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第42話



 午後の打ち合わせの間も、時間が開くと、携帯のメール着信ばかりを気にして過ごしていた。


 でも、いくら待っても、久保さんからの着信も、メールもなかった。


 久保さんの打ち合わせは午前中に終わる・・・と聞いている。もしかしたら私が仕事が終わるころにメールが来るかもしれない・・・そう思う反面、それとは正反対な思いも脳裏をよぎった。


 それでも仕事は仕事、打ち合わせは打ち合わせ。仕事に支障をきたすことはなかったけれど、何度か尋人さんと中田さんが私の顔を伺っていた。


 それは、昼休みの、森野さんに言われたことを気遣っての事なのか、私がメールばかり気にしているのがばれているのか、定かではなかったけれど・・・


 本格的に翻訳開始となり、しばらくまた忙しい日々が始まろうとしていた。次に、彼に会えるのはいつなんだろう・・・もしかしたら、何か月も会えないかも知れない。


 不意に、ヴァイオリンレッスンの帰りに寄る、あのカフェの事を思い出した。ヴァイオリン発表会は二月。今はちょうど、ハロウィンが終わり、町に少しずつ、クリスマスの飾りが増え始める季節だった。


 発表会まではレッスンを完全にお休みにはできない。翻訳が忙しくない時ほど頻繁にではないけれど、最低、月に一回位はレッスンに行く事になる。その時にでも会えるのだろうか・・・?


 「あ、そうだ! 石垣さん」


「は、はい!」


 突然名前を呼ばれ、私は頭を久保さんから仕事に切り替えた。いけない、今は仕事中で打ち合わせ中だ。久保さんの事を考えている場合ではない。


「今回の出版に際して、原作者と連絡が取れてるんだ。判らない事とかがあったら、原作者に直接聞いて構わない。原作者さんにも了承得ている。


 あとで石垣の社内メールに、原作者さんのメアド送信するから、連絡とってみてくれ。


 あと、先方は日本語判らないから、英語で頼むな」


 それは、願ってもない事だ。英語のニュアンスと日本語のニュアンスは、訳している過程でずれてくる。解釈の違いも手伝って、翻訳が出来上がったとき、原作者さんの意図と違う作品になりかねない。原作者さんと相談しながら翻訳が勧められるなんて、夢みたいだ。


「はい」


 英文のメールなら大したことない。前の会社でもしょっちゅう書いたり読んだりしていた。


「原作者さんとメールのやり取りなんて、嬉しいです!」


 翻訳するにあたり、その原文をかいた人と直接コンタクトを取るなんて、初めてだ。ましてや今回の作品は、ぜひ機会があったら原作者さんにお会いしてみたい、と思っていたのだ。


「遊びじゃないぞ!」


「はい。判ってます」 

 

 そうは言っても、自然に顔が緩んでくる。あの原作者さんの以前の作品もかなり面白かったし、今回の作品も、シリーズもので、続きが気になって仕方がないのだ。


きっと時差の関係で、すぐに返事は来ないだろう。でも、こうしてコンタクトが取れるだけでも嬉しいし、翻訳が楽しみになってきた。


 打ち合わせがすべて終わり、席に戻ると、いない間に資料や仕事がデスクの上に山積みになっていた。その仕事のうち、原作者さんへのメールと、急ぎの仕事だけ片付けた。残りは明日片付けても十分間に合いそうだ。


 急ぎの仕事が終わったとき、珍しく定時前だった。そして今朝、今日は急ぎの仕事が終わり次第帰宅する、という事を尋人さんに許可を貰っていた。でも・・・相変らず久保さんからのメールはなく、仕事を早退する理由など、もうあやふやでどうでもよくなっていた。


「終わったんだろ?もう上がっていいぞ」


 それなのに、尋人さんがそう言ってくれたのは、正直複雑だった。朝だったら、この後久保さんと会える・・・と有頂天になれるはずなのに。


「そうさせていただきます」


 私はそう言って、ふと携帯を見た。久保さんからのメールは、来ていなかった。


「・・・・・・・」


 私はその感情を心の奥に無理にしまい込み、帰り支度をして、オフィスから出た。


 いつものようにエレベーターで一階まで降りて、一階のロビーに降りたとき、ロビーの端にあるベンチに、中田さんが座っていた。


「中田・・・さん・・・?」


 中田さんは缶コーヒーを飲んでいたようだった。中田さんは午後の打ち合わせが全部終わってから帰ったはずだ。その後私はオフィスでデスクワークをしていたので、軽く一時間以上過ぎているはずだ。


「やぁ、思ったより早かったね」


「いったいどうしてっ」


「待ってるって言っただろ?忘れたのか? ほら、昼飯食ってるときに」


「あ・・・」


 さらっと受け流してしまうほどの約束だったし、私も返事などしていない。それなのに彼は待っていたのだ。


 携帯を気にすると、相変らず、久保さんからのメールはない。


「? どうかしたの? 先約でもあった?」


「い、いいえ!」


 久保さんのと約束の事はとても言えず、私は慌てて首を横に振った。すると中田さんは、優しく笑った。


「そっか、じゃ、行こうか?」


 そう言って差し出された手は、とても温かく、一瞬で心がほぐれていった。


「甘いもの・・・」


 少し小さな、呟くような声で、中田さんがそう言った。


「え?」


「食べたくない?」


 時間を見ると、夕食には早すぎるし、おやつの時間を超えたくらいだ。


「俺のストレス発散。ちょっと付き合ってよ!」


 手を引かれ、私は彼に手を引かれるようにビルを出た。





 歩く事数分、着いたのは、とあるホテルのティールームだった。


「よかった。間に合った」


 ここは、ランチタイムが終わってからディナーメニューが始まるまでの時間、ケーキバイキングをしている。


 ケーキバイキング、といっても、女子高生や甘いもの好きな10代の子がたむろすようなケーキバイキングではない。ホテルのティールームのケーキバイキングで、雑誌やテレビでも取り上げられる程、味も評判も良い。時間によっては、ゆうに一時間待ち当たり前なケーキバイキングだ。


 けれど、今の時間は、お客さんも一段落ついて、店の中も空いていた。


「ちょうど、この時間、穴場なんだ」


「よく・・来られるんですか?」


「まあね、落ち込んだり、煮詰まったときに」


「・・・中田さんでも・・・落ち込む事、あるんですか?」


 別にふざけて聞いたつもりはない。ただ、いつも明るくて、その場の空気を明るく温かいものにしてしまい、他人への気遣いを忘れない彼が、落ち込んでいる姿が想像できないのだ。


「俺だって落ち込む事位あるよ」


 私の失礼な質問に、彼は丁寧に答えてくれた。


「お一人で?」


 ケーキバイキングに男性が一人で? ちょっと想像すると珍しい光景だ。


「女子のお一人様だっているんだ。スイーツ男子のお一人様がいたって悪くないだろ?」


 半ば開き直ったようにそう言うと、慣れた様子で店に入って行った。慌てて私も彼の背中を追いかけた。


 ウェイターさんは、中田さんの顔を見て、まるで常連さんを扱うような笑顔になった。それを見ただけで、彼が本当に頻繁にここを訪れていることが伺える。


「さて、行くか」


 空いているせいか、窓際の眺めの良い席に通された。その席にちょっと落ち着くと、彼はそう言い、ケーキが並んでいるところに向かった。慌てて私もついてゆくと、ケーキの、一番大きなプレートを二枚取って、一枚私に差し出した。


 ゆうに、市販のケーキが5,6個、楽に並ぶほどの大きさのプレートだ。


「お勧めはね、あのチョコケーキ。あと、クレープとかもお勧めだな。目の前で焼いてくれるんだ。


あと、シュークリームとエクレア!他のケーキと比べて地味だけど、食べたら止まらなくなるくらい美味しいよ!」


 彼は嬉しそうにケーキをプレートに並べた。私もそれに倣って、気の赴くままにケーキをプレートに並べた。


 季節のフルーツを使ったタルト、色とりどりのフルーツがデコレーションされているケーキ、ゼリーやプリン、アップルパイ、日替わりのシフォンケーキ、クリームがはみ出るほど詰め込んであるエクレア・・・


 あっという間に、私のプレートはケーキで一杯になった。隣に立つ中田さんの顔を見ると、彼の顔も本当に楽しそうで、プレートには崩れそうなほど、ケーキが並べてあるけれども、美意識がしっかりしているのか、とてもきれいに盛りつけてある。


 私の中の男性の先入観・・・男の人が食べ放題に来たときに、綺麗にお皿に並べることが出来ない・・・とは程遠い光景だ。(当たり前だ。私は異性と一緒に食べ放題なんて来たことない)


 偶然視界に入った、彼の向こう側にいる中年女性のプレートには、彼と同じくらいの量のケーキが乗っているけれど、どれもぐちゃぐちゃで、倒れてしまっている。それ以上に食べたい、という食欲が勝っているようで、倒れたケーキの上にさらにケーキを乗せようとしている。

 

 さすがに私はそこまで食べる気になれず、そろそろ席に戻ることを彼に言おうとしたとき・・・


「あ・・チーズケーキ・・・」


 さすがケーキバイキング、定番のケーキもしっかりとラインナップされている。しかもチーズケーキだけで数種類もある。ベイクド、レア・・・美味しそうなソースでデコレーションされているものもある。


 不意に、甘さ控えめなチーズケーキしか食べられない久保さんが脳裏をよぎった。


 ここは、甘いものが苦手な久保さんが絶対に現れないであろう場所で、そんな場所で彼を思い出してしまうのだから、私も相当重症だ。


「・・・どうかしたの?」


 突然動きが止まった私を心配してくれたのか、彼が私の顔を覗き込んだ。


「いいえ!なんでもないです!!」


私は慌てて、頭の中から久保さんを追い出した。今は中田さんと一緒にいるのに、久保さんのことを考えてしまうなんて不謹慎だ。


「チーズケーキ、好きなの?」


「えっ・・・まあ・・・」


 曖昧に返事すると、中田さんはその中から一種類を選んで、トングで挟むと、私のプレートの端にそれを丁寧に置いた。


 選んでくれたのは真っ白いレアチーズケーキで、真っ赤なフルーツソースがトッピングされている。ソースが一輪のバラみたいな形だった。


「俺のお勧め。良かったら食べてみてよ」


 彼はにっこり笑ってそう言った。


 久保さんの好きなのとは違うチーズケーキだった。


 久保さんが好きなのはベークドチーズケーキで、粉砂糖を振りかけただけの、もっとシンプルなものだった。


「あ、ありがとう・・・ございます・・・」


 思わぬ出来事にそう言うと、彼は"どういたしまして"といつもの笑顔で言ってくれた。その笑顔に、心が少し、ほぐれた。


 (この人の笑顔、反則・・・)


 その笑顔を見ながら、そう思った。


 笑顔一つで他人の心を柔らかくしてしまうのだ。私にはできない・・・そう、まるでスイーツみたいな人だ。


 プレート一杯にケーキを盛りつけた私と、プレート二枚にケーキを私以上に盛り付けた彼が席に戻ったとき、テーブルの上は華やかな光景になっていた。


「じゃ、食べようか?」


 私達は同時にいただきます、と言って、ケーキを頬張った。


「・・・・美味しい!」


 さすが評判のケーキバイキング。味も、その辺の安物と違って、甘すぎず、個性があっておいしかった。


「だろ?」


 彼も嬉しそうにケーキを食べている。嬉しそうに頬張っているけれど、食べ方は並の男性以上に綺麗だし、絵になっている。


「でも、よかった」


 中田さんが、私の顔を見て、ほっとしたようにそう言った。


「何がですか?」


「・・・沙織ちゃんが、やっと笑ってくれた」


 その言葉に、私は軽く息を飲んだ。


「昼間の一件から、沙織ちゃん、ずっと笑ってなかったから、森野の言葉、気にしてるんだって、心配してたんだ」


 中田さんにそう言われて、私は苦笑いした。


「そりゃ、気になりますよ」


「"何も作り出せない存在"って奴? 気にするなよ」


 そうは言われても、気にならないわけがない。


「中田さんは、作り出す側の人じゃないですか。

 作り出せない私から見たら、羨ましいです」


 半分、僻みも混ざっていた。そう・・・中田さんだってイラストレーターをしている・・・何かを作り出す側の人なのだ。


「才能が偏ってるんだよ。俺も、森野も久保も。偏ってるからこそ、クリエイターとしてしか、生きていけない」


 すると、彼は真顔で話してくれた。


「無から有を作り出す才能と、翻訳する才能は、別ものだと思う。

 作り出す才能があるからって、それがない人を貶めるのは変だろ?


 沙織ちゃんには、作り出す才能の代わりに、翻訳する才能がある。

 それだけの事だよ。


 ただ、森野にとっては、“作り出す”才能が特別なものだと思いこんじまったところがあるんだ。


 最年少で芥川賞受賞、なんて経歴が、才能や周囲の能力を客観的に見るのを邪魔しちまって。

 自分の才能が特別だ、なんて思って磨くのを辞めた時、才能はそれ以上伸びない。ただの邪魔なものになる・・・


 俺はそう思ってる」


 中田さんの眼は、私をまっすぐに見ていた。


「井原さんは、埋もれていた君の才能を見抜いて、磨こうとしているんだ。

 俺は才能を見抜く目なんて持ってないけど、あの人は、俺以上によく人を見てる。好き嫌いとか、個人的感情抜きにして・・・沙織ちゃんの中に、翻訳家として必要不可欠な何かを見出したんだと思う・・・


 それだって、俺や森野たちにはない、立派な才能だと思うんだ。


 何も作り出せないんじゃないよ。作り出す事が全てじゃない。


 沙織ちゃんは、久保や森野が作った、紙に書いただけの文章の作り物を、無意識に、頭の中でちゃんと映画みたいな映像にして、違う言語に文章化できるんだよ?


それは、俺が挿絵を描くスキル以上の才能だと思うんだ」


いつになく、中田さんは真面目にそう言った。


「どっちにしても、森野の言葉は気にするなよ。

世の中には、他人を蔑む事で、自分の居場所を再確認するような奴だっている」


「ん・・・」


それは私にもよく分かる。前にいた企業でも、私が英語力だけで自分自身の居場所を確立していたせいか、周囲に僻まれた事もあった。


過去の雑念を飲み込むように、私はフォークでエクレアを突き刺して食べようとしたけど、上手く切れない。


そんな私を見ながら中田さんはフッと笑うと、ペーパーナプキンを片手に手が汚れないようにエクレアを両手で持つと、大きな口を開けてエクレアにがぶりついた。


彼の口元には、少しだけカスタードクリームがついたけど、彼は幸せそうに笑っている。お上品、とはかけ離れた食べ方だったけど、私は子供みたいなその仕草と表情に、思わず吹き出して笑ってしまった。


そして私もまた、フォークを置くと、彼の真似をして大きな口を開けてエクレアを食べた。不思議と、フォークで食べるよりも美味しく感じた。そして、たったそれだけで、動けなく固まっていた心がふっと、自由になった気がした。


「少なくとも俺は・・・才能で人を好きにはならない。

沙織ちゃんが翻訳も英語スキルもない、ただのOLさんだとしても、好きになってる」


彼はどさくさに紛れていつかの告白の事を蒸し返した。


「え・・・」


返す言葉を失った私は、再び噛みつこうとしたエクレアを食べ損ない、彼を見ながら固まった。


にやり、中田さん独特な、その場の空気を明るくするあの笑顔が、私を見ていた。


「ねえ、沙織ちゃん?」


「は、はいっ!」


改まって名前を呼ばれて、私は思わず背筋を伸ばした。


「賭け、しようか?」


「か、賭け?」


そう言うと中田さんは、カバンの中から一通の封筒を取り出し、私の前に差し出した。


「それ、開けてみて?」


促されるままに、私はその封筒を開けてみた。まるで結婚式の招待状のような立派な封筒で、単なる業務連絡等で貰う事務封筒のような安っぽいものではない。


既に封は開けてあって、私はその中にある紙を取り出した。


中には、S出版社主催のクリスマスパーティーの招待状が入っていた。


驚いて息を飲んだ。


S出版社は、うちの出版社とは比べ物にならない程大きな出版社だ。


「俺、S出版の仕事もしてるから、こういうパーティーにはよく招待されるんだ。久保も、デビューしてから毎年招待されてる。


君も来ないか?」


S出版社のクリスマスパーティー?


この業界一番の大手で、刊行雑誌数も桁外れに多い。その雑誌は、子供向けのコミックから週刊誌、私のような年代の女性がターゲットの流行雑誌や男性誌、ミステリーから純文学、ほぼ全てのジャンルの本を取り扱っている超大手出版社だ。刊行雑誌など、数えだしたらきりがないし、出版業界に就職していなくても、名前を知らない人などいないだろう。


そのS出版社のクリスマスパーティーの招待状? 私に行かないかと?


パニックを起こしている私に、中田さんは言葉を続けた。


「そんな難しく考えなくていいよ。招待受けたのは俺だけど、同伴も良いって言われてるし、奥さん連れとか恋人連れもいるよ?」


「は、はぁ・・・」


展開について行けないまま、彼は話を続けた。


「久保も招待されてる。もちろん森野も」


意味深に、彼は言った。途端に彼の目は真剣になった。私が逃げるのを許さない、そう言いたげに。


「そこで、久保と決着をつけてみる?


それができなかったら・・・きっぱり久保の事は諦めて、俺と付き合う・・・ってのはどうだ?」


「け、決着?」


展開について行けない。つまり彼は、このパーティーの時、久保さんに告白しろと言ってるの?


もともと、次に会った時には告白して、潔く振られようと思っていた。でも、いざこうして 日時設定までされてしまうと、今までの曖昧さと違って、現実味を増してくる。


「もしも、その日・・・なんら決着がつかなかったり、君が久保に振られたら、諦めて、俺と付き合って?」


改めて招待状を見ると、そのパーティーまで一ヶ月ちょっとある。しかもイブの夜だ。小説やドラマだったら、告白には絶好のチャンス・・・だけど、現実と夢の世界の歴然とした差が横たわっている。


「しっかり、この日に・・・って決めちゃった方が、ズルズル中途半端な関係を続けるより、ずっとマシだと思うよ?


現に、今日だって、森野の君に対する暴言を、久保は止めなかった。久保が君のことを、どう思っているかも解らない状態で、人間関係が続くと思うか?」


返答に困って、私は俯いた。手元には,食べかけのエクレアが、トッピングのチョコレートがすでに溶けかかっている。テーブルのプレートには半分以上残ったケーキがある。彼が選んでくれたレアチーズケーキは、手つかずのままだ。


「久保に、君を見る目が無かった。森野に尻に敷かれて流されてる、それだけだ。

で、俺のほうが久保よりずっと、君を見る目があるってこと。

判る?」


 まっすぐに私を見つめている彼と、目を合わせられない。目を合わせたら、そのまま、この人の笑顔に飲み込まれそうだ。


 どうせ久保さんには振られるつもりだった。振られるつもりで告白しようとしていた・・・そのパーティーで久保さんに振られて・・・そんな状態で中田さんと付き合える?


 確かに中田さんはすごくいい人だ。優しいし、明るくて、この人といると楽しいし、自然に笑顔になれる。でも・・・それは恋愛とは違う想いのような気がする。


 私の中の恋愛は・・・


 恋愛は・・・



 瞬間思い出したのは、


 久保さんと初めて会った、行きつけのブックカフェ。


 再会した図書館裏のカフェや、レッスン帰りのカフェ。

  

 倒れたときに家に来て、看病してくれた彼。


 一緒に彼の部屋で楽器を演奏した時・・・



 楽しい気分になるよりも、心のどこかが同じ音で共鳴した。その共鳴が、心地よかった。


 だから・・・恋に落ちた。


 童話の世界しか興味のなかった、合コンや飲み会一つ、行くのが嫌な人見知りな私が。


 目の前で笑顔をくれる、誰よりも笑顔がステキな人よりも、心が共鳴する人に、恋に、落ちた。


 報われる、倖せになれる恋よりも、報われない相手に、惹かれてる。


「久保に振られたなら、君が俺を断る理由なんかないだろ?

 俺だったら、君を泣かせたりしない」


 そんな私の想いに、追い打ちをかけるように、中田さんは言った。


 笑顔はない、真面目な顔だった。この話が冗談ではなく、本気だという事だろう。


 その真面目な顔に気圧されるように、私は覚悟を決め、頷いた。


「・・・判りました・・・」


 私の返事に、中田さんは満足したように笑顔になった。でも、彼はその笑顔をすぐに収めた。



「あと・・・今日森野に言われたことは、本当に気にするなよ?

間違っても、君自身が“何かを作り出そう”なんて考えちゃダメだ」


「なんで・・・ですか?」


 もともと、何かを書いたり創作じたりする才能など、私にはない。やろうとしたことさえ、ない。そんな私に、彼は言葉を続けた。


「作家もイラストレーターも、それを仕事に選んだ瞬間から、書けなくなった時の恐怖と背中合わせで生きる宿命を背負うんだ。

現に今、森野がその恐怖が現実になっている。俺や久保だって、そんなこと何度もあった。


でも、“創作する事”を選んだ以上、それを乗り越える力も絶対必要なんだ。

口で言うほど綺麗なもんじゃない。描きたくなくても、描けなくても、それでも血反吐を吐くような思いで作品を仕上げる事だってある。それを出版側で否定された時のショックなんか、人格全てを否定されたような絶望だ。


それを乗り越える力を持った奴だけ、文壇やイラスト界で生き残れるんだ。外側から見えるほど、綺麗な世界じゃないし・・・誰にでもできる事じゃない。


俺だって、数えきれないくらい、ぶち当たってきた。乗り越えたところで、それを口で説明して理解を求められるものじゃないし、綺麗事でもない。


そんな業界で、君の夢の世界を汚したくない。

君の夢世界が潰れたら、君自身が壊れる」


 彼はそう言いきった。


 ああ、この人も。


 この人もまた。


 森野さんみたいに苦しみもがき、書けなくなる恐怖と紙一重の世界で、作品を描いているのだ。


 周囲を幸せにする、王子様みたいな優しい笑顔の裏で、足掻き苦しみながら、人々を魅了する絵を書き続けているんだ・・・


 私には・・・到底まねできない世界の人・・・なんだ・・・


人懐っこくて、いつも優しい笑顔で、私なんかの事を好いてくれている彼は、私など到底及ばない高いところで、イラストを描き続けている、ということだ。


 私の返事を待つ彼に私は頷いた。


「心配しないでください。

 今は翻訳で手いっぱいなんです」


 そう言うと、彼は、ほっとしたように笑った。


その日、中田さんは森野さんのことや久保さんのことを話には出さなかった。ただ、おすすめケーキと肩のこらない世間話だけを選んでくれていた。それが、彼なりの優しさだという事は痛いほど解り、改めて、私の心は2人の異性の間を彷徨った。





三角関係。


ドラマや小説に出てくるシチュエーション。普通の女子にとって、憧れがないと言ったら嘘になる。


でも、いざ当事者になると、憧れから程遠い世界だ。


私は、久保さんが好きだけど、久保さんは森野さんと公認の仲。横恋慕もいいところだ。


そして、中田さんは私の事を好いてくれているけど、私は、久保さんに、叶わない片思いしている。


いっそ、久保さんへの思いはなかった事にして、目の前にいる、優しく笑う人と付き合ってしまおうか? そう思うけれど、そう思えば思うほど、久保さんとの、決して多くはないやり取りが、胸に突き刺さって、離れてくれない。


久保さんに振られてしまえば、諦められるの?


ううん、それこそ未練だらけになりそうだ。でも、このままの中途半端な関係で続ける自信も、ない。こんなにも脆い三角関係、続けたら私がどうにかなってしまいそうだ。


美味しいスイーツでお腹は一杯になったけど、久保さんの事を思うと、スイーツの満足感が体から抜けてしまいそうだった。



明日もお互い仕事があるから、と私たちはケーキバイキングの時間が終わると同時に別れた。


「それじゃ、また!」


「次にお会いするのは、また打ち合わせの時ですね」


「そうだね。それまでラフスケッチ、何枚か書いておきます。今日、君に大体のあらすじ聞いて、イメージは出来たからさ」


「よろしくお願いします」


最後は、仕事の時の彼をオフィスから送り出すときと、さほど変わらなかったのは、彼とは仕事で会う頻度が多いからだし、これからもこう言った事は増えるだろう。


 次に会う約束などしなくても、嫌でも顔を合わせるだろう。ましてや今回の仕事相手が中田さんなら、気心も知れてるし、仕事の進め方の癖もわかっているので大歓迎だ。


 そう言ってあいさつを交わして別れたとき、不意に、久保さんとの別れが気になった。


 いつごろからだろう。久保さんは、別れ際、曖昧に次に会う約束をしていた。


"週末は、いつもこのカフェにいるから"


"初めて会ったカフェで待っている"


"明日、仕事の後、会えないか"


 曖昧な約束・・・・・まるで、これで会うのが終わりの筈なのに、それを必死に先延ばししているようだった。


 その言葉に一喜一憂しながら、私は次に久保さんに会えるのを心待ちにしていた・・・


 約束なんかしなくてもちゃんと会えることが判っている中田さん。


 曖昧な約束で、一喜一憂しながら久保さんと会っていた、私・・・


 中田さんの想われていることが、申し訳なく恐れ多くて。


 久保さんを想うことが、こんなにも切なくて、胸が痛む・・・


 みんなが憧れて夢見る恋愛の現実、しかも恋愛小説にありがちない三角関係のような心境が、こんなにも苦しいなら・・・いっそ、2人とは、出会わなければよかったかもしれない・・・・


 帰りに、コンビニでおにぎりを買った。ケーキバイキングでお腹いっぱいだけど、この後、家で翻訳の調べ物があるので、夜食代わりだ。


コンビニ袋を下げながら、最後にもう一度、メールチェックをしたけれど、久保さんからのメールは、結局来なかった。


 その現実を目の当たりにしながら、私はまた深いため息をついた。


 そう、現実なんてこんなもの。童話や物語の世界の様に、上手くいくわけがないのに・・・


 ハッピーエンドで幸せな結末を見るのは、結局夢の世界だけだ。

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