打ち合わせがあるとかで、ランチが終わるとさっさと出て行った。
「それじゃ、沙織ちゃん、またね」
「石垣さん、また!」
中田さんは、持前のハイテンションで私に手を振り、森野さんはにっこりと作り物のような笑顔で、久保さんは無言で、軽く会釈していた。
「ああ、またなー」
私も二人にお辞儀した。すると途端に、テーブルは静かになった。
今までテーブルでは、主に尋人さんと中田さんのひっきりないお喋りが続いていたのだ。正直、少し疲れた。
「ん? どうかした?」
私の様子に気づいたらしく、尋人さんが優しく問いかけた。
「いいえ、ちょっと疲れただけです。
やっぱりこういう席、苦手だなって・・」
「でも、楽しかっただろ?」
そう逆に聞かれて、私は返す言葉を失った。
苦手だ、と言っているのになぁ…苦手に楽しいも何もないのに。
そう思っても、口には出せなかった。出すのを諦めていた。
正反対の性質を持っている私と尋人さん。それなのに友人関係が続いているのがいまだに不思議だ。
でも、それほど嫌ではないのは、彼が持つ、私にはない、人懐っこさ故だろうか?
今も、人懐っこい表情で、"デザート、何か食べるか?"とメニューを広げてわくわくした顔をしている彼にため息をつきながら、笑顔を返した。